蔵書034『特別な約束』
アルバイト先の、一つ年上の康弘さん。
彼とシフトが被る深夜帯は、私にとって、週に二度の秘密のご褒美みたいな時間だった。
閉店後の片付けをしながら交わす、他愛ない会話。客に出すには少し失敗してしまった賄いのパスタを、二人でこっそり分け合って笑ったこと。
私が仕事でミスをして落ち込んでいると、彼はいつも「大丈夫、俺も最初はそうだったって」と、優しい言葉と一緒に、内緒でラテアートを描いたカプチーノを淹れてくれた。
他の誰にも見せない、特別な優しさ。二人だけの、秘密の共犯関係。
私はそんな彼に、いつからか、どうしようもなく惹かれていた。
その「約束」が交わされたのは、三週間前の金曜日だった。
新人バイトの大きなミスを私と康弘さんでカバーして、閉店作業が終わったのは、深夜一時を回っていた。二人とも、くたくただった。
「由奈ちゃん、マジでお疲れ。今日、いてくれて助かったわ」
店の裏口で、夜空を見上げながら康弘さんが言った。
「いえ、私も、康弘さんがいてくれて心強かったです」
「なんか、ご褒美あげないとな。……そうだ」
彼は悪戯っぽく笑うと、私に向かって言った。
「今度、俺ん家で一緒に映画でも見ようぜ。ピザでも食いながら、ダラダラとさ」
家。二人きり。映画。
それは、どう考えてもデートの誘いだった。私のこの一年間の片想いが、ついに報われる瞬間。
「……はい! 行きたいです!」
それからの三週間、私は夢見心地だった。
彼とメッセージをやり取りして、約束の日を今日の土曜日に決めた。何を着ていこうか、どんな手土産を持っていこうか。雑誌をめくり、ネットで彼の好きそうなものを調べる時間は、人生で一番幸せだったかもしれない。
そして、約束の夜。
私は少しだけお洒落をしたワンピースの上に、カーディガンを羽織った。手には彼が好きだと言っていた、少しだけ高級なビールと、おつまみのチーズが入った紙袋。
彼のマンションの前に立ちインターホンを鳴らす指が、期待と緊張で、少しだけ震えた。
『はーい』
スピーカーから、彼のいつもと変わらない少しだけ眠そうな声が聞こえる。
「……バイトの、結城です」
『お、由奈ちゃん! 今開ける!』
オートロックが解除される音が、恋の始まりを告げるファンファーレのように聞こえた。
エレベーターで三階へ。彼の部屋の前に立つと、ドアがゆっくりと開いた。
「よっ、いらっしゃい!」
彼はTシャツにスウェットというラフな格好で、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべていた。
ああ、本当に、この人のことが好きだ。
そう、思ったのに。
彼の背後、部屋の奥から、私の知らない男女の大きな笑い声が聞こえてきた。
テレビの音。グラスがぶつかる音。ピザの匂い。
「え……?」
私が状況を理解できずに立ち尽くしていると、康弘さんは私の顔を覗き込んで、あっけらかんと言った。
「あ、ごめん、急に大学のツレたちが来ちゃってさ。気にせず、入って入って!」
部屋の中には私と同い年くらいの男女が、四人。床に座り込み、缶チューハイ片手にお笑い番組を見て盛り上がっていた。
私の姿に気づいた一人が、「お、この子が噂の新人ちゃん? 康弘がいつも、仕事できて助かるって言ってたよ!」と声をかける。
康弘さんは、私の手にある紙袋を見て、「え、マジで? なんか買ってきてくれたの? 気ぃ使わなくていいのに!」と笑う。
違う。
違う、違う、違う。
「宅飲み」
その言葉が、頭の中でぐわんと大きく響いた。
そうだ、これは、ただの「宅飲み」なんだ。
彼はただ、バイト先の仕事のできる後輩を、友達が集まる飲み会に気軽に誘っただけ。
「一緒にネトフリ見ようぜ」
あの提案に特別な意味なんて、何もなかった。
恋の始まりだなんて舞い上がって、一人で勝手に勘違いして、お洒落までして来てしまった私が、馬鹿なだけ。
「じゃあ、映画でも見るかー!」
誰かが言うと、テレビの画面が切り替わった。多数決で決まったのは、私が全く興味のない派手なアクション映画だった。
部屋の明かりが消される。私は部屋の隅っこで膝を抱えながら、ただ、画面の光が明滅するのをぼんやりと眺めていた。
隣では康弘さんが、別の女の子と「この俳優、かっこいいよね」「わかるー!」なんて、楽しそうに話している。
私が夢見ていた、二人きりソファに並んで、肩を寄せ合って見る甘いラブストーリーは、どこにもなかった。
どれくらい時間が経っただろう。
私はほとんど喋ることもできず、「すみません、明日、朝早いので」と、ありきたりの嘘をついて彼の部屋を抜け出した。
「え、もう帰んの? またいつでも来いよな!」
玄関まで見送りに来てくれた康弘さんの、最後まで悪意のない優しい声が、私の心を粉々に砕いた。
マンションを出て冷たい夜道を一人、とぼとぼと歩く。
楽しそうな笑い声が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
私の、年分の片想いは、たった数時間で、惨めな勘違いに変わってしまった。
約束なんて最初から、どこにもなかったんだ。
そう気づいた私の頬を、涙ではなく乾いた冬の夜風が、ただ、静かに撫でていった。




