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失恋図書館  作者: N.H
34/50

蔵書034『特別な約束』


 アルバイト先の、一つ年上の康弘さん。


 彼とシフトが被る深夜帯は、私にとって、週に二度の秘密のご褒美みたいな時間だった。


 閉店後の片付けをしながら交わす、他愛ない会話。客に出すには少し失敗してしまった賄いのパスタを、二人でこっそり分け合って笑ったこと。


 私が仕事でミスをして落ち込んでいると、彼はいつも「大丈夫、俺も最初はそうだったって」と、優しい言葉と一緒に、内緒でラテアートを描いたカプチーノを淹れてくれた。


 他の誰にも見せない、特別な優しさ。二人だけの、秘密の共犯関係。


 私はそんな彼に、いつからか、どうしようもなく惹かれていた。


 その「約束」が交わされたのは、三週間前の金曜日だった。


 新人バイトの大きなミスを私と康弘さんでカバーして、閉店作業が終わったのは、深夜一時を回っていた。二人とも、くたくただった。


「由奈ちゃん、マジでお疲れ。今日、いてくれて助かったわ」


 店の裏口で、夜空を見上げながら康弘さんが言った。


「いえ、私も、康弘さんがいてくれて心強かったです」

「なんか、ご褒美あげないとな。……そうだ」


 彼は悪戯っぽく笑うと、私に向かって言った。


「今度、俺ん家で一緒に映画でも見ようぜ。ピザでも食いながら、ダラダラとさ」


 家。二人きり。映画。

 それは、どう考えてもデートの誘いだった。私のこの一年間の片想いが、ついに報われる瞬間。


「……はい! 行きたいです!」


 それからの三週間、私は夢見心地だった。


 彼とメッセージをやり取りして、約束の日を今日の土曜日に決めた。何を着ていこうか、どんな手土産を持っていこうか。雑誌をめくり、ネットで彼の好きそうなものを調べる時間は、人生で一番幸せだったかもしれない。


 そして、約束の夜。


 私は少しだけお洒落をしたワンピースの上に、カーディガンを羽織った。手には彼が好きだと言っていた、少しだけ高級なビールと、おつまみのチーズが入った紙袋。


 彼のマンションの前に立ちインターホンを鳴らす指が、期待と緊張で、少しだけ震えた。


『はーい』


 スピーカーから、彼のいつもと変わらない少しだけ眠そうな声が聞こえる。


「……バイトの、結城です」

『お、由奈ちゃん! 今開ける!』


 オートロックが解除される音が、恋の始まりを告げるファンファーレのように聞こえた。

 エレベーターで三階へ。彼の部屋の前に立つと、ドアがゆっくりと開いた。


「よっ、いらっしゃい!」


 彼はTシャツにスウェットというラフな格好で、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべていた。

 ああ、本当に、この人のことが好きだ。


 そう、思ったのに。


 彼の背後、部屋の奥から、私の知らない男女の大きな笑い声が聞こえてきた。


 テレビの音。グラスがぶつかる音。ピザの匂い。


「え……?」


 私が状況を理解できずに立ち尽くしていると、康弘さんは私の顔を覗き込んで、あっけらかんと言った。


「あ、ごめん、急に大学のツレたちが来ちゃってさ。気にせず、入って入って!」


 部屋の中には私と同い年くらいの男女が、四人。床に座り込み、缶チューハイ片手にお笑い番組を見て盛り上がっていた。


 私の姿に気づいた一人が、「お、この子が噂の新人ちゃん? 康弘がいつも、仕事できて助かるって言ってたよ!」と声をかける。


 康弘さんは、私の手にある紙袋を見て、「え、マジで? なんか買ってきてくれたの? 気ぃ使わなくていいのに!」と笑う。


 違う。


 違う、違う、違う。


「宅飲み」


 その言葉が、頭の中でぐわんと大きく響いた。


 そうだ、これは、ただの「宅飲み」なんだ。


 彼はただ、バイト先の仕事のできる後輩を、友達が集まる飲み会に気軽に誘っただけ。


「一緒にネトフリ見ようぜ」


 あの提案に特別な意味なんて、何もなかった。


 恋の始まりだなんて舞い上がって、一人で勝手に勘違いして、お洒落までして来てしまった私が、馬鹿なだけ。


「じゃあ、映画でも見るかー!」


 誰かが言うと、テレビの画面が切り替わった。多数決で決まったのは、私が全く興味のない派手なアクション映画だった。


 部屋の明かりが消される。私は部屋の隅っこで膝を抱えながら、ただ、画面の光が明滅するのをぼんやりと眺めていた。


 隣では康弘さんが、別の女の子と「この俳優、かっこいいよね」「わかるー!」なんて、楽しそうに話している。


 私が夢見ていた、二人きりソファに並んで、肩を寄せ合って見る甘いラブストーリーは、どこにもなかった。


 どれくらい時間が経っただろう。


 私はほとんど喋ることもできず、「すみません、明日、朝早いので」と、ありきたりの嘘をついて彼の部屋を抜け出した。


「え、もう帰んの? またいつでも来いよな!」


 玄関まで見送りに来てくれた康弘さんの、最後まで悪意のない優しい声が、私の心を粉々に砕いた。


 マンションを出て冷たい夜道を一人、とぼとぼと歩く。


 楽しそうな笑い声が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。


 私の、年分の片想いは、たった数時間で、惨めな勘違いに変わってしまった。


 約束なんて最初から、どこにもなかったんだ。


 そう気づいた私の頬を、涙ではなく乾いた冬の夜風が、ただ、静かに撫でていった。


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