蔵書025『理想の恋人』
樹くんとの暮らしは、穏やかな陽だまりのようだった。
二人で住むこの小さなアパートの窓からは、いつも柔らかな光が差し込む。私が仕事で疲れて帰ると、彼は決まって「おかえり」と優しい笑顔で迎えてくれ、温かいココアを淹れてくれるのだ。
「今日は大変だったんだね。少し顔がこわばってるよ」
彼は私の手を取り、大きな手のひらでそっと包み込む。それだけで、一日の疲れやささくれ立った心が、ふわりと解けていくのがわかる。
私より少し背の高い彼に見上げられながら話を聞いてもらう時間が、何よりも大切だった。
休みの前の夜は、二人で映画を観るのがお決まりだ。ソファに隣り合って座り、一つのブランケットを分け合う。
物語の結末を予想し合っては笑い、悲しい場面では、彼の肩にこっそり涙を押し付けた。映画が終わる頃には、私は決まって彼の腕の中で眠ってしまっている。
樹くんは、私の好きなものを全部知っていた。
私が落ち込んでいる時には、必ず帰りに駅前のケーキ屋さんに寄ってショートケーキを買ってきてくれること。
私が作る少し味の濃い唐揚げを、世界で一番美味しいと言ってくれること。
私が本当は、強い自分を演じているだけの、泣き虫なことも。
完璧な彼との毎日。幸せすぎて、時々怖くなるほどだった。
ただ一つ、不思議なことがあった。
毎朝、目を覚ます時。
カーテンの隙間から差し込む美しい朝日に、隣で眠る彼の穏やかな寝息。小鳥のさえずり。
完璧な朝の風景の中で、なぜか私の頬にはいつも、一筋の涙が伝っているのだ。
「……また、悲しい夢でも見た?」
私の涙に気づいた彼が、心配そうに髪を撫でてくれる。
「ううん、違うの」
慌てて涙を拭う。
「あまりに幸せで、泣けてきちゃうのかも」
そう言って笑うと、彼は「なんだよ、それ」と愛おしそうに私を抱きしめてくれた。
彼の胸に顔を埋めながら、私は自分の涙の理由がわからなかった。こんなにも満たされているのに、どうして胸の奥が、きゅっと締め付けられるように痛むのだろう。
まるで、夜の間に何かとても大切なものを失くしてしまったかのような、喪失感。
でも、目を覚ませば彼はここにいる。失くしたものなんて、何一つないはずなのに。
そんな日々が続いて一年が経った、記念日の夜。
彼は私を、丘の上の公園に連れて行ってくれた。眼下には、宝石を散りばめたような美しい夜景が広がっている。
「琴美」
不意に、真剣な声で私の名前を呼んだ。心臓が、どきりと音を立てる。
彼がゆっくりと私の前に跪き、小さな箱を差し出した。
「僕と、結婚してください。これからもずっと、君の隣で笑っていたい」
箱の中で、小さな指輪がきらりと光る。
頭が真っ白になり、言葉が出てこない。
ただ、涙だけがぼろぼろと溢れ出した。今度の涙は、悲しい涙なんかじゃない。心の底から湧き上がる、幸福の涙だ。
「……はい」
頷くのが精一杯だった。彼は優しく立ち上がると、私の指にそっと指輪をはめ、壊れ物を扱うように抱きしめてくれた。
「これからは、毎朝君の涙を僕が止めてあげる。絶対に、幸せにするから」
その夜は、一睡もできなかった。薬指にはめられた指輪の、ささやかな重みを感じながら、何度も彼の顔を見つめた。
この人が、私の家族になる。この陽だまりのような毎日が、永遠に続くんだ。
夜が明け始め、窓の外が白んでくる。
ああ、もうすぐ朝が来る。いつもなら少しだけ胸が痛む夜明けが、今日だけは待ち遠しかった。早く、最高の朝を彼と迎えたい。
「樹くん、起きて。朝だよ」
隣で眠る彼の肩を、そっと揺する。
「結婚して初めての朝だね」
微笑みながら、私は彼の頬に触れようと手を伸ばした。
―――その瞬間、私の指先は、するり、と彼の頬を通り抜けた。
「え……?」
手応えがない。
驚いてもう一度触れようとすると、彼の姿が陽炎のように、ふっと揺らめいた。
優しい寝顔が、ゆっくりと薄れていく。私たちの部屋が、ソファが、窓から見える景色が、水彩絵の具のように滲んで、溶けていく。
『琴美が、泣かずに朝を迎えられるようにならなきゃ』
不意に、彼の声が頭の中に直接響いた。
いつもの優しい声なのに、ひどく悲しい響きをしていた。
やめて、消えないで。どこにも行かないで。
叫びたいのに、声が出ない。伸ばした手は空を切るばかり。
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ……
無機質な電子音が、私の意識を現実へと引きずり戻していく。
ハッと目を開けると、そこは見慣れた私の部屋だった。がらんとした、ワンルーム。セミダブルのベッドには、私一人。隣に彼の温もりはなく、部屋に彼の気配はない。
左手を見つめる。そこに、指輪はなかった。
鳴り響くアラームを、震える手で止める。窓から差し込む朝の光は、いつもと変わらず穏やかで、美しい。
完璧な朝の光の中で、私はようやく、全てを理解した。
樹くんも、二人で暮したあの日々も、プロポーズも、私の幸せな毎日のすべてが、ただの長い、長い夢だったのだ。
毎朝、私が流していた涙。
それは、幸福の涙なんかじゃなかった。
夢が、終わってしまうから。
目を覚ますと、愛するあなたがどこにもいない、残酷な現実に戻らなければならないから。
私の魂が、別れを悲しんで、泣いていたのだ。
「……おはよう、私」
呟いた声は、嗚咽に変わった。
目を覚ますと誰もいない現実が、何よりも切ない。
陽だまりのような恋は、夜の闇に溶けて消えた。
今日からはもう、泣く理由さえ、私には残されていないのだから。




