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失恋図書館  作者: N.H
24/50

蔵書024『仮想恋愛』


『星降りの庭』


 それは、私のささやかな宝物だった。


 現実の私、高橋沙織は、都内の商社で働く地味な26歳のOL。モノクロのような毎日の中で、唯一色彩を与えてくれるのが、この穏やかなアプリの世界だった。


 そして、その世界には『カイト』がいた。


 黒いコートをまとった銀髪の青年。強くて優し

く、誰もが憧れる存在。


 始めたばかりの私がイベントで困っていた時、「一緒にやらない?」と声をかけてくれたのが彼だった。


 その一言から、私たちの特別な時間は始まった。


 私たちは毎晩のように一緒に過ごした。仮想の森を散策し、育てた花を見せ合い、デジタルな星空を眺めながら、とりとめもない話をした。


 現実では誰にも言えない心の内も、彼にだけは素直に話せた。


『サオちゃんの声、落ち着くな』


 ボイスチャットで、彼が優しく囁く。


『他の誰かとじゃなくて、俺とだけ一緒にいてほしいな』


 ゲーム上のセリフだとわかっていても、私の心を掴んで離さなかった。


「サオちゃんが好きだよ」

「私も……カイトさんが大好きです」


 画面の中のアバターが寄り添い、ハートのスタンプを送り合う。


 データ通信に過ぎなくても、私の心は本気で彼に恋をしていた。仕事中も彼のことを考え、早く夜にならないかと時計ばかり気にしていた。


『なあ、サオちゃん。今度、会わないか?』


 パートナーになって一ヶ月目の記念すべき夜、彼からメッセージが届いた。『直接伝えたいことがあるんだ』と。


 心臓が跳ね上がり、指先が冷たくなる。


 これはもう、画面の中だけの関係じゃない。私たちの想いは、本物なんだ、と。


 週末の土曜日、午後二時、新宿駅東口。


 私はクローゼットの奥から一番お気に入りのワンピースを引っ張り出した。淡いラベンダー色の、普段なら絶対に着ない甘い服。少しでも彼の理想に近づきたかった。


『どんなサオちゃんでも、俺は好きだよ』


 彼の言葉だけをお守りにして、私は待ち合わせ場所へ向かった。


 約束の時間を少し過ぎた頃、「サオちゃん?」と背後から声がかかる。


 振り返ると、メッセージ通りの服装をした、人の良さそうな笑顔の男性がいた。


「カイト、さん……?」

「そう!よかった、会えたな」


 彼は快活に笑った。声は、紛れもなくカイトさんだ。


「俺は、大輝。よろしくな、沙織ちゃん」


 本名を教えてくれたことに胸が熱くなる。現実の彼と、やっと繋がれたんだ。


 その時だった。


「だいきー!ごっめーん、お待たせ!」


 人混みをかき分けて、小柄で華やかな女の子が駆け寄り、ごく自然に大輝くんの腕に絡んだ。


「わりぃ、彼女がトイレ長くてさ」


 彼女……?


 頭が真っ白になり、思考が止まる。


「紹介するよ。アプリで仲良くしてもらってる、沙織ちゃん」


「へえ!あなたが!いつも大輝がお世話になってます、里奈です!」


 里奈と名乗った彼女は、太陽みたいに人懐っこく笑った。


 アプリで、仲良くしてる子。


 無機質な言葉が、心臓に突き刺さる。


「あの……私たち、アプリで……恋人、みたいに……」


 かろうじて絞り出した声に、大輝くんは心底不思議そうな顔をした。そして、困ったように笑いながら、残酷なほど軽い口調で告げた。


「え? ああ、あれ? 本気にしてたの? ゲームの中だけの、おままごとみたいなものだと思ってた」


 おままごと。


 世界から、音が消えた。


 じゃあ、毎晩囁いてくれた「好きだよ」は?

「俺とだけ一緒にいて」という言葉は?


 全部、ただの『おままごと』だったの?


「え、何の話? 大輝、アプリで彼女ごっことかしてんの?ウケる!」


 楽しそうに笑う里奈さんと、二人の間に流れる親密な空気。


 ああ、そうか。本気で恋をしていたのは、私だけだったんだ。


 どうやって家に帰ったのか覚えていない。気づけばワンピースのまま、ベッドで天井を見上げていた。スマホが震え、大輝くんからのメッセージが表示される。


『今日はごめん。彼女いるって言ってなかったもんな。でも、これからもアプリでは大事な友達だから、仲良くしてくれよな!』


 大事な、友達。


 涙も出なかった。胸にぽっかりと穴が空いたようだった。


 私はスマホを手に取り、『星降りの庭』のアイコンを探した。私の宝物だった場所への入り口。


 もう、あの庭には戻れない。


 私が愛したカイトさんは、初めから存在しなかったのだから。


 アイコンを長押しし、表示された×印を迷いなくタップした。


『“星降りの庭”を削除しますか?』


 ホーム画面の壁紙に設定した、満開の桜の下で寄り添う二人のアバターが見える。


「さようなら、カイトさん」


 呟き、震える指で『Appを削除』の文字を押した。


 宝物だった世界への入り口が、あっけなく消える。


 しんと静まり返った部屋で、ようやく一筋の涙が頬を伝った。


 大好きだった。本気で、本当に、大好きだったんだよ。


 本気だったのは、私だけ。


 どうしようもない事実だけが、冷たい現実の重みをもって、私の心に深く沈んでいった。


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