蔵書024『仮想恋愛』
『星降りの庭』
それは、私のささやかな宝物だった。
現実の私、高橋沙織は、都内の商社で働く地味な26歳のOL。モノクロのような毎日の中で、唯一色彩を与えてくれるのが、この穏やかなアプリの世界だった。
そして、その世界には『カイト』がいた。
黒いコートをまとった銀髪の青年。強くて優し
く、誰もが憧れる存在。
始めたばかりの私がイベントで困っていた時、「一緒にやらない?」と声をかけてくれたのが彼だった。
その一言から、私たちの特別な時間は始まった。
私たちは毎晩のように一緒に過ごした。仮想の森を散策し、育てた花を見せ合い、デジタルな星空を眺めながら、とりとめもない話をした。
現実では誰にも言えない心の内も、彼にだけは素直に話せた。
『サオちゃんの声、落ち着くな』
ボイスチャットで、彼が優しく囁く。
『他の誰かとじゃなくて、俺とだけ一緒にいてほしいな』
ゲーム上のセリフだとわかっていても、私の心を掴んで離さなかった。
「サオちゃんが好きだよ」
「私も……カイトさんが大好きです」
画面の中のアバターが寄り添い、ハートのスタンプを送り合う。
データ通信に過ぎなくても、私の心は本気で彼に恋をしていた。仕事中も彼のことを考え、早く夜にならないかと時計ばかり気にしていた。
『なあ、サオちゃん。今度、会わないか?』
パートナーになって一ヶ月目の記念すべき夜、彼からメッセージが届いた。『直接伝えたいことがあるんだ』と。
心臓が跳ね上がり、指先が冷たくなる。
これはもう、画面の中だけの関係じゃない。私たちの想いは、本物なんだ、と。
週末の土曜日、午後二時、新宿駅東口。
私はクローゼットの奥から一番お気に入りのワンピースを引っ張り出した。淡いラベンダー色の、普段なら絶対に着ない甘い服。少しでも彼の理想に近づきたかった。
『どんなサオちゃんでも、俺は好きだよ』
彼の言葉だけをお守りにして、私は待ち合わせ場所へ向かった。
約束の時間を少し過ぎた頃、「サオちゃん?」と背後から声がかかる。
振り返ると、メッセージ通りの服装をした、人の良さそうな笑顔の男性がいた。
「カイト、さん……?」
「そう!よかった、会えたな」
彼は快活に笑った。声は、紛れもなくカイトさんだ。
「俺は、大輝。よろしくな、沙織ちゃん」
本名を教えてくれたことに胸が熱くなる。現実の彼と、やっと繋がれたんだ。
その時だった。
「だいきー!ごっめーん、お待たせ!」
人混みをかき分けて、小柄で華やかな女の子が駆け寄り、ごく自然に大輝くんの腕に絡んだ。
「わりぃ、彼女がトイレ長くてさ」
彼女……?
頭が真っ白になり、思考が止まる。
「紹介するよ。アプリで仲良くしてもらってる、沙織ちゃん」
「へえ!あなたが!いつも大輝がお世話になってます、里奈です!」
里奈と名乗った彼女は、太陽みたいに人懐っこく笑った。
アプリで、仲良くしてる子。
無機質な言葉が、心臓に突き刺さる。
「あの……私たち、アプリで……恋人、みたいに……」
かろうじて絞り出した声に、大輝くんは心底不思議そうな顔をした。そして、困ったように笑いながら、残酷なほど軽い口調で告げた。
「え? ああ、あれ? 本気にしてたの? ゲームの中だけの、おままごとみたいなものだと思ってた」
おままごと。
世界から、音が消えた。
じゃあ、毎晩囁いてくれた「好きだよ」は?
「俺とだけ一緒にいて」という言葉は?
全部、ただの『おままごと』だったの?
「え、何の話? 大輝、アプリで彼女ごっことかしてんの?ウケる!」
楽しそうに笑う里奈さんと、二人の間に流れる親密な空気。
ああ、そうか。本気で恋をしていたのは、私だけだったんだ。
どうやって家に帰ったのか覚えていない。気づけばワンピースのまま、ベッドで天井を見上げていた。スマホが震え、大輝くんからのメッセージが表示される。
『今日はごめん。彼女いるって言ってなかったもんな。でも、これからもアプリでは大事な友達だから、仲良くしてくれよな!』
大事な、友達。
涙も出なかった。胸にぽっかりと穴が空いたようだった。
私はスマホを手に取り、『星降りの庭』のアイコンを探した。私の宝物だった場所への入り口。
もう、あの庭には戻れない。
私が愛したカイトさんは、初めから存在しなかったのだから。
アイコンを長押しし、表示された×印を迷いなくタップした。
『“星降りの庭”を削除しますか?』
ホーム画面の壁紙に設定した、満開の桜の下で寄り添う二人のアバターが見える。
「さようなら、カイトさん」
呟き、震える指で『Appを削除』の文字を押した。
宝物だった世界への入り口が、あっけなく消える。
しんと静まり返った部屋で、ようやく一筋の涙が頬を伝った。
大好きだった。本気で、本当に、大好きだったんだよ。
本気だったのは、私だけ。
どうしようもない事実だけが、冷たい現実の重みをもって、私の心に深く沈んでいった。




