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失恋図書館  作者: N.H
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蔵書023『すれ違いの車窓』


 毎朝、7時42分、戸塚駅発の湘南新宿ライン。


 それが、退屈な授業と、少しだけ面倒な人間関係でできている私の日常に、一筋の光をくれる秘密の時間だった。


 高校二年生の秋。


 受験なんてまだ先のことだと思いたいのに、先生たちはやけに「進路」という言葉を口にする。


 教室の空気は、どこか見えないプレッシャーで満ちていて、息苦しい。そんな、灰色の毎日の中で、あなたを見つけた。


 いつも同じ車両の、ドアの近く。窓の外をぼんやり眺めながら、イヤホンで音楽を聴いている男の子。


 それが、あなただった。


 少し色の違う、ブレザーの制服。きっと、沿線にある、偏差値の高い男子校に通っているんだろう。


 風で少しだけ乱れた髪、通った鼻筋、音楽に集中しているのか、誰にも興味がなさそうな、少しだけクールな横顔。


 私は、名前も知らないあなたを、心の中で「7時42分の人」と呼んでいた。


 友達とのグループトークに疲れた朝も、小テストの勉強をサボってしまった憂鬱な朝も、あなたの姿を見つけるだけで、ほんの少しだけ、世界が輝いて見えた。


 あなたは、私にとって、少女漫画のヒーローみたいな、特別な存在だった。


 昨日、親友の葵に「いい加減、行動しなよ」と、呆れたように言われた。学校帰りのファストフード店。ポテトをつまみながら、私はいつものようにあなたの話をしてしまっていた。


「無理だよ! 話しかけて、無視されたら死ぬ!」

「死なないから。てか、無視するような人に見えないって、夏希が一番分かってるでしょ」


 葵は、私のスマホに表示された彼の盗撮まがいの写真(もちろん、後姿だけ)を一瞥して、ため息をつく。


「『そのイヤホン、どこのですか?』とかでいいじゃん。きっかけなんて、何でもいいの。何もしないまま卒業して、後悔するのだけは、絶対やめなよ」


 葵の言葉は、いつも的確に私の胸に刺さる。


 そうだ。このまま、ただ遠くから見つめているだけで、三年間を終わらせたくない。私も、漫画のヒロインみたいに、特別な恋がしたい。


 その夜、私はベッドの中で、何度も何度も頭の中でリハーサルをした。「あの……」と声をかける私。


「ん?」とイヤホンを外して、少しだけ面倒くさそうに、でも、ちゃんとこちらを向いてくれるあなた。


 そこから始まる、ぎこちないけれど、でも、確かな物語のプロローグ。


 そして、今朝。


 私は、いつもより五分だけ早く起きて、ヘアアイロンで前髪を丁寧に整えた。制服のリボンも、納得がいくまで何度も結び直す。スカートの丈だって、いつもよりほんの数ミリ、短くしてみた。


 誰にも気づかれないくらいの、私だけの戦いのための、小さな武装だった。



 家のドアを開けると、澄んだ秋の空気が、緊張する私を応援してくれるように、背中を押した。


 大丈夫。今日こそ、物語を始めるんだ。


 心臓が、制服の上からでも分かるくらい、大きく、速く、脈打っている。


 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、いつもの車両へ。祈るような気持ちで、ドアの近くに視線を送る。


 いた。


 7時42分の人が。


 でも、その耳には、いつもあったはずのイヤホンがなかった。


 彼は、誰かと話していた。


 私と同じように、彼のことをずっと見ていたのであろう、私とはまた別の制服を着た、可愛らしい女の子と。


 二人は、片方ずつのイヤホンを分け合って、同じ音楽を聴いていた。


 女の子が、楽しそうに何かを囁くと、あなたは、私が一度も見たことのない、とろけるように甘い顔で笑った。


 私が夢見ていた、少女漫画のワンシーンが、私の目の前で、私じゃない誰かによって、完璧に演じられている。


 私が勇気を出した今日、物語の神様は、私に残酷な現実だけを突きつけた。


 ふいに、彼女が、彼の肩にこてんと頭をもたせかける。


 あなたは、それを当たり前のように受け入れて、彼女の頭を、愛おしそうに、優しく撫でた。


 その、あまりにも自然で、親密な光景。

 

 ああ、もう、見たくない。


 喉の奥から込み上げてくる熱い何かをこらえ、咄嗟に顔を背けた。


 ぐっと唇を噛み締め、他の乗客の背中に隠れるようにして、窓の外に視線を逃がす。


 電車が、トンネルに差し掛かる。


 車窓は、黒い鏡となって、私の顔をありのままに映し出した。


 そこにいたのは、必死に平気なふりをして、でも、今にも泣き出しそうに歪んだ、制服姿の女の子だった。


 時間をかけて整えた前髪は、もうどうでもよかった。


 たった一度の高校二年生の秋は、誰にも知られることなく、今、この瞬間に終わった。


 たった一言の台詞もないまま、たった一人の観客もいないまま、幕が下りた。


 すれ違うだけの、車窓の中で。


 私は、泣いている自分から、目を逸らすことができなかった。


 やがて、私の降りる駅が近づくアナウンスが流れる。


 学校に行かなきゃ。


 この、砕け散ってしまった心を隠して、いつも通り、笑わなきゃ。


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