蔵書012『お客さん』
コンビニの自動ドアが開くたびに、私は顔を上げて確認してしまう。今日でバイト最終日。でも、あの人は来ない。もう一週間も来ていないから。
私がこのコンビニでバイトを始めたのは、大学2年の春だった。家から近いという理由だけで選んだ場所だったけれど、金曜日の夜勤シフトで人生が変わった。
深夜2時頃、いつも同じ人が来る。年齢は30代前半くらい。スーツをきっちり着て、でもネクタイは緩めている。IT企業で働いているらしく、残業帰りにいつも立ち寄っていた。
最初は単なる常連客の一人だった。カップラーメンとおにぎり2個、そして缶コーヒー。毎回同じ組み合わせ。でも、ある日レジで小銭を落としてしまった私に、「大丈夫、ゆっくりでいいよ」と優しく声をかけてくれた。
それから、少しずつ会話が増えていった。
「今日も遅いんですね」
「プロジェクトが佳境でさ。君も夜勤大変でしょ」
「慣れました。でも眠いです」
「若いから大丈夫だよ」
たわいもない会話だったけれど、金曜の夜が楽しみになっていった。
名前は内田さん。私より10歳年上。独身だということは、左手の薬指を見て分かった。
半年ほど経った頃、内田さんが珍しく酔っていた。
「今日は会社の飲み会だったんだ」
「楽しかったんですか?」
「まあね。でも、ここに来る方が楽しいかも」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「君といると、なんか落ち着くんだよね」
酔っているとはいえ、その言葉は本心に聞こえた。
それから私は、金曜日のシフトを絶対に入れるようになった。他のバイトの子に頼まれても、金曜の深夜だけは譲らなかった。内田さんに会いたい、その一心で。
ある金曜日、内田さんがいつもと違うものを買った。ショートケーキが2個。
「誰かの誕生日ですか?」
「いや、君にあげようと思って」
「え?」
「この前、もうすぐ誕生日だって言ってたでしょ」
覚えていてくれたことが嬉しくて、涙が出そうになった。
「でも、勤務中は」
「休憩の時にでも食べて」
バックヤードで一人、ケーキを食べながら泣いた。こんなに優しくされたの、初めてだった。
私の気持ちは、もう抑えられないくらい大きくなっていた。10歳の年齢差なんて関係ない。お客さんと店員という関係も関係ない。ただ、内田さんが好きだった。
でも、内田さんの気持ちは分からなかった。優しいけれど、それ以上踏み込んでこない。連絡先も交換していない。金曜の深夜、コンビニで会うだけの関係。
転機が訪れたのは、3ヶ月前のことだった。
「実は、俺、転職することになったんだ」
「え?」
「スタートアップに誘われてさ。来月から」
転職自体は良いことだと思った。でも、次の言葉で凍りついた。
「オフィスが横浜だから、引っ越すんだ」
横浜。ここからは通えない距離。
「そう、なんですね」
平静を装うのが精一杯だった。
「金曜日にここに来るのも、今日で最後かな」
最後。その言葉が胸に刺さった。
「でも、その前に」
内田さんが何か言いかけた時、他のお客さんが入ってきた。タイミングが悪すぎる。内田さんは苦笑いを浮かべて、「また今度」と言って店を出て行った。
次の金曜日、私は告白しようと決めていた。最後のチャンスだから。年齢差も、立場も、全部関係ない。気持ちだけは伝えたかった。
でも、内田さんは来なかった。
その次の週も、その次も。
引っ越したんだと思った。もう会えないんだと思った。
そして今日、私のバイト最終日。実は私も就職が決まって、来月から社会人になる。もうこのコンビニに立つことはない。
深夜2時、いつもの時間になった。もしかしたら、という淡い期待を持っていたけれど、やっぱり内田さんは来ない。
3時になって、店長に「もう上がっていいよ」と言われた。バックヤードで制服を脱ぎながら、これで本当に終わりなんだと実感した。
店を出ようとした時、自動ドアが開いた。
内田さんだった。
「まだいてよかった」
息を切らしている。走ってきたみたいだった。
「内田さん…」
「横浜から来たんだ。今日が最後だって、他のバイトの子から聞いて」
どうやって調べたんだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。
「実は、ずっと言いたいことがあったんだ」
内田さんが、私の目を真っすぐ見た。
「君に出会えてよかった」
信じられなかった。まさか内田さんがそう思ってくれてたなんて。
「俺は――」
内田さんは続けた。
「おじさんだし、定職に就いたばかりで不安定で本当ダメダメなのに、キミはいつも元気をくれた」
「そんなことない。元気をくれたのは内田さんの方」
「君はまだ若い。これから社会人になって、いろんな出会いがあると思う」
大人として、人生の先輩として、私を応援してくれる言葉を並べられた。それが、どうしても我慢できなくなって
「――ううん、私は内田さんがいい」
勢いとはいえ、言ってしまった。
私の言葉に、内田さんは困ったような顔をする。察したようにため息をつくと、言葉を紡いだ。
「……君は俺のことをよく知らないだけさ。コンビニで会うだけの関係で、俺の悪いところなんてまだまだいっぱいある」
「知りたいです。良いところも悪いところも」
「俺はもう32歳だよ」
「私は22歳です。それが何か?」
押し問答が続いた。彼は私のためを思って、身を引こうとしている。でも、私はそんなの望んでいない。
「一度、ちゃんとデートしてみませんか?」
私から提案した。
「それで、お互いのことを知って、それでもダメなら諦める」
内田さんは悩んでいた。でも、最終的に頷いてくれた。
「分かった。でも、君が思っているような人間じゃないかもしれない」
「それでもいい」
連絡先を交換して、週末にデートの約束をした。
初デートは、お互いに緊張していた。コンビニとは違う雰囲気に、戸惑いもあった。でも、話していくうちに、やっぱり内田さんが好きだと確信した。
それから、何度かデートを重ねた。映画を見たり、食事をしたり、普通のカップルみたいに。
でも、5回目のデートの後、内田さんから連絡が来た。
『やっぱり、これ以上は無理だ』
理由を聞いても、「君のため」としか言わない。
『年齢差は埋められない。君は同世代の人と付き合った方が幸せになれる』
一方的に別れを告げられた。
それから、内田さんとは連絡が取れなくなった。LINEを送っても既読がつかない。電話をしても出ない。
完全に、拒絶された。
私の初恋は、始まる前に終わった。
いや、始まってすらいなかったのかもしれない。
内田さんにとって、私は「若い子」でしかなかった。守ってあげなきゃいけない存在。対等な恋愛対象じゃなかった。
今、就職して3ヶ月が経った。新しい環境にも慣れてきた。同期の男性から飲みに誘われることもある。
でも、まだ忘れられない。
金曜日の夜になると、あのコンビニの前を通ってしまう。もちろん、内田さんはいない。
でも、あの頃の思い出が蘇る。
カップラーメンとおにぎり2個と缶コーヒー。
その組み合わせを見るたびに、胸が痛む。
きっと内田さんは、私のことなんてもう忘れている。
横浜で新しい生活を送っている。
もしかしたら、新しい恋人もできたかもしれない。
でも、私はまだ、金曜日の深夜2時を特別な時間だと思っている。
これが、22歳の片思い。
年上の人を好きになって、年齢を理由に拒絶された、苦い思い出。




