5 : 残火
三ヶ月後。
新宿駅の朝は、もはや一つの静謐な祈りのようだった。
ホームを流れる群衆は、かつてないほど整然と、寸分の乱れもなく目的地へと運ばれていく。
「調律」は今や、公衆衛生の一部として、あるいは成熟した市民の義務として完全に浸透していた。人々は互いに穏やかな微笑を交わし、不快な摩擦や、無駄な感情の起伏を、文明の名の下に返上した。
駅ビルの隅、清掃員の灰色の制服を着た加賀美誠一は、階段の踊り場で足を止めた。
彼はもう、警察官ではない。
「重度の適応障害」という診断名とともに組織を放逐された彼は、今、この完璧に調律された街の「汚れ」を拭う仕事に就いている。
右足は、今も一歩ごとに鋭い痛みを訴える。
USBメモリで自ら抉った傷は、不器用な手術痕となって肉に食い込み、気圧の変化とともに激しく疼いた。
「加賀美さん。……休憩ですか」
声をかけてきたのは、同じ制服を着た若林だった。
彼の項には、あの日東雲が沈めた銀鍼の痕が、小さな、白い消えない点となって残っている。
若林の瞳は、以前より透明で、どこか遠くの景色を常に眺めているような静けさを湛えていた。あの日、東雲が奪い去った「何か」は、二度と戻ってはこなかった。
「……ああ。行こう」
加賀美は、若林の肩を軽く叩いた。
二人は、白く、美しい、沈黙した群衆の中へ足を踏み入れる。
すれ違う人々は、彼らを見ると、一様に慈しむような、あるいは憐れむような微笑を浮かべて道を譲った。
足を引きずる男と、虚ろな瞳をした若者。
この完璧な世界において、彼らは修復を拒んだ「壊れた部品」でしかなかった。
だが、加賀美は、腿の疼きを感じるたびに、自分がまだここにいることを確信できた。
夜、娘の声を思い出して眠れない時。
消えない後悔に胸を締め付けられる時。
その耐えがたい「痛み」こそが、加賀美が東雲から守り抜いた、唯一の自由だった。
ふと、広場の中心で、一人の幼い子供が転び、声を上げて泣き出した。
周囲の大使たちは、機械的な慈しみの笑みを湛え、静かにその子を取り囲もうとする。
ノイズを、調律という名の優しさで塗り潰そうとする、いつもの光景。
加賀美は、遠くからその泣き声を聞いた。
それは、この世界に唯一残された「不純物」のように、加賀美の耳を、脳を、そして胸を、痛いほどに震わせた。
加賀美は、清掃用具を握りしめ、ただその音を聴き続けた。
助けには行かない。何も変えられない。
けれど、それを「不快なバグ」として無視することもしない。
街は、静まり返っている。
だが、完璧な世界の片隅で、ひとつだけ、不器用な鼓動が鳴り続けていた。
(完)




