1-1 : 聖域の静謐
午後二時、東雲怜は老婦人の命を救いながら、今夜殺す男の鼓動を想像していた。
谷中の路地裏に佇む「東雲鍼灸院」には、沈香の重い香りが淀んでいる。東雲は、診察台に横たわる老婦人・志津の手首に指を添えた。皮膚の裏側で爆ぜる微弱な拍動――「脈」から、彼女の命の残量を読み取っていく。
東雲の指先には、彼女の肉体の透過図が浮かんでいる。血管の分岐、神経の走行、そして「死への入り口」。それらは数万の肌に触れてきた指先が、無意識に弾き出す精密な座標だ。
「……先生、胸が騒がしくて。古い時計が壊れかけているみたいに」
「大丈夫ですよ、志津さん。少し、針の進みを調整しましょう」
東雲は、漆塗りの箱から一本の銀鍼を取り出した。
長さ一寸六分、太さ〇・一六ミリ。陽光を撥ねる銀の糸が、志津の手首にある『神門』へ沈む。
抵抗は、ない。
指先に伝わるのは、熟れた果実に針を通すような、微かな、しかし確かな生体反応。東雲は一分の一ミリ単位で、彼女の迷走神経に銀の先端を這わせる。
過敏に跳ねていた彼女の鼓動が、凪を取り戻していく。
志津が安らかな吐息をつく。その弛緩した空気の裏側で、東雲は今夜殺す男の頸部を、脳内の設計図に投影した。
男の脂肪層、頸動脈の位置、神経の露出度。
今夜、彼の鼓動は三秒で沈黙する。
三秒。それ以上は、私の指先への侮辱だ。
「……治せる者だけが、壊す資格を持つのです」
誰に聞かせるでもなく呟き、東雲は志津の肌から銀鍼を抜いた。
一滴の血も、痛みも残さない。
神の如き手は、既に死の準備を終えていた。




