3 桜とアーモンド
広大な農園に、アーモンドの木が整然と列をなしている。
農園主の娘であるリリアン・フェリスには、見慣れた風景だ。
家は裕福で「お嬢様」なんぞと呼ばれている。
曾祖父の代から続くこの大農園をいずれ一人娘のリリアンが守ってゆく。それが彼女の運命だ。
のんびりとした田舎で街から離れているけれど、不満に思ったことはない。
自然豊かで、リリアンは生まれ育ったこの場所が大好きだった。
特にアーモンドの花が咲き乱れる春は格別だ。
リリアンは、今まさに花盛りを迎えた絶景を前にして浮かれていた。
(本当にキレイだわ! 桜そっくり。しかも、こんなに壮大だなんて)
リリアンには前世の記憶がある。
中園凛々子という没落した華族の娘で、お金のために貿易会社の社長である桐生喜一の妾になるところだったのだ。
古宇戸へ向かう船に乗る直前に、桟橋で暴漢に襲われ胸を刺された。
その時に、父親が莫大な借金を負ったのは、喜一の企みであることを知った。
「巻き込んでしまって……すまない」と虫の息で何度も謝る喜一と血まみれの服が、死ぬ前に見た最後の光景だ。
そうして、気づけばリリアンとして転生していたのだった。
彫が深いはっきりとした顔立ち。くるくるとした柔らかい赤毛に緑色の瞳。新浜の居留地で見たようなオシャレな洋装。
最初は、異国に生まれたのだと思った。だが、すぐに異世界なのだとわかった。
前世にはない魔法が使えたからだ。
リリアンは、風魔法が得意だった。他には、火炎魔法と土魔法を少しだけ。
「お嬢さまぁー! 旦那様がお呼びですよぉぉー」
遠くから家政婦のヒルダが声を張り上げる。
「はぁーい」
リリアンも負けじと大声で返事をする。華族令嬢だった時には、考えられなかったことだ。
お琴や茶道といった花嫁修業やお淑やかであることを強いられることもなく、リリアンはのびのびと育てられた。
ここには、貧富の差はあれど身分制度はない。『女は男を立てるべし』などという窮屈な価値観もなく、恋愛だって自由だ。
更には、魔石を動力源とする給湯器や冷蔵庫といった文明の利器が発達しており、前世よりもずっと便利で快適な生活を謳歌しているのだ。
優しい両親に恵まれ、リリアンは幸せだ。だが、慎介のことが記憶にあり、十六歳になってもまだ恋ができずにいた。
その後の慎介がどのような人生を歩んだのか。気になってはいても、リリアンには知るすべもない。
時々、ちくんと胸が痛む。
年頃になってもボーイフレンド一人いないリリアンのことを、両親は奥手だと心配している。
最近では、積極的に出会いを求めようとしない娘のために、周辺の農園や知り合いの子息たちを家に招いて食事会を催すほどだ。
きっとその件で父親に呼ばれたのだと思い、リリアンは花を見るために歩いてきた道を引き返した。
「えっ、それってまさかお見合い? パパ、私はまだ十六歳よ。いくらなんでも気が早いのではないかしら」
父親の書斎に入るなり「明日は、ロイド君とお茶会だよ」と告げられ、リリアンは面食らった。
男性と一対一のお茶会など初めてだった。
この国の女性の結婚適齢期は二十歳前後で、二十五歳を超えてから結婚することもめずらしくない。
それに『ロイド君』がどこの誰なのか、リリアンは知らなかった。
「ハハ……そんな堅苦しいものじゃないさ。彼は、モーズリー農園の次男なんだ。うちで働くことになったから、いっそのこと、この屋敷に住んで貰おうと思ってね。リリィが嫌なら従業員用の部屋を用意するけど、会ってみないとわからないだろう?」
「モーズリー農園といえば、あのオリーブで有名な? そんな大農園のご子息がどうしてうちで働くの」
「アーモンドの栽培に興味があるんだそうだよ」
「へえ」
リリアンが住むこの地方は、世界のアーモンド生産量の八割を誇る。一方で、オリーブも国内需要のほぼすべてを賄う名産品なのである。
そのオリーブの大農園を経営する家ともなれば、相当なお金持ちのはずだ。
興味を持つのはわからなくもないが、わざわざ他所に働きに出る必要があるだろうか。
「水魔法が得意だそうだ。農業に水は重要だろう? もし干ばつが起きても彼がいれば一安心。あちらは次男だし、もしリリィが気に入れば婿として……あ、いやその…………」
「パパったら! やっぱりお見合いじゃないの」
「と、とにかく、明日、ロイド君が来るから、農園を案内してやってくれ。あっ! もうこんな時間だ。パパは、お隣のハリソンさんの家に行かなくちゃ」
逃げるようにそそくさと立ち去る父親に、リリアンは呆れ顔になる。
(お隣と言っても、歩いて二十分もかかるのにねぇ)
如何せん、ここは僻地であった。
不便な場所にもかかわらず遠くからやって来るであろう『ロイド君』のために、リリアンはもてなしの準備を始めるのだった。
翌日、モーズリー農園のラベルが貼られたオリーブオイルを手土産に、ロイドがやって来た。
「早速、サラダのドレッシングとキノコのアヒージョに使わせていただくわ♪」とリリアンの母は大喜びである。
その母とヒルダと一緒に、リリアンは朝からお茶菓子用のアーモンドフロランタンを焼いた。
来客用のテーブルに座っている間、リリアンは落ち着かなかった。
ロイドは、海のような青い瞳をしている。髪も銀髪だ。
前世のような黒目黒髪とは、容姿がまったく違う。
けれど、一目で気づいてしまったのだ。この人は慎介である、と。
「娘のリリィは、恥ずかしがり屋なんだよ。ははは……」
「そうなんです。このフロランタンは、リリィの手作りなのよ、ホホホ」
黙りこくっている娘を見かねて、両親が場を繋ぐ。
しかし、ロイドもポカンとした顔を浮かべてリリアンを見ているので、何とも気まずい雰囲気になった。
フロランタンを食べながら、両親の「ははは」「ホホホ」という笑い声だけが響いていた。
お茶を飲み終わったあと、「リリィ、ロイド君に農園の案内を頼むよ。今はアーモンドの花が見頃だ。ゆっくりしておいで」と早々に放り出されてしまった。
前世の見合いでよくある「あとは若いお二人で」と言うやつである。
「しん……ロイドさん、こちらです」
リリアンは、冷静になろうとドクン、ドクンと波打つ胸に手を当てた。
「は、はい」
ロイドは、慌てて椅子から立ち上がり、リリアンについて行く。
しばらく並んでてくてくと歩くと、アーモンド畑のピンク色の花が望見できた。
氷川神社の一本桜も美しいが、満開の花が一面に広がる景色も圧巻の迫力である。
隣のロイドが息を呑むのがわかった。
「私は、アーモンドが花を咲かせるこの季節が一番好きなんです」
「ああ……キレイだ。これが見たかったんです。まるで桜のようで――――」
桜と言ってしまってから、ロイドは失言したかのようにハッと口を噤んだ。
この世界に桜は存在しないのだ。
「やっぱり、慎さん……慎さんなの?」
リリアンは訊かずにはいられなかった。
「凛々子、なのか? 会った瞬間そうじゃないかと思ったんだ。でも、信じられなくて…………君にも前世の記憶があるのか?」
「ええ。慎さんも?」
「ああ。全部、憶えてるよ」
ロイドのブルーの瞳がリリアンを捕らえた。
その優しげな眼差しは、確かにかつて凛々子が恋した男のものであった。
それからリリアンとロイドは、昔話に花を咲かせた。
「それじゃ、慎さんは翌年に震災で亡くなったの?」
帝都に大きな地震が発生したとのことであった。家屋が崩壊し、あちらこちらで火の手が上がった。街は地獄絵図と化したのである。
「大勢の人が被害に遭ったんだ。ああ、辰吉とお父上は、屋敷を売った後、親戚を頼って地方に引っ越したから無事のはずだよ。うちは半壊した。後日、店を片づけていた際に、突然、壁が崩れて頭に衝撃を受けたのが最後の記憶だ。気がついたらこの世界に生まれ変わっていた」
「そうだったのね。私も港で胸を刺された後、気がついたら転生してたの」
「痛かっただろうに。あんなヤツの巻き添えなんて許せないよ」
「それが死ぬ間際にあんなに謝られちゃうと、憎めなくって。今思うと、お金で愛を買うしかできない哀れな人だったのよ」
「そんなにのん気に言わないでくれよ」
「私は刺されたことよりも、慎さんに会えなくなったことの方が何倍も痛くて苦しかったわ。こんなことなら、想いを伝えればよかったと後悔したの」
「凛々子……」
ロイドが、リリアンの手を握った。
そのまま手を繋いで、黙々と歩く。
「……なんだか不思議ね。髪はまっ赤だし、魔法なんて使ってるし。私は、風魔法が得意なのよ。アーモンドを収穫する時、木を揺らすのに便利なの。華族だった頃とは違って毎日走り回ってるから、慎さんが思ってる私とは別人かもしれない」
「僕もそうだよ。銀髪だし、こう見えても力仕事で腕に筋肉がついてムキムキなんだ。凛々子が思ってる男とは違うかもしれない」
ロイドがくすっと笑う。
「でも」と二人の声が重なった。
「一緒に幸せになろう」
「うん……」
リリアンの顔が真っ赤になった。
夕暮れ時になって屋敷へ戻ると、両親が待ちかねたように二人を出迎えた。
お茶の席で娘が一言も話さなかったので、やきもきしていたのだろう。
「おっほん! ロ……ロイド君、手がっ……手がっ…………」
「あら♪ もうそんなに仲良くなったのね」
手を繋いでいるリリアンたちの姿を目にして狼狽える父と、これでもうフェリス農園の将来は安泰だとばかりに微笑む母である。
晩餐の席では、最初のよそよそしさが嘘のように「シンさん」「リリコ」と呼び合っている。
「リリィ、その『シンさん』ってなんだい?」
事情を知らない父親が、訝しげに首を傾げた。
「ひ・み・つ」
リリアンは、ロイドと顔を見合わせてクスクスと笑った。
この日、「この男は手が早くて危険だっ」と父親がロイドを従業員用の離れに押し込もうとする一幕があったものの、結局、一つ屋根の下で暮らすことになった。
そして二人は、収穫期の頃に婚約したのだった。
再び春爛漫。
淡いピンクの花びらが、ふわりと一片、ロイドの銀髪に舞い落ちる。
リリアンがその花びらに手を伸ばすと、逃げるようにまた宙を舞った。
どこまでも続く青い空に希う。
来年も再来年も、ロイドと一緒にアーモンドの花が見られますように――――。
「ニャン」と懐かしい白猫の鳴き声が、かすかに聞こえたような気がした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。