epilogue5 悪役を卒業した悪役たちのその後 後編
真夏のサンドライトを出発した花嫁道中が、夏の終わりに終着地にたどり着いた。
ここは、帝国最北の州都ノースタウン。
帝国で最も新しく、最も寒い、最果ての州都だ。
暦の上では夏なのに、草の葉が紅葉していた。粉雪も、舞っていた。
黒髪の令嬢は、名を捨てた斥候姫は、剣姫の手を借りて豪奢な馬車を降りた。
ぶ厚い霜にヒールが沈んだが、令嬢の体幹はぶれない。毛皮のコートを従者に渡し、サンドライト風のカーテーシーを披露した。
オケアノスも彼女の正面に立ち、帝国貴族らしい拱手で応えた。軽く握った左手に手首を失った右手を添え、袖の中で重ねた手を上げるようにして。
「お姫さま、きれい……」
出迎えに参列した女たちが、うっとりと新郎新婦を見つめる。
花嫁は、サンドライト貴族の夏の正装ーーー鎖骨の開いた袖のないデイドレスをまとっていた。
横に流した黒髪と真紅のドレスのコントラストが美しい。
結晶のまま降る粉雪も、意匠のような彩りを添えている。
「前王弟ファルカノス海軍元帥が養女、レイアスでございます」
口上が終わるなり、オケアノスは従者から毛皮を奪い、腰を落とす淑女をくるんだ。
「オケアノス……さま?」
「スゥ……だね」
顔を上げた人の存在を確かめるように、オケアノスは恐る恐る頬に手を触れた。そして、口上の為に薄着になった花嫁が凍えていないことに、安堵した。
「冷たい御手。お風邪を召してしまいます」
スゥは、レースの手袋をはめた両手で、頬に触れた手を包んだ。高価な陶器に触れるみたいに、そっと。
その所作はオケアノスがよく知るスゥであり、オケアノスの知らないスゥでもあった。
「そなたこそ。暖かい部屋を用意した。案内しよう」
「もったいないお言葉です」
吐く息が、白い。とても白い。
オケアノスはコートに包んだ花嫁を、軽々と抱き上げた。
「えっ……?」
「失礼する。ヒールでは歩きにくかろう」
「も、問題ございません。ご存じですよね?」
「今のそなたは、忠実な臣下ではない。大切な花嫁だ」
スゥが思わず目を逸らすと、真っ先にランと目が合った。
ランは呆れたように肩を落としたあと、「抱きつけ」とジェスチャーをした。解せなくて固まるスゥ。
「レイアス姫さま、ご到着です」
家令が手を叩くと、使用人や兵士たち、近隣の住民たちがふたりを取り囲み、盛大な拍手を送った。
「太守さま、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「ようこそ、ノースタウンへ!」
住民にしてみれば、晩夏の降雪なんて寒さのうちに入らない。
そんなことより、今夜は宴だ。
太守は鷹揚だから、だいたいの酒宴が無礼講になる。暴力と暴言さえなければ、むしろそれを喜ばれる人だ。もと皇族らしい高貴な人だが、人付き合いは形式よりも本音を望まれる。
一方スゥは、主君だったオケアノスにお姫様扱いされるわ、はちきれそうな笑顔の民に歓迎されるわ、幼少期からオケアノスに執着していたハズのランがあからさまにホッとしてるわで、無言で混乱し続けた。
恩赦後、スゥは帝国籍を抜け、サンドライトに帰化した。
太守になったオケアノスには、フレデリックに直接的な恩返しができない。ならば、臣下である自分がするのが、当然だと思ったのだ。
言われるがままに、名を「レイアス」と変えた。名付け親になった前王弟曰く「オレの女がむかーし流産した、ガキの名前」だそうだ。男か女かわからなかったから、どちらでも通る名をつけて墓を作ったのだと。
レイアスになったスゥは、服役中同様に暗部の指南役を賜ったが、こちらはひどく難航した。
それまでは「技を盗め」でよかったのが、個々の性質や得手不得手に配慮した指導となると、勝手が違う。
東国に留学し、隠密指南と、世界共通の貴族学園卒業カリキュラムを履修することになった。王宮で働くにあたって、平民では座りが悪いからだ。
ランが近くにいたら『だからって、前王弟の養女になる必要性がある?』と、ツッコミを入れていただろう。
しかし、自発的に身の置き場を決める習慣のないスゥは、疑問にも思わず、素直に従った。
帰国してしばらくして、フレデリック王から「友好国の太守がいつまでも妻帯しないから、嫁いでくれる?」と言われた時も、二つ返事で引き受けた。
相手がオケアノスと知れば、『ランさまが断られたなら、なり手がなかったのだろう』と納得した。
帝国貴族は一夫多妻が一般的だが、正妻は貴族でなければ認められない。
シギルス州都はもともと難易度の高いダンジョンの集合地帯だ。スタンピードが多発する極寒の地に、好んで嫁入りに来る令嬢がいるとは思えない。
上記、海底ダンジョン攻略の助太刀を終えたランに伝えたら、指三本でデコピンされた。
『あんたが選ばれたのは、オケアノス様の初恋だから! サンドライト王族なんて、恋愛中毒のお花畑集団だからね? おーかたロマンティックスに火がついちゃったんでしょ』と。
スゥは本気で首を傾げた。
スゥにとってオケアノスは守るべき主君で、この世で最も尊い存在だ。肉体を所望されたら捧げるのが当然で、心から正妻に仕えるのも当然。
亡命中は他に女人がいなかったのだから、初恋という名の疑似恋愛もありうる話だ。
『あー。竜族のライダーって、全員じゃないけど初恋を貫く傾向が強いよ? 特にドラゴンライダーは』
ランのトドメに、スゥはさらに混乱した。トントン拍子に婚約と輿入れが決まって、再会を果たした。
そしてーーー今。到着早々にオケアノスに抱き上げられて、過去最高に混乱している。
「あ、あの。レイアスが私だと、いつ気が付かれました?」
オケアノスの耳元に、スゥはそっと唇を寄せた。本人は耳打ちのつもりでも、領民からしたら太守夫妻がさっそく仲睦まじくて良き良きである。
「ランが発って直ぐ、かな。こうして会うまでは、実感なかったが。本当にスゥなのだな。レイアスと呼ぶべきか?」
「どちらでも。御心のままに」
「うむ。公の場ではレイアスと呼ぶが、普段はスゥが良いな。しっくりくる」
彼は、スゥが知っているオケアノスより、だいぶ気さくになっていた。溢れんばかりだった皇気を、コントロールできるようになったのだろうか。
騎士や使用人たちとの距離も近い。
廃太子とはいえ、尊い生まれの皇族が「奥様、すげー綺麗な人ですね」「うむ。我が妻はたいそう美しい」「可愛さなら、うちの嫁さんもいい線いってますけどね」「俺の娘も」とか言いあって、肩を叩きあって、笑いあうなんて……。
その後、スゥはオケアノスに抱かれたまま、太守夫人の居室に案内された。
最も日当たりが良い部屋で、調度品も高級だ。帝都では存在すら知られていないであろう辺境だが、旧シギ州はサンドライトの数倍の面積と人口を誇るし、富裕層の生活レベルもサンドライトを上回る。
シギルス太守邸も、スゥが勤めていたサンドライト王宮より、はるかに内装が充実していた。
質の良い薪だけをくべた暖炉。孔雀の皮を張ったソファ。中央貴族から贈られたと思われる、巨匠の名画まである。
暖炉に近いソファにおろされたスゥに、侍女が高級茶をふるまった。
スゥは首を傾げた。茶葉の良さが活かしきれていない。
部屋の調度やオケアノスの優雅さと、使用人たちの所作の荒さが、なんともアンバランスだ。
中央では流刑地呼ばわりされる極東の辺境に、皇族の側仕えができる人材はいない。いるわけがない。わかってはいるが、しっくりこないのだ。
「ここは、陸の孤島のような僻地だ。苦労をかけるだろう」
オケアノスは、至らない使用人にも、茶の不味さにも、違和感を持っていない。1人掛けのソファに腰を下ろし、デールの詰襟を軽く寛がせていた。
スゥのために暖炉に火を入れているが、冷涼な気候に慣れた今のオケアノスには、少々暑いのだ。
温暖なサンドライトに帰化し、もっと温暖な東国に留学したスゥとは、すっかり温度感覚が異なっている。
「毛皮を床に敷き詰めた方が良いな。底冷えするから」
「商人たちが、バザールに残っています。今すぐ、呼びましょう」
赤ら顔の侍女が自らの胸を叩くと、オケアノスは「手配を頼む」と頷いた。
「お構いなく。すぐに慣れます」
この返答こそが貴族らしくないと、スゥも自覚している。
オケアノスは「僻地太守の私にも、妻を凍えさせぬ程度の甲斐性は、あるつもりだよ」と笑った。
途端、スゥは息を呑んだ。
皇族でなくなったのだから、一人称が変わって当然だ。廃皇子に「余」と称する権利はない。
だけどーーー別人に憑依されていた時分とは違う違和感が、否めない。
サンドライト王族として嫁入りしたスゥを、彼は二度と忠臣扱いしないだろう。表向きは友好国の姫を娶ったのだから。
なにより、彼は皇族であることを放棄し、この地で太守になることを望み、その通りにしている。
スゥ自身も望んでいたのに、何かが的確にえぐられた気がするのは……なぜだ?
「人も気候も生活も、ゆるりと慣れたら良い。焦らなくても、必ず塩梅がわかるから」
穏やかな口調。真紅の瞳を細め、優しげに笑む彼は、間違いなく15皇子だった廃太子だ。
最も尊くて、大切な主君で……二度と主にはなってくれない人。スゥは平伏したい衝動をこらえ、「ありがとうございます」と囁いた。
サンドライト王族が参加する披露宴は来夏だが、教会での調印式は3日後に行われた。
もともと帝国貴族は、先に入籍をすませてから日柄の良い日に披露宴を執り行うのが常識だ。
花嫁の到着前後に集結したシギルス州の全貴族、司祭、司教、枢機卿らに「一刻もはやく、調印式をしてくださいっ!!!」と急かされた結果である。
太守の結婚調印式列席は、辺境貴族と教会の大義である。
が、「街道で吹雪にあったら、横転して凍死する」のが、ノースタウンに繋がるすべての街道のお約束だ。
夏以外の調印式なんて、絶対にありえない。一年待つのは、さらにありえない。そもそも太守が妻帯してなかったことが、最大限にありえなかったのだから。
たいそう痩せて筋肉が落ちたからか、色白になったからか、短かった髪を腰まで伸ばしたからか、サンドライト風のドレスと化粧のせいか、レイアスが「斥候姫スゥ」であることを、誰にも指摘されなかった。
ビキニアーマーをやめてふりひら戦闘服になったランの方は、普通に「剣姫さま」と呼ばれていたのに。
緊張の糸がほつれたのだろう。夕刻過ぎに発熱した。
スゥ本人に自覚はなかったが、初夜の床に入る直前、オケアノスが気がついた。
「スゥ?」
オケアノスは冷たい手で熱を帯びた額に触れると、薄い夜着をまとう細い体を毛布にくるんだ。
「気がつかなくてすまなかった。今、侍女を呼ぶ」
離れようとするオケアノスに、スゥは両手ですがりついた。
「問題ございません。貴方ともあろう御方が、初夜を成さないなどという不名誉を、選んではなりません」
オケアノスは紅玉の瞳をぱちくりさせて、優雅に笑った。
「体調不良の妻に無理強いをする方が、不名誉だよ。諸々の疲れが出たのだろう。今宵は休まれよ」
「なりません。私は大丈夫です。身をもって知っていますでしょう?!」
なおも手を離さないスゥの額には汗が浮かび、熱で上気した頬が苦しげにゆがむ。
オケアノスに憑依した男は、発熱した女を犯すことを好んだ。言いなりになるスゥに行水させ、風邪を引かせたこともある。
お互いの記憶に、同じ光景が蘇る。
オケアノスは静かに首をふった。
「……知っているからこそ、だ」
「……?」
「あれは、自らの劣情の為だけに女人を虐げる、非人道的な行為だ。再びそれをしろと言うのか? 命をかけて私を守ってくれた貴女に、また無体をしろと?」
朦朧としているせいか、オケアノスが何を言っているのか、スゥにはよくわからなかった。
わかりたくなかったのかもしれない。
「あー。ここ、寒いもんね。温泉に油断すると湯冷めしちゃうし。このあたしでさえ、最初の年は何度か風邪ひいたわ。はい。あーん」
1週間後、高熱が微熱になったスゥは、ランにおかゆを食べさせられていた。
専属侍女から「奥さまが、全く食べてくれないんですうう」と泣きつかれ、役目を交代したらしい。ランに戦闘を任される侍女って、いったい。
「はい、もう一口」
「あの。ランさまにお世話されるのは、心苦しいのですが……」
「しょーがないでしょ。あんた、昔から命令されないと食べないんだもん」
「そうでした?」
三姫とオケアノスで狂瀾の旅をしていた頃、ランは好物ばかり食べて嫌いなものをスゥに押しつけていた。
特に、アスパラガスの携帯スープとか。
司祭姫キミがその皿をひっくり返し、犬食いを命令じた日もある。「両方の口で食えよ」とオケアノスではないオケアノスが背後から辱めるまでがセットで。
あの頃のスゥは、理不尽な要求に快楽で応える痴女だった。敵を信用させ、情報を引き出し、オケアノスを解放させるためなら、なんでもした。そのストイックさが、ある種の色気を醸していたのだろう。
「スゥさん、素敵」と、うっとりして、床に広がるスープに香辛料を追加したキミを思い出す。彼女の加虐には、同性愛めいた恋慕が隠されていた……ような気もする。今更だけど、地獄かよ。
バカだったランは「オッキー様、次はあたしー!」とかほざいてスゥを蹴飛ばしていた。何様だ、自分。
「せめて皿半分は、食べなさいよね。ほら、口開けて」
ランはあえて強く命令した。スゥは瞬きをしてから、反射的に口を開いた。
侍女に「投薬も、拒否されるんですうう!」と泣きつかれたランは、薬を飲ませ、眠りにつくまで見守ってから執務室に突撃した。
オケアノスは夜に書類仕事をする。昼間はスタンビードを沈めたり、スノーローズと州のあちこちを視察したりしている。何日か留守にすることもあるが、スゥが熱を出してからは一切遠出していない。
今宵も、「本当に読んでる?」ってスピードで、鮮やかに書類をさばいていた。
「スゥにお粥たべさせたよ。さっき眠った」
書類を置いて手を止めて、ランの報告を聞くオケアノスは、心から安堵して「ありがとう」と微笑んだ。
「オケアノス様って、スゥのこと、そーとー大好きだよね?」
いろいろ考えたが、ランは遠回りが苦手だ。ズバっとストレートに聞いてみた。
オケアノスは慌てもせず、なんなら悠然と頷いた。
「勿論。かつては唯一の臣下で、今は大切な伴侶だ」
「あー。普通の女なら落ちるだろうけど、スゥの場合は、それじゃダメだわ」
「?」
「伴侶だから好き、じゃ、スゥには伝わらないわよ。他の誰でもないスゥだから愛してるんだって理解してもらわなくちゃ。これ、簡単じゃないわよ? 骨の髄まで貴方の臣下だったんだから」
そこまでまくし立てて、ランの動きが止まった。
「もしかして、他にも妻を娶る予定あり? ありなら、今のままの方が面倒はないけど?」
「ない。失礼な縁談になるから。どれほど得難い女人でも、スゥと同等には愛せぬ」
自分で言って驚いたのか、オケアノスは目を丸くして自らの手のひらを見つめた。
「えー! 自覚してなかったの?!」
両手を頬に当てて突っ込ラン。ふと、デスクの奥で毛繕いをしていたスノーローズと目が合った。スノーローズは「フッ」とため息をつくと、虚無のまなざしで深ーーーく頷いた。窓辺の鳳凰たちも、めいめい片方の翼を額にあてている。
「オケアノス様、ちゃんと話した方がいいよ。じゃないと、大事な何かがすれ違ったまま、一生終わりそう……」
ランは残念なものに遭遇してしまった感満載で、執務室を退室した。
スノーローズと鳳凰たちの「うちの親友が、なんかスンマセン」なまなざしに、見送られながら。
人民の為に生き、私的な時間を持たないオケアノスが、太守になっておそらく初めてワガママを言った。
「冬将軍が来る前に、新婚旅行に行きたい」と。
冷涼なノースタウンは秋の最中に街道が凍り、年が明ける頃に「冬将軍」と呼ばれる大寒波と大吹雪にみまわれる。
物流は完全にストップし、市井の人々は数週間、自宅に篭りきりの生活を強いられる。
それでいて、冬将軍の時期に活動が活発になる魔物たちが、遠慮なく人里に襲いかかってくるのだ。
暦の上では9月初頭。ノースタウンでは平均気温が10度を下回り、晴天の日が続く現在。行くなら今しかないが……。
「半月くらいなら、あたしでも太守代理できるけどさ。頭を使う仕事はムリよ? 内側から州都が滅ぶわよ?」とランが首を傾げた瞬間、文官たちがモーレツに予定を前倒ししはじめた。
ランさえいれば、真冬のスタンビードにも対応できる武官たちは、通常通りだ。
「新婚旅行、いいっすねー」「やっぱサンドライトっすか?」「あ、うちの部署のお土産は、聖女エイミの絵姿を20枚で!」「うちもー!」「聖女エイミ、マジで絶世の美女っすよね!」「自分はマリアベル王妃の絵姿で。できれば睨んでるやつ」などと、のんきに盛り上がっている。
1週間後、オケアノスは戸惑う新妻をスノーローズの前に乗せ、空っ風が吹き荒ぶ晴天の空を飛んだ。
やり切った文官たちが胃薬で乾杯し、互いの労をねぎらいあったのは、言うまでもない。
出発前は呆れていたスゥも、目的地にたどり着く頃には、オケアノスに何か考えがあると察した。
サンドライト王国北部峡湾地方ーーー地底泉の洞窟。
14年前、オケアノスとスゥが命辛々たどりついた亡命先であり、4年前にオケアノスが自我を取り戻した場所だ。
スノーローズは入口でふたりをおろすと、東に向かってパタパタと飛んでいった。
スゥが行き先を案じる前に「対岸で、海軍が炊き出しをしているそうだ。貴女の養父が近くにいるかもしれない」とオケアノスが通訳した。
スゥは「そう」と頷いた。
帰化したスゥの養父になったファルカノスは、この地で過ごした半年間の詳細を、やけに聞きたがった。
「転生の泉の守人」を引き継いだからというより、単に父や祖父の思い出を聞きたいのだと気がついたのは、いつだったか。ファルカノスも、王の「格」を持ちながら、自らそれを捨てた貴人だと、スゥは思っている。
ファルカノスの場合は、双子とはいえ弟で、兄の方がより優秀だったという明確な理由がある。
幼竜や幻獣たちと自由に会話をかわし、選ばれた賢帝にのみ接触を赦す鳳凰たちから愛されているオケアノスとは、違う。
ふたりはやがて、数多の命が生まれては還ってくる転生の泉を訪れた。
こんこんと澄んだ水が湧く地底泉から、今日も変わらずに命の珠が生まれ、天に吸われてゆく。
天から戻ってきた鬼灯のような球体が、地底泉に沈んでゆく。
「ここは、本当に美しい。全ての生命は等しく尊いのだと、改めて実感させられる」
オケアノスは水際に立ち、生まれては消えてゆく魂の輝きを愛でた。
数多の生命の中で、オケアノスの魂こそが最も尊いと感じた少女時代のスゥとは、真逆の感想だ。
「だが、人の世は平等ではない。皇語を解する才に恵まれ、鳳凰に頼めば手首の再生も容易い。それでいて極東の太守に甘んじる私は、どれほど貴女の望みを裏切っているのだろうか」
どこまでも優しく、ふっきれたような声音だった。
「そのようなことは、ございません」
スゥは恭しく、平坦な表情で否定した。
本音を暴かれたくらいで、顔色を変えるスゥではない。
だが、オケアノスは続けた。
「皇族に戻り、帝位を簒奪すること自体は、できなくないだろう。さほど愚かな皇帝にはならぬ自覚も、ある」
「成すならば、為されば宜しいかと存じます。オケアノス様の望みのままに」
心得たとばかりに、スゥが膝をつく。
長年くりかえした臣下の礼は、20代半ばから叩き込んだ貴族の所作よりも、スゥの体に馴染んでいる。
「だが、私の望みは極東の平和だ。貧しきシギルスの民に豊かな暮らしを与えること。近頃は、もうひとつ望みが増えた。貴女だ」
洞窟の土に片膝をつくスゥの眼前で、オケアノスも同じように片方の膝をついた。
「オケアノスさま……?」
皇族になれば、スゥを正妃にはできない。独立国の姫なら、せいぜい側妃が妥当だ。帝国議会に後ろ盾のない側妃では、2年と生きられないだろう。
華やかな栄華と果てない欲望が渦巻く、巨大な魔窟。帝都の皇宮とは、そういう場所だ。
「絶対的な君主として君臨した方が、愛よりも肉欲の解放を求められる方が、スゥの精神は安定するだろう。若い命を散らす結果になったとしても……貴女はそういう風に育てられた。だが、したくない。してやれない」
長く伸ばした黒髪を一房すくい、そっと唇を寄せる。
「男として貴女を愛し、貴女に愛されたい。もう二度と、貴女を失いたくない」
早熟だったオケアノスは、恋を自覚した時にはわかっていた。皇族としてありえないほど冷遇されているから、平民のスゥと言葉を交わせることを。
決して妻にはできない。できてせいぜい愛人だ。執着を見せれば、即座に殺されかねない愛人。
結ばれないが、納得はしていた。彼女と出会えたから。忠誠心でも矜持でも、側にいてくれるのだから。
初恋が砕け散ったのは、憑依された自分が彼女の純潔を奪った瞬間だった。
夫でない男に抱かれた女は、この国では人間扱いされない。体の自由を奪われての狼藉だが、欲望に負けた以上は言い訳にもならない。初めて本気で自分を殺したくなった。
自我を取り戻した時は、心からスゥを愛しいと思った。今度は自分こそが命を賭して彼女を護るのだと。
あれが恋愛感情だったかと問われたら、今のオケアノスには自信がない。
レイアスと名を変えた彼女に再び出会った今、あの時のような崇高な気持ちだけで、彼女を思うことはできない。
「好いた男を見つけ、幸せになってほしい」なんて、あり得ない。無理だ。冗談ではない。
妻に恋をして、自分は相当な俗物なのだと思い知るばかり。
自分よりもスゥを理解し、心を開かせている感のあるランに嫉妬心を覚えるし。仲睦まじい夫婦を見ると「羨ましい」と思うし。
嫉妬や羨望なんて無縁の感情だったのに。実はけっこうふりまわされている。
優秀で冷静な彼女も誇らしいが、所作が至らない侍女に呆れて茶の淹れ方を教えたり、運動神経だけで中央貴族の所作をクリアするランに唖然としたりするスゥも、可愛いと思う。
スゥの全てが愛しくて、目が離せない。
オケアノスは、そんな今の自分が嫌いではない。芽吹いたばかりの感情を、知らなかった幼さを、おもしろいと思う。正妃を愛でるフレデリック王の執着が、心から理解できるようになったし。
そんなことを、スゥに語った。たいそう赤裸々に。
面食らったスゥは、ひたすら瞬きをくりかえしている。
「私の在り方に納得できず、黙って痛みに耐えられるくらいなら、ここで貴女を手放そうと思っていたのだが。すまぬ。できそうもない」
オケアノスは膝をついたまま、愛しい伴侶を抱きしめた。
過酷な旅をしていた頃より、平穏な今の方が痩せ細っていて、痛々しい。分厚いデールを着ていてさえ。折れてしまいそうだ。サンドライトからの報告書にも、最低限の食事や睡眠しか取らないとあった。
スゥはしばしそのまま固まっていたが、やがてゆるりとオケアノスを抱きしめかえした。右手首を失って得たバランスの悪さを、補うように。
「オケアノスさま。それは、私にも本音を語れということでしょうか?」
「忌避感がなければ、ぜひ」
至近距離で見つめ合いながら甘くはならない空気に、スゥはどこかでホッとしていた。
「手放してやれない」と言いながら、完全に逃げ道を塞いだりはしない。育ちの良さか、生まれながらの気質か。
スゥは強く息を吸って、止めて、ゆっくりと吐き出してから、もう一度オケアノスの目を見つめた。
「大嫌いです。オケアノスさまなんて。サンドライトの王族も、ランさまも」
さほど驚かないオケアノスに、スゥはもう一度「貴方が一番、嫌いです」と、言い放った。
「憤らないのですか?」
「いや、納得した」
「……そういうところが、嫌なんです」
スゥの瞳に、涙の線が浮かんだ。それはあっという間に決壊して、白い頬に透明の雫が伝い落ちた。
「恋なんて知らない。わからないのに、人は貴方と恋をせよと言う。幸せになれと言う。わからないから、できないから、嫌なのに。どうして、忠誠を誓う臣下のままでいさせてくれないのですか?」
「臣下には、本音は語らせぬよ」
オケアノスは左手で細い顎に触れて、くいと持ち上げた。ふたつの視線が絡む。先ほどまではなかった、切ないほどの甘さを漂わせて。
「嫌い」と言ったそばから、やや強引な口づけを受け入れるスゥは、濡れた瞳を見開いたままだ。
それが男の劣情を誘うのだと、知っていたはずなのに。初めてのキスでもないのに、少女のように流される自分に戸惑った。
無体まではする気のないオケアノスは、両目の涙を唇で拾ってから、わずかに身を離した。
「貴女の本音が聞けてよかった」
肩を抱く腕は暖かく、語りかける声はひどく優しい。
「私は、複雑です。知りたくなかった。自分がこんなに不敬な人間だったなんて……」
「私は、惚れ直したぞ? 責任はとるから、安心されよ」
「そういうところですよ……?」
立ちあがろうとするスゥを引き留めて、オケアノスはもう一度唇を奪った。何度も、何度も、くりかえし奪った。
深く、深く、深くーーー。
貪れば貪るほど、無意識に応えてくれるスゥが愛しくて、止まらなくて。
「もっと貴女を愛したい。嫌か?」
「嫌ではありませんが、義務だと思っています。違うなら、教えてください。恋や愛のわからない、欠陥人間の私にも、わかるように」
「貴女に欠陥などないが……承知した」
二つの影が、みたびひとつになった。
この夜、虐げられる性しか知らなかったスゥは、抱かれ慣れたはずの男から愛される性を示された。
オケアノスがどんな愛を望んでいて、どれほど残酷に踏み躙られたかを知った。
幼少期、大切なものほど破壊され、親しくなった友や使用人を殺された彼は、全てを平等に愛そうとした。
自分を虐げる者たちも含めて。
オケアノスが平等に接することで、救われる命があった。その中には、スゥも含まれていたことも。
スゥには、深く愛されて、睦みあっても、オケアノスと同じ熱量をかえすことはできない。
全ての悲しみを知りつくしたかのような微笑に、孤高の魂に触れた錯覚をおぼえ、「貴方を御守りしたい」と口走りそうになるだけだ。
慈しみ深いまなざしから目をそらし、彼の指先を見つめながら、スゥは思った。
失われた右手首の、義手のような存在になら、なれるだろうか、と。
臣下であることが身に染みすぎて、愛妻の自覚は持てないけれど。シギルス太守オケアノスの生涯に寄り添い、ついていくことなら、できる。
臣下がダメなら、義手になりたい。
この感情につける名前を、スゥはまだ知らない。
彼に至高の幸せを与えられる、唯一無二の存在だという自覚すらない。
遠くない未来に、彼の想いを理解する瞬間が訪れることも。今は、まだ。
ーーーーー FIN ーーーーー




