幕間 ーーーレティシアの断章ーーー
ここは、どこかしら?
叔父様の鉾で胸を貫かれたのは、夢だったのかしら?
辺りを見渡せば、金色の光の玉が、シャボン玉のように無数に浮かんでいます。
私も、いつしかそのひとつに入っていて、ふわふわと虚空を漂っていました。
これは、なんの夢かしら?
暑さも寒さも、痛みも匂いも感じないなんて。
何となく下方を見渡すと、フレデリックお兄様とオケアノス殿下が戦っていました。
私ったら、誘拐されましたものね。王太子のお兄様が直々にいらすなんて。妹を愛するお気持ちは嬉しゅうございますが、アーチライン様の武勲を横取りするのは、いただけませんわね。
オケアノス殿下はアーチライン様よりお強いと聞いていたけれど、お兄様に押されているなんて。
あれは、殿方の得意とする見栄だったのかしら。
うふふ。可愛い人ね。
でも、心だけは、高貴なる皇太子様に捧げられないのです。
『お前さんが、レティシアかね。なんとまあ、エリシアさんに似て可憐な見目じゃな』
別の球体がこちらにぶつかってきて、中にいた御仁が私の球体に入り込んできました。
背が高く、見すぼらしい身なりの老人です。
見目は平民ですが、どこかしら高貴に見えるのは、ダイヤモンドの錫杖を手にしているせいでしょうか。お父様やお兄様に似た色味の、青い瞳のせいでしょうか。
私が首をかしげますと、老人は『わからんのなら、知る必要はないよ。ワシは、つい最近まで生きていた老いぼれの、残像みたいな存在だからの』と笑いました。
つられてこちらも口角をあげましたが、別に面白くはありません。
老人はしげしげと私の耳の辺りを凝視してきました。
何か、つけていましたかしら?
『ふーむ。竜の掟を侵した上に、国家反逆罪とは。お前さん、サンドライト王室始まって以来の悪女じゃな。こりゃあ驚いた』
「私、何もしていませんわ。拐われて、妃にさせられて、帝国語の文書にサインさせられただけですのよ? 濡れ衣ですわ」
思わず言い返すと、老人はなんとなく見覚えのある杖で、虚空に文字を書きました。
嘘みたいです。私がサインした羊皮紙の文書、そのままではありませんか。
『内容くらいは説明されたじゃろうし、その旨を書記官が記した公文書も残っていよう。王族が帝国語の公用文を読めぬなど、デビュタント前でもあり得んよ。それとも、こんな基本からサボってきたのかの?』
内容の不敬さはともかく、責めている口調ではないようです。今回ばかりは、騎士による躾は勘弁してさしあげましょう。
「非道にございますわ。アンデッドの育成や戦争の責任を、側妃の娘に押し付けるなんて」
『ふーむ。アンデッドは禁呪だでのう。ここでオケアノスが倒され、海軍の強さに恐れを成せば、お前さんに責任をかぶせる形で停戦を申し出るじゃろうよ』
そんなの、ひどすぎます。
私がアンデッドを作ったわけではありませんのに。
「どうして……どうしてですか? 私はただ、魂の伴侶であるアーチライン様と結ばれたいだけなのに」
私は別に戦争なんて野蛮なことに、興味はありません。
一度死んだ竜をアンデッドとして再利用することが、禁忌だなんてわかりません。
ただ、アーチライン様との逢瀬を、毎日心から願ってきただけですのに。
『人が死ぬってのは、悲しいことじゃ。じゃが、戦争やら疫病やらでたくさんの人が死ぬとな、その悲しみが麻痺してしまうんじゃよ。それが1番悲しいことさね』
老人の指す錫杖には、ルス軍の戦艦をひっくりかえすシーサーペントと、巻き込まれて海に投げ出されるルス海兵たち、それを捕虜として救助するサンドライト海軍の姿が映っています。
助け出された海兵もいますが、多くは戦艦の中で死に、または海水を飲んで溺れました。
仕舞いには、叔父様とメルセデス公爵が、シーサーペントたちを気絶させてまわっていました。
『まだ初戦じゃから、軍人たちは皆正気じゃ。人命救助を優先させる余裕もある。じゃがな。辺境など見向きもせんはずの中央軍が、サンドライト制圧に乗り出してきたら? 獰猛な天馬部隊や、頑強な巨人部隊、灼熱の炎を吐く火蜥蜴部隊が攻めてきたら? 中央軍の中枢には、ヨアン級の武人が幾人おると思う?』
「そんなの……わかりませんわ。わたし、知らないもの」
『そうさな。外国のことじゃし、ワシも正確にはわからん。じゃが、アーチライン・シェラサードの使命は理解すべきじゃったろうに。国が滅ぶとき、彼はフレデリックの身代わりとなり、首を差し出す。亡国の王太子が、新生サンドライトの建国王となる未来を託してな。そなたが望んだのは、そんな結末なのじゃよ……』
「嘘よ。そんなの、逆でしょう……?」
『アーチラインを手に入れるにゃあ、最悪の一手じゃったのう』
嘘です。あの方への愛し方を、間違えたことなどありません。
だって、小さな子どもの頃から、笑いかけてくれましたもの。可愛いと頭を撫でてくれましたもの。
お兄様とアーチライン様と手を繋いで庭園を散歩する時間が、1番好きでした。
アーチライン様と結婚したい。その夢を叶えたいと願うことに、なんの罪がありましょう?
『お前さんは、処刑対象の王族たちを恨んでおるのかね?』
「恨む? おっしゃる意味がわかりません。アーチラインさまとの結婚の障害になるから、いなくなってもらいたいだけですわ?」
特にお兄様は、ね。
お兄様さえいなければ、アーチライン様がサンドライトの王太子になれましたもの。お友達に頑張ってもらいたかったのに、残念ですわ。
ただ、それだと兄妹ですから、表向きは愛しあえませんわね。
だからこそ、私がサンドライト太守になれば良いのです。だって、合法的に夫婦になれるんですもの。
「だって皆様、私を溺愛なさってますもの。このくらいのお願い、聞いてくださってこそ本望でしょう?」
『ほー。そなたは、王族たちの愛し子じゃから、その願いの為に命を落とすは当然とな?』
「はい!」
私の気持ちを、こんなにも肯定なさるなんて。このご老人は、先祖の英霊なのかしら。
『ま、サーガフォルスからは、間違いなく正妃の次に愛されておるんじゃろうな。サンドライト国民全てが、平等に2番じゃが。あれも困った御仁じゃのー』
錫杖は、別の球体を示しました。
お父様です。会議室で指示を出す姿は、やはり麗しいと言わざるを得ませんわね。
『エリシアさんは、よう泣いておったの。幼い頃から何かがおかしいと悩んじゃーいたが、レドリック暗殺未遂が決定打じゃったようじゃの。シンシア嬢が毒殺されなんだのは、エリシアさんがフルート家にお前さんの情報を渡してたからじゃよ。ダブルスパイってえ立場なりに、もがいておるんじゃろうな』
別の球体には、お母様と王妃様、側妃様たちのお茶会が映しだされました。
いつ見てもお母様が最も美しく、最もドレスが貧相です。
『で、ミネルヴァ正妃と愉快な側妃たちは、お前さんが嫌いじゃ。妃教育は真面目にやらんし、お気に入りのエリシアさんを悩ませてばかりおるでな』
「……」
『逆に、レドリックには面白がられておるのう。ほれ』
と、別の球体を示せば、サラサラの金髪に常緑樹の瞳、天使のような容姿の弟が、サンドライトにいた頃の侍女たちを自らの侍女に採用していました。
『姉上様は、腹黒をかくしきれない浅はかさが、大変に可愛らしい方です』
『女性至上主義のアーチライン様に蛇蝎のごとく嫌われる、すごい才能の持ち主でもあります』
と、長年与えてきた媚薬菓子の、解毒剤入りの飴を下賜しているではありませんか。
「レドリィは、意地悪だわ……」
『否定はせんが、仕方がないんじゃないかのー?』
レドリックの球体も消えました。
今は、眼下で戦うお兄様とオケアノス様しか、見えません。
『フレデリックとファルカノスには、ちーっとは愛されてたかもしれんな。なんだかんだいって、あやつらは甘いでな。スコーネ城にフレデリックが来たら、ファルカノス同様に瞬殺したじゃろうな。ファルカノスはそれを阻止したかったんじゃろ。妹殺しの罪から、甥の心を守る為に』
「違いますわ!!!」
私は叫びました。
だって、だって、あり得ませんもの。
「それが、叔父様とお兄様の愛なの? この私を殺すことの、どこが?」
『そなたの罪は深い。生きて国に帰れば、楽に殺してはもらえなかったじゃろう。竜たちから身柄を要求されるかもしれない。その屍は、凄惨なほどに凌辱されよう。せめて生きている間は苦しまんよう、断腸の思いで刺したのじゃろうな』
それは、他の方には該当する憐憫かもしれません。でも、私には、私にだけは、あり得ないことです。
だって、王女は国家のヒロインですのよ?
全ての登場人物は、ヒロインの為に存在するもの。
国民は、王女の為に存在するもの。
それが、この世界の理ではありませんの?
『「自分は特別に可愛いお姫様だから、誰からも愛されて、許されるのが当たり前」なんざ、未熟な令嬢にありがちな自意識じゃが、お前さんのはタチが悪いのう。それにの、ヒロインは、自らが傷ついてでも他者を守ろうとする存在じゃと、ワシは思うとるよ?』
錫杖がシャンシャンと鳴り響いて、ひときわ輝く光球を指しました。
そこには、我が魂の伴侶、愛しい愛しいアーチライン様が映っていました。なぜか、ベッドサイドの椅子に腰かけ、寝具に横たわる忌々しい淫婦を見つめていました。
『お仕事しなくちゃ、ダメダメですよー。フレディ様がサボってる体になっちゃいますよー』
いつ聞いても、間が抜けた声です。お優しいアーチライン様は首を横にふり、包帯を巻いた手が痛まないよう、そっと掌を重ねていました。
『うまく魔王に擬態しなくちゃだから、君の無事を確かめて英気を養いたいんだ』
久しぶりにお声を拝聴しました。なんて涼しげで麗しいこと。
魅惑的なウインクに、汚らわしい淫婦が魂を撃たれたようです。
『アーチ様の私たらし! 気遣いの権化! このイケメン!!』
『悪口になってないよ?』
アーチライン様は立ち上がると、彼女の髪を指先で撫でて、乾いた唇にキスを贈りました。
不可解な光景ですわ。アーチライン様には、あの娘が私に見えるのでしょうか。
『……あのね。アーチ様。あのね……ごめんなさい』
『何が? 謝るようなこと、ひとつもないだろ?』
あんなにもあざとい涙なのに、これほど誠実な笑顔をかえすなんて。アーチライン様は真実の紳士です。
やはり、あの娘が私に見えるのですね。ならば、致し方のないことですけれど……。
『あの、ですね。アーチ様におねだりして、はじめてを貰っていただいたこと、ベルベル様に喋っちゃいました……』
『それは、僕の責任だ。特権とも言うけど。言わなくたって、そのうちバレるだろ』
『アーチ様は悪くないし。かっこいいだけだし! 私ね、どうしても、どうしても、ベルベル様を逃したかったんです。アーチ様を利用して、裏切ってでも、スノーちゃんに乗って欲しかったんです。でも、帝国では生娘じゃないと殺されるからダメって……ベルベル様を危険な場所に残すなんて、ダメすぎです』
『エイミちゃん』
『私、アーチ様のフレディ様への忠心がイヤです。だって、私をひとりぼっちにして死ぬことを恐れてないんですもん。私とフレディ様、どっちが大事なんだって……』
『命の重さだけなら、フレデリックだよ』
お兄様と淫婦のどちらが大事かなんて、聞くまでもありませんわ。自分で言って涙を流すなんて、忌々しいこと。
『そのお気持ちが、初めてわかったんです。アーチ様が大切にしてくださる自分を守ろうとしなくて、ごめんなさい。なのに、ベルベル様を残してきてごめんなさい。ごめんなさい! ごめ…』
喧しい女の唇を、アーチライン様がキスで塞がれました。
深い口吸いではないようですが、軽やかなリップ音が忌々しいほど繰り返されます。
『……あのカップルは、肝心な時ほど臣下を庇って、守らせてくれないから、腹が立つよね』
『はい。ひとりで助かってる自分に、ムカついてしょーがありません』
『そうきたか』
アーチライン様はくすくす笑いながら、ちょんちょんとピンクブロンドを弄んでいます。
『こんなに傷だらけになって。何箇所も骨折して。わかってる? 君が危険を省みずに守ったからこそ、マリアベルは無事だったんだよ』
『そんなこと……』
『彼女の身体能力では、スノーローズに乗って海を越えるなんて不可能だ。君は満身創痍になりながら帰国して、必要な報告をして、フレディを焚きつけた。マリアベルの判断は、正しかったんだよ』
『でも、でも……! あそこには乳ナシア王女がいるんですよ! 第一側妃とかゆー結構なご身分になって、毒どころか酸をぶっかけられそうになりましたもん! 石床がジューって溶けるやつ!!」
途端、アーチライン様の目の色が変わりました。
当然です。魂の伴侶か侮辱されたのですから。
『ふぅん。廃品回収してくれたオケアノスには、感謝しかないが。歌の聖女と次期王太子妃に強酸の差し入れ、ねえ。どんな拷問をお望みなのかなあ』
え? 廃品回収? 誰が? 誰のこと、ですの?
『あ、アーチ様? カツラなしでフル魔王様モードですよ?? 女の子大好き主義がブレブレですよ???』
『僕が敬愛するのは人間の女性であって、人の皮をかぶった蜚蠊なんか視界に入れたくもない。もしくは、この世にある拷問と処刑方法を、全て試してやりたい所存だ』
人の皮を被った蜚蠊……?
拷問に処刑……?
『いやー! ゴキブリアさんの話題やめますからー! いつものアーチ様に戻ってくださいいい!』
『本音だし。……でも、ごめん。怖がらせて。これでおあいこでいい? もう謝るのはナシだ。マリアベルは、必ず無事に帰ってくるよ。僕らの王太子殿下を信じて? 彼女が絡むと世界最強だから。ね?』
溢れては溢れる涙を、長く美しい指が拭います。
何度も、何度も。
拭いきれない滴は、形の良い唇が吸いとっていきます。
『ゆっくり体を休めるんだよ。僕の、僕だけのエイミ……』
優しくて、熱の篭った眼差し。とろけるような愛しげな笑顔。
違います。向ける女人が違います。
「嘘です! こんなの、嘘ですわ! まやかしですわ!」
気がついたら老人の手から、錫杖を奪っていました。
殴打しようにも、アーチライン様と淫婦の姿が消えてしまいました。
『信じる信じないは、お前さんの自由さ』
老人は変わらずに飄々としています。
思い出しました。この錫杖は、オケアノス様からのお土産です。望む夢とイヤな夢を見せる……お祖父さまの形見、でしたかしら?
「え……もしや、レイアリス上王殿下?」
『と、呼ばれていた頃もあった。ワシこそが、この世には存在しない幻さね。あんたもな。数刻前までレティシアと呼ばれていた娘の、残り香みたいなもんじゃ』
「な、な……んで、オケアノス様に殺されたって……」
『然り。有り体にいえば、孫を迎えに来たんじゃ。そなたはヒロインではない。強いて言えば、ヒロインを害する悪役王女じゃの。役を全うしたのじゃから、共に舞台を降りようぞ』
「いやあ! 助けて! アーチライン様!!」
逃げたいのに、足が動きません。
それどころか、全身が白く光って、ぼんやりと透けはじめました。
何故かしら。とても寒いわ。
どこからともなく、賛美歌が聴こえてきました。
遠い昔に、お母様の胸で聞いた子守唄にも似ています。
私の髪を優しく撫でてくれた柔らかな手は、お兄様? アーチライン様?
あの頃から私は満たされていて、ただ生きているだけで愛されてきて、今だって、あら、今は……?
ーーーもしも生まれ変われたら、今度は俺の娘になりな。
ーーー悪りぃことしたら泣かすし、いーことしたら褒めてやるから。
ーーー毒薬作ったらブン殴るし、エリクサー作ったらめっちゃ撫でるからよ。あと、数学はできるまで解かす。
叔父様……誰?
賛美歌に混じる アレは、誰の声かシラ?
悲シゲナ声。弔イ?
キット、幻聴デスワ…………ね……………。




