いくぞ! 婚約破棄! キミに決めた!
前世、一緒に暮らしていたおばあちゃんは「水戸黄門は、8時45分になると印籠を出すんだよ」と言っていた。
時代劇には、45分になると桜吹雪が出てきたり、将軍が暴れ終わったり、仕事人が何かを仕留めたりするらしい。
物語のお約束は、定番とか、マンネリとか、様式美と言われている。
乙女ゲームのクライマックスに、必ずといって良いほど出現する婚約破棄イベントも、そのひとつだろう。
数ヶ月後に、マリアベルがされるはずだったはずの様式美。
が。
合唱祭の表彰式を兼ねたパーティーで、それをやらかしたのは、乙女ゲームのメインヒーロー王太子フレデリックではなかった。
「フルート伯爵令嬢シンシア。君との婚約を、白紙に戻したいんだ」
まさかのアーチラインだった。
明確なルールがあるわけではないが、婚約者を伴わずに会場入りしたアーチラインに、参加者たちは戸惑った。
学校での優等生ぶりと夜会での節度ある自由奔放はどこへやら。その身分に相応しい、高慢な笑みを浮かべている。
人前で婚約を撤回した非道な青年の傍には、琥珀色のドレスを身を包んだ愛くるしい令嬢が佇んでいた。
不安げにアーチラインと、そしてシンシアを交互に見ては所在なく扇子を握りしめている。見るからに社交慣れしていない、初々しい所作だ。
目立たない色のドレスは、准男爵令嬢という身分からしたら妥当な選択だろう。だが、アーチラインの瞳を思わせる濃い琥珀色とはいかがなものか。また、アーチラインの胸には、エイミの瞳のような空色のタイ。袖口にはピンクゴールドのカフスとくれば、かなりあからさまだ。
シンシアは不安げにアーチラインを見上げ、その背後の従騎士は表情を変えないものの、拳を握りしめている。
今、この会場に彼女を守る両親はいない。伯爵位の父兄にしては珍しく欠席していた。アーチラインの母は来ているが、静観するのみで、諌めも守りもしない。
マリアベルは3人の声がギリギリ聞こえるテーブルに立ち、石のように固まっていた。両親やクリスフォード、妹のリリスフォードも怪訝な顔をしている。
乙女ゲームや小説や少女マンガで見知った「婚約破棄イベント」は、悪役令嬢とヒロインのどちらに非があろうと非常に華々しい場面のはずだ。
だが、現実はどうだ。
アーチラインは物語の令息のように、声高な断罪はしていない。テラスの近くで、まるで雑談をするみたいに婚約撤回を告げている。
この夜会には父兄も参加しているし、表彰式が終われば舞踏会もはじまる。皆に知らしめ、なんなら噂にしてくれていいと言う、冷ややかな悪意が見てとれる。
「理由を伺っても、よろしくて?」
告げられたシンシアは取り乱すことなく、かつてアーチラインからプレゼントされた白鳥の扇子を広げた。
身にまとうターコイズブルーのドレスは大公家の旗の色で、大人しい彼女が気後れし続けた鮮やかさだ。
レティシア王女が「ドレスだけ浮き上がって見えますわね。素敵な色」と注意しにくく嘲笑していたが、シンシア自身も好んで着ている風ではない。
だが、アーチラインがプレゼントしてきた小物は、いつでも彼女の雰囲気にぴったり似合っていた。今日の扇子も、真珠のネックレスも、ベルフラワーを模した小さな髪飾りも。
「僕の不徳だ。エイミ准男爵令嬢と恋に落ちた。貴女の名誉に誓って、貴女に非はない」
と、エイミの肩を抱き寄せれば、エイミは胸のあたりを押さえて悲しそうに苦笑いした。それは、見る者の庇護欲を刺激する、なんともいたいけな姿だった。
親も来ていない、従騎士しかいない少女を、人前で「君は僕に相応しくない」とこき下ろしているのだ。恋の勝利者としても複雑だろう。
シンシアは、未来の宰相夫人を約束されたにしては、控え目な令嬢である。学校の成績は良いが、貴族に必要な社交力が弱い。もともとおとなしい性質な上、長年レティシア王女に目の敵にされてきて、社交界に有力な味方が少ないのだ。
一方のエイミは地位や頭脳こそ大公家に相応しくないが、なにしろ容姿がずば抜けている。歌やダンスの才能は本日実証済みだ。実家はダイヤモンド鉱山を所有する資産家だから、質素倹約がモットーのフルート伯爵家と違って華やかだ。そもそも、出自の低さなんか、どうとでもなる。
アーチラインと並んでどちらが見栄えがするか、問うまでもない。
シンシアは扇子にため息を落とした。
「エイミさんは、愛妾として召すのではないのですね…」
「それでは彼女が可哀想だ。王弟殿下の養女となった後に大公家に嫁げるよう、殿下と話はついている」
つまり、こんな人前で愛人との仲を見せつけられ、婚約を白紙にされたシンシアはかわいそうでないと。大公家も王弟もエイミの味方だと、そう宣言したのだ。
聞き耳をたてるに留めていた者たちが、一斉に視線を向けた。
優秀なる大公家の令息が、いつかうだつの上がらない娘に見切りをつけるんじゃないかという噂は、婚約した当初から流れていた。
だが、まさかこんな暴挙に出るとは。
それでも、理解できなくない、と男たちは思う。
なにしろ絶世の美少女だ。小柄で華奢だがバストは豊かで、色気を前面に出さないが故の危うさ、幼さが男たちの劣情を煽る。
某秘密クラブでは、絵姿を模した春画が飛ぶように売れている。宰相令息がちょっとばかり道を踏み外すのも道理というもの。と、実際のエイミを知らない者ほど納得している。
貴族の婚約は家同士の契約だが、大公家ともなれば伯爵家との婚約なんて簡単になかったことにできる。
見目麗しい美少女を、家柄ロンダリングで正妻に迎えることは、造作もない。
「そう……ですか。かしこまりました。アーチライン様の思し召すままに」
ゆるゆると、小さな手が扇子を閉じる。
叩きこまれた極上のカーテシーを披露するのは、これが最後だろう。
「今宵は、これにて失礼しますわ。詳細は父にお話しください。私の一存ではこれ以上、申し上げられません」
小さな肩と声を震わせて、それでも伯爵令嬢としての矜持を守ろうと必死なシンシアを、遠巻きに見守る貴族たちが嘲笑う。
この社会は、つくづく力なき者に手厳しい。
「本当にすまない。シンシア嬢。最後に、送るよ」
「シンシア様、わたし……ごめんなさい」
合唱祭の舞台の上、それもど真ん中で額にだけどキスを受けて、気を失って、お姫様抱っこのまま退場とか、ほんと言い逃れができない。
シンシアは返事をしなかったが、辞意も述べず、アーチラインの最後のエスコートに従った。
何人かの野次馬が続こうとしたが、フレデリックの「これより、合唱祭の表彰式を行う」のアナウンスに、足止めされた。命令に慣れた声は、耳より心によく響く。
「エイミさんはこちらへ」と、ステラに連れられて三年生の集合場所に向かえば、アーチラインの色のドレスを着た彼女に、羨望の視線が刺さる。
エイミは一度だけ振り返り、出て行ったアーチラインとシンシアとその従者に悲しげな視線を向けた。
その可憐な姿は、略奪愛の勝利者というより、獣王に囚われた憐れな獲物を連想させた。
傷心の伯爵令嬢が去った講堂では、2年生の優勝と、3年生の特別理事長賞が発表され、大いに盛り上がっていた。
どちらの賞に権威があるのか、語るは野暮というものだろう。
最優秀伴奏者に選ばれたマリアベルは、『落とし所を心得ていらっしゃる』と、納得した。
最も素晴らしい合唱曲を披露したのは、間違いなく2年生である。
でも、後悔はしていない。
6年間で最高の出来だったし、拍手も歓声も3年生が圧倒的。終わってみれば、3年生の舞台の話題ばかり。試合で負けて勝負に勝った実感がある。
フレデリックとクリスフォードは、どちらも笑顔で悔しがっていたが。ほんと、負けず嫌いである。
そして、最優秀女性ソリストにエイミが選ばれ、国教会から聖女任命の審査が行われる旨が発表された。
生まれて初めて表彰台に立ったエイミは、青白い顔で枢機卿と握手を交わし、震える手で記念品を受け取った。
先程の婚約破棄騒動の余韻か、緊張か。いつもの朗らかでのほほんとした、元気な彼女はいなかった。
学園の門を出た馬車は、施設沿いの側道をすすんでゆく。
大公家のタウンハウスに置いてきたはずの荷物が、後部座席でガタガタ揺れている。まさに、追い出す前提の婚約破棄だった。
先程アーチラインと別れた馬車乗り場が、レンガの壁の向こう側に見えた。
パーティから参加する父兄だろうか。何台か、瀟洒な装飾の馬車とすれ違った。
(アーチライン様……)
2人乗りの狭い幌馬車に、従者のディーンとふたりで揺られながら、シンシアは過ぎ行く校舎を眺めあげた。
実は、この茶番の数日前に、シンシアとアーチラインの婚約は正式に破棄されている。
シンシアには年齢の離れた兄がふたりいて、上の兄は伯爵家の跡取りとなり、下の兄は神学を修めて枢機卿となった。
この、枢機卿となった兄が、あろうことか聖女様に無体を働き、慰み者とした。
聖女様は断崖絶壁に身を投げ、行方不明だそうだ。海岸の岩肌には愛用していたベールが引っかかっていたという。
表沙汰にはなっていないし、するつもりもなかろう。だが、近く枢機卿の兄は処刑されるだろう。父は爵位を返上し、跡取りの兄も平民に身を落とすだろう。
とてもではないが、大公家に嫁入りできる身の上ではない。
「ペテロは……冤罪だよ」
あの日、従者のディーンだけを残して人払いした客室で、アーチラインは窓枠に手をかけ、夏空を見上げてそう言った。自然光に照らされた横顔は、見たことのない苦渋に満ちていた。
大貴族でも世襲の聖職者でもない、実力だけで枢機卿になった兄には、教会での後ろ盾がない。最初から、なにか不都合が起きた瞬間、責任を負わされる立ち位置だった。
兄は教会に虐げられる者の存在を知り、保護するため、全て承知の上で枢機卿となった。
聖女への無体にしろ、冤罪をかぶるとわかっていたからこそ、彼女の身柄を王弟に預けたのだろう。
「フルート伯爵家は清廉な一族だ。君たちには、なにひとつ咎はない。なのに……ごめん。本当に、申し訳ない。大公家をもってしても、この不祥事を覆せなかった。国教会は……総本山が帝国の所属なんだ」
膝をついてうなだれるアーチラインに、何を告げたらよかったのだろう。
アーチラインはぽつり、ぽつりと語った。
ペテロと面会はできたが、人が変わったように粗野になっていた。聖女を犯した場面を、麻薬の摂取を、枢機卿たちの饗宴を、武勇伝のごとく声高に語り、看守の眉をひそめさせていた。
彼が看守の死角で行った手話を、アーチラインはありありと思い出すことができる。
『聖女様を治療されたし。東国に腕の良い医師あり』
『父、兄、覚悟あり。我の聖女様への忠誠、理解された由。妹の保護を切に願いたし』
『ただし』
『御身の保身こそ、最優先にされよ』
『然らば 愛しき義弟よ』
正確になぞれば、シンシアが口を押さえて泣き出した。
医療福祉に長けたフルート伯爵家では、夫人が視察で覚えた手話を、日常でも使用しては改良を重ねていた。
婚約者のアーチラインも、その輪に混ぜてもらったことがある。
アーチラインはシンシアの家族を、自分の家族よりも王家よりも深く尊敬していた。幼い頃から魑魅魍魎に揉まれてきた身からすると、あまりの人柄の良さ、高潔さが心配ではあったけれど。
ならば、自分が守れば良いと思っていた。
守れると思っていた。
守れなかったくせに。
うなだれるアーチラインを、従騎士のディーンが蹴っ飛ばした。
「で? あんたは、お嬢様も見殺しにするつもりなんかないんだろ? 俺はなにしたらいーんだよ? さっさと命令しろよな!」
この不敬極まりないディーンという従騎士は、フルート家の家臣ではない。もともとはアーチラインの従騎士で、婚約者であるシンシアの守りを命ぜられ、フルート家に派遣されたのだ。
婚約破棄したのに、シンシアを「お嬢様」呼ばわりで、アーチラインは「あんた」。
弟がアーチラインの乳兄弟で、一緒に育ったようなものなので、いまいちお兄ちゃん気分が抜けないのである。
それにしても、不敬だけど。
そのとき、すれ違った馬車が、轍もないのに横転した。
馬の悲鳴と衝撃音に、思考の海に沈んでいたシンシアも我にかえる。
「な、何事ですの?!」
「様子を見ます」
ディーンが御者台に顔を出すと、御者が闖入者に蹴っ飛ばされていた。憐れな御者は抵抗もできずに、地面に落ちた。
「ぐはっ!」
御者を始末した後、悠々手綱を握る闖入者を、ディーンが怒鳴りつける。
「あんた、何を無茶なことしてるんですか!」
「アーチライン様!」
目を丸くするシンシア。御者台に移ろうとするディーンを、アーチラインが手で制した。
「追っ手の皆さんが厄介そうだから、来ちゃった」
「来ちゃったって! 騎士でも暗部でもよこしてくださいよ! なんでっ! 」
「並の騎士や暗部より、僕の方が強いよ?」
「知ってますけど! そーゆー問題じゃないでしょうが! あんたが……」
「そんなことより、ぶっ飛ばすからシンシア嬢を支えてて?」
「ああ、もう! 人の話聞けよ! 日和見宰相家のくせに、たまに王族の血が出るよな! あんた! 」
一見ただの乗り合い馬車にしか見えない幌馬車が、幌馬車にあるまじきスピードを出した。
「きゃあ!」
「お嬢様、失礼します」
衝撃に驚いて悲鳴をあげたシンシアを、ディーンが包み込むように抱きかかえて支えた。
馬車は伯爵家のタウンハウスを素通りして、南へ、南へ、ひた走る。
大公家の飛び地がある、サンドライト帝国最南端の半島を目指して。
欄外人物紹介
ディーン・ホメロス
大公宰相家の乳母家、ホメロス子爵の嫡男。
もともとはアーチラインの従騎士だったが、婚約と同時にシンシアの従騎士になった。騎士爵持ちのエリート。
アーチラインが中等部1年時に高等部3年だった。
切れ長の瞳と射干玉の髪を持つ塩顔イケメン。
シンシアの好みど真ん中な容姿が災いして、妄想で汚され尽くしている。しかも総受け。
ちなみに、アーチラインの乳兄弟である弟は合唱祭で指揮をやらされて、エイミの自由さとマリアベルの無茶振りに胃を壊した。なかなかに女難な兄弟。
ペテロ・フルート
フルート家次男。東国の医学アカデミー卒業後に教会に所属し、貧窮層に医術を広めた功績で枢機卿に選ばれた。
腐女子シンシアのお兄ちゃんなのに、性格は高潔。
絵画の聖女ミレーヌの画風が変わったことで異変に気がつき、王弟に絵画を送りつけて保護の必要性をほのめかした。
聖女が自死した体で逃亡させた時点で、数多の冤罪を得て処刑される運命と知っていた。享年32歳。
約10年後、フレデリックが即位した翌年に冤罪が晴らされて、名誉を回復する。




