11「ドラゴンズ・ハイ」
「いい? ユキ。今からアタシが言うことをよく聞くのよ」
「キュウッ」
急遽決まったレースを前に、アタシはユキにどうしても伝えておかなきゃならないことがあった。
「アイツは間違いなく強い。正直に言って、勝てる相手じゃないわ」
さっきの連中はともかく、エリーゼと相棒の竜は間違いなく強い。口先だけじゃないのは確かだ。そんなのに、ようやくまっすぐ飛べるようになっただけのアタシ達が勝てるだなんて、微塵も考えてない。
「だからこれは負けて当然の試合よ。地区予選優勝候補のアイツはどれほど強いのか。目標を見定めるの」
胸を借りるつもりで、ってヤツ。持てる力の全てを出して、運がこちらに傾いていたとしても、絶対に勝てない相手。それは裏を返せば、稽古として思い切りぶつかっても安心な相手。
言っておかないと、ユキはまた傷つきかねない。負ける前提の試合に負けて傷ついたり、責任を感じることに意味はない。
「だから勝ち負け関係なく、ただ全力を尽くすのよ。わかった?」
「キュゥ……?」
「……アンタの言いたいこと、少しわかるわ。弱気なのが珍しいってんでしょ? アタシだってなんの爪痕も残さないつもりはないわ。やってやるのよ。敗北の二文字が脳裏をよぎるほど、ヒヤッとさせてやる。あの余裕ぶった仮面を、一瞬でも剥いでやりましょ!」
「キュウ! キューゥッ!」
「無意味な作戦会議は終わりまして?」
髪をポニーテールに結んだエリーゼが問うてくる。
そういえば、陸上女子はポニーテールにする方が可愛いとか言ってきたチャラそうな先輩が昔いたな、なんてことを思い出す。確かあれは、短距離でコンマ以上の差をつけたら話しかけて来なくなったんだったか。
「さっさと始めようじゃない」
「どこまでやれるか見せてもらいますわ」
「ハン、その余裕がいつまで保つかしらね」
鞍に跨り、手綱を取る。
「往復したいところですけれど、向こうまで到達したと証明する術がありませんわ。グラファイディアの羽ばたきでは、あのような枝など吹き飛ばしてしまいますから」
「なら片道でいいんじゃない」
「ええ。そういたしましょう。……開幕の合図を!」
上体を前へ。開幕の瞬間を待つ。
顎先を伝った汗を拭う。肩にこもる力は不要なほど強かった。細い息と共に吐き出す。レースそのものは二度目。しかし先とは感じる圧がまるで違う。意識しなければ、息をすることさえ忘れてしまいそうだ。
隣へ目を向ける。
ユキを、戯れに作った砂山とするならば、向こうのドラゴン――グラファイディアといったか――は、噴火寸前の活火山。重く、厚く、大きく、全てを呑み込む火砕流。
……けど。
「セットレディ! スリー、ツー、ワン……!」
いつだって考えるべきは最速のスタート。誰よりも速く大空へ舞い上がること。誰よりも前へ出ること。それ以外は全部、余計なことだ。
手綱を、握る。
ビーーーーーーーッ!
先に動き出したのは、やはりこちらの方だ。アタシの手綱に反応したユキは一足先に地面とおさらばし、
「キュウゥッ!?」
「っ!?」
突然、乱気流に呑み込まれた。姿勢を崩してよろめくとか、そういうレベルじゃない。竜巻に抗う術を持たない人間のように、吹き荒れる暴風に巻き上げられていた。
アタシの視界も当然回る。振り回され、揺さぶられ、歯を食いしばる以外の選択肢を完全に失う。
ただ離陸しただけで、ここまで……!? 図体は伊達じゃない……!
どれほどの時間が経過したのか。ようやくユキが気流の渦から抜け、姿勢を安定させる頃には、向こうは既に遥か遠く。ユキならとうの昔にトップスピードに乗っているほどの距離を進んでいた。
「くっ! 大いなる力、我が手に宿れ!」
追うしかない。強化をかけると同時、ユキは加速をかけた。昨日のおさらいのように、あくまでゆるやかに。しかし、現状安定して出せるトップスピードに到達しても、まざまざと感じられるほど距離は縮まらない。このままでは絶対に差せない。ヤツの首筋に、死神の鎌を当てられない。
まっすぐ飛ぶだけなら……っ!
アタシは右の手綱をクッ、と引いた。躊躇い混じり、ほんの少しの減速。ユキの迷いが伝わる。本当に指示通りにしていいのか。速度を上げていいのか。
だからアタシは、再び手綱を引いた。行きなさい。アタシはアンタを信じるから。
そして――加速した。風を置き去りにして、白きワイバーンは飛ぶ。アタシはただ抑えにしがみつき、相棒の全力に賭けた。彼女の負担にだけはならないように。
捉えた。黒竜の背に揺れる金色の髪も視認した。差すためのルートも形になった。行ける。行ける。行ける!
金色は顔を傾け、背後に迫る白竜を、その背に掴まるアタシを見て。
――薄く笑った。
「っ!」
両の手綱を強く引き、急停止の指示を出す。急激なマイナスへの加速。握力全開の手が強く痛む。トップスピードに乗っていたユキは急減速してなお、ブレーキがかかり切らず相当な距離を進み、ようやく停止する。グローブがなければ、手の皮の二、三枚は持ってかれてたかもしれない。でも止まるしかなかった。勘と、エリーゼのあの表情から悟ったから。このまま通りすぎるのは危険だと。
竜が一際強く羽ばたいたその後には、気流が逆巻いていた。見えないはずの空気の渦がいくつも発生し、厚く複雑な壁となって立ちはだかっている。停止するのがあと少し遅ければ、開幕のように暴風に巻き上げられていたに違いない。
「――――」
嫌な汗が頬を伝い、流れ落ちた。立ち往生の間に、グラファイディアは大きく距離を稼いでいる。暴風を避け、回り込まざるを得ないアタシ達は、大幅にロスするしかなかった。
……そこからは一方的な試合展開だった。
追いすがり、追い抜こうとして嵐に阻まれ、背後につくことさえ叶わない。強引に突破しようとしても、繰り返し風を起こされればユキではまるで耐えきれず、流される。ならばと距離を取って上や下を抜けようにも、これは一対一のレース。向こうもキッチリ寄せてきて進路を妨害する。
「これじゃ近づけやしないじゃない! ……クソが!」
雷雲のような黒竜は、悠々とゴールしようとしていた。翼の一振り。向こうがしていることはたったそれだけなのに、小さく力も弱いユキでは、近づくことすら許されない。
追いつけない速さじゃない。むしろ真っ向から速度を競えば、ユキの方がずっと速いかもしれない。
なのに。だというのに。アイツの勝利を脅かすどころか、本気で戦うことすらしてもらえない。
打つ手がなかった。エリーゼがゴールテープを切る瞬間を、離れたところで打ちひしがれて、ただ見ていることしか、できなかった。
「キュウゥ……」
「これが……ドラゴンズ・ハイ……」
轟く勝利の咆哮が、胸を震わせた。




