第三章・鬼哭・一
「大搦、次の問題解けるか?」
わたしは、黒板にサラサラっと問題を書いていく。
と言っても、本来は教科書に載っていない問題なのだが。
【解体新書を作成したのは杉田玄白。ではその元となった医学書の作者は?】
自分で書いておいてなんだが、まるでクイズ番組の問題文みたいだな。
「えっと……」
大搦は混乱しており、困った表情でわたしを見る。
さすがに少し難しいかと思いつつ、
「えっと、あれだ。別にフルネームで云わなくてもいいんだぞ? そうだな、バッハがフルネームで言えれば、だいたいわかるぞ」
バッハのフルネームは『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』なのだが、他のバッハと混同しないよう、略称をJ.S.バッハとしているようだ。
どちらかというと、本名よりもこちらのほうが有名な気がする。
「――余計わかりませんよ」
大搦は頬をふくらませる。
「あぁ、先生もすまないことをしたな。ほかに誰かわかるやつはいるか?」
そう言うと、ゆっくりと神代が手をあげた。
「おっ! 神代、答えてみろ」
そう指名すると、神代は立ち上がり、
「えっと、たしか『ヨハン・アダム・クルムス』だったと思います」
と、答えた。
わたしはすこしためてから、
「――正解だ」
と告げた。
それを聞いて、神代はホッと胸を撫で下ろす。
「ついでに、底本のタイトルも云えたら頭を撫でてやろう」
わたしは軽い気持ちでそう言った。
「アナタミッシェ・テーブル……ですか?」
神代は、たじろぎながらも答える。
「ファイナル・アンサー?」
「えっ? ファイナル・アンサー」
教室内で少しばかりの緊張と、静寂が支配する。
「――残念っ!」
わたしは落胆した表情でそう告げた。
神代のみならず、一部の生徒から、残念そうなためいきがこだましている。
「惜しいな、今の正解してたら一千万いってたぞ」
「先生、それはないでしょ?」
教室内で笑いがこだまする。
「いや、そもそも底本の作者自体、詳しくない人は知らないからな。神代よく調べたが、底本のタイトルの読み間違いは惜しかったな」
わたしは黒板に答えを書いていく。
「解体新書の底本のタイトルは、オランダ語訳で『ターヘル・アナトミア』といって、作者はさっき神代が答えた通り『ヨハン・アダム・クルムス』という人物だ。蘭方医だった玄白が『解体新書』を作ろうと思ったきっかけとなったのは、明和八年三月四日、小塚原の刑場で行われた罪人の腑分け。今でいう解剖を見学したのが始まりとされている。玄白はもともと底本を持っていたこともあり、本に書かれていたことが、実際の解剖に正確だったらしく、これを日本語に訳した書物を作ろうと計画を立てる。さて、同じように底本を持っていたのは誰だったかな?」
わたしは子どもたちを見渡してから、
『一・桂川甫周 二・前野良沢 三・中川淳庵』
と、黒板に三択を書いていく。
「よし。それじゃぁ、まず一番の桂川甫周だと思う人」
そう言うと、十三人くらいの子どもが手をあげる。
「次、二番の前野良沢だと思う人」
次に、八人くらいの子どもが手をあげる。
その中に、鑓川、神代、田之中も手をあげていた。
「最後、三番中川淳庵だと思う人」
クラス三十人。残りの九人が手をあげる。
「よし。それじゃぁ正解は……」
子どもたちはゴクリと喉を鳴らし、わたしを見つめる。
「まず一番の桂川甫周だが、そもそもきっかけとなった解剖には参加していなかったという記録もあり、翻訳にも参加していない。次に三番の中川淳庵は翻訳の参加をしており、他にも参考書とされている『パルヘイン解体書』『バルシトス解体書』を所有していたようだが、底本となった本は所有していなかった。よって答えは二番の前野良沢だ」
正解した子どもたちのうち、何人かがガッツポーズを取っている。
そうこう受業を進めていくと、終業ベルが鳴り響いた。
黒板に書いた文章を消していると、うしろから子どもたちの文句が聞こえるが、集中して書いてないから遅れるのだ。
「よし。四時間目終了。あ、さっきの問題だが、次の社会のテストで出すかもしれんから、しっかり先生の話を聞いてないとダメだぞ。それじゃぁ、先生はちょっと用事があるから、給食当番よろしくな」
そう言って、わたしは教室を後にした。
「よっしゃぁ、給食だぁっ!」
「さっきの先生の話、誰かノートに取ってない?」
「だめ、先生さっさと黒板消しちゃうから、途中までしか書いてない」
「えっと、解体新書の底本のタイトルが、タートルネックで……」
「違う『ターヘル・アナトミア』。タートルネックって、服の名前だろ?」
班ごとに、机をふたつ並べての向かい合わせにしていくなか、教室内はさっきのことで話題になっていた。
「今日はなんだっけかな?」
「たしかポタージュだったはずだぜ」
一週間の献立表を見ている男子がそう話しているのが耳に入った。
給食当番が給食室から戻ってきて、配膳を開始する。
自分の番になり、配膳してもらっていくのだが、どうも他の人に比べて、ご飯ものやサラダの量が少ない。
そして、ポタージュを受け取った時、その配膳をしている蛎瀬さんが、手の中に潜めていたものを、ポタージュの中に入れた。
「……なにしてるの?」
「んっ? 特性スパイス入れてるだけ」
まるで悪くも思っていない表情で、蛎瀬さんは言う。
「おい、鑓川後支えてんだよ」
横からそう言われ、私は自分の席に戻った。
それと同時に、先生が教室に戻ってきた。
「うし、先生の分は残してるのか?」
「ちゃんと残してますよ」
先生は、献立を給食当番に配膳してもらうと、教師用の机に座った。
「よし。それじゃぁ、全員手を合わせろ。いただきます」
「いただきます」
他のみんなは食べ始めたが、わたしは食べ出せなかった。
眼の前にあるポタージュの中で、鉛筆とか消しゴムのカスが、ぷかりと浮かんでいる。
「どうしたの? ほら、食べないと怒られるわよ」
向かい合わせに座っている、厳原さんがうながす。
意を決して、ゴミの入ったポタージュを口に運ぼうとした時だった。
「鑓川、ご飯いるか? 見たところお前少ないようだしな。給食当番、しっかりと、平均的に配膳してるのか?」
「先生、鑓川さんはダイエットしてるんですよ」
常磐さんがそう言うと、教室内は笑い出す。
「うーん。あまり食事を制限してのダイエットはすすめられんのだがなぁ。まぁ、先生も小食でな、よかったらポタージュ食わんか?」
先生はそう言って、ポタージュの入ったお椀を持って、私のところへとやって来る。
「で、でも……」
「お、なんだ? 鑓川のポタージュになにか入ってるな」
そう言って、先生は私のポタージュを、自分のスプーンでかき混ぜる。
「この灰色のやつはケシカスか? 黒いのは鉛筆の削りカスみたいだな」
そう言いながら、先生は迷いすら見せず、ポタージュを配膳していた、蛎瀬さんを見遣った。
「……どうだ蛎瀬、お前のポタージュにも同じことをしてやろうか?」
先生の低い声に蛎瀬さんは肩を震わせる。ほとんど半泣き状態だ。
「ちょっと、なんで蛎瀬さんが犯人になるんですか?」
「そうですよ。鑓川さんの自作自演かもしれないじゃないですか」
「そ、そうですよ先生。それ自分が……」
私はこれ以上、事を大きくしたくなかった。
我慢すればいい。そう思った。
だから、心にもないことを言おうとしたんだ。
だけど――。
先生は、ゴミの入った私のポタージュを、一気に自分の口の中にかきこんでいった。
「んっ? 鑓川、なにか言おうとしてたな。いやぁ、すまない。先生、自分のと間違えて鑓川のおかずを食べてしまったようだな。いやぁ、すまないことをした」
先生は、笑いながら言った。
「ほら、代わりに先生のをやる」
そう言うと、先生は自分のポタージュを、私のお盆に乗せ、机へと戻り、食事を再開した。
「なぁら、くそぉっ!」
給食が終わっての昼休み。
わたしは職員用のトイレの個室にいた。
理由は、肌を下したからだ。
やはり無理してゴミの入ったものを食べるものじゃないな。
「でも、先輩。生徒を守るために自分を犠牲にするなんて、わたしには到底できませんよ」
「鑓川は自分がしたことにしようとしていたからな」
「でも、どうして鑓川さんはいじめられはじめたんでしょうか?」
「……理由なんてどうでもいいんじゃないか?」
「えっ?」
電話先の現川くんが、唖然とした声を発する。
「いじめというのはストレスの発散という理由もあるが、本質を考えると、大体はなにも考えてない」
「なにも考えていないって……、でもいじめを苦に自殺したり」
「それは弱者の言い訳だろ。――いじめで自殺をするにしてもしないにしても、鑓川がやろうとしたことはダメなんだ」
わたしがあのゴミ入りポタージュを一気に食べようとした時、鑓川は自分がやったと言おうとした。
それはつまり、いじめを受け入れようとしていたんだ。
「ケンカは当人たちの問題であり、わたしがとやかく言う立場ではない。だがいじめというのは学級。強いては学校全体の問題だ」
わたしは、今朝の、田之中の言葉を思い出す。
――見て見ぬふりをしていたり、傍観者を気取ってる時点で、その人もいじめに加担してる。
「彼女の言う通りだな。教師も学校も、そのいじめを認知している以上、それを蔑ろにしていれば、いじめに加担しているのと変わりない」
「先輩。やっぱり先輩は教師になったほうがいい気がします」
現川くんにそう言われたが、
「わたしはあくまで警官だ。だが、こういう形で彼らと接したくはなかったがね」
わたしは苦笑いを浮かべていた。
自分の中で、子どもたちが本当に大切な生徒だという、自覚ができていたのだろう。
できれば、あの時に、今のような気持ちが残っていれば、よかったと思えてならなかった。
13/10/07:文章修正




