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キミへ囁くしば桜  作者: いすみ 静江✿
第八章 春望
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第四十一話 トンネル

 令和三年のゴールデンウイーク、しば桜の季節だ。母は七十七歳、私が五十歳にもなっていた。奇しくも母が父を失った年齢まで、私も歳月を重ねた。


「んっしょ」


 私は執念で山を踏む。重いさくらと言う荷を背負って。こんなことなら、お洒落に群青の地に白い小さな水玉のワンピースを着て来なければよかった。白いストールは、パパに持って貰っている。


「ママ。櫻絵さんたら。意地張らないで、お祖母ちゃんはパパが代わるよ」

「私の母だからよ。パパも去年のお誕生日は散々だったでしょう」


 ◆◆


 令和二年十二月十二日のことだ。母が要支援ようしえんの宣告を受けた日、父が亡くなった日と同じで不思議な巡り合わせだと思った。母は酷かった。いや、徐々に酷くなって行った。クリーム色の病室で、パーマの取れた髪を振り乱し、瞬間的に爆発する。


「親をバカにするな!」


 急に大声で乞い、仁王立ちになった。傍にいた私のボウタイを掴み掛かる。オレンジのブラウスは無残な姿になった。風変りな母になったと思っていたが、私の心は憎らしむ訳には行かない。待合室の子ども達は、呆気に取られていた。一番先に対応したのは生原家の長女だ。


「僕は関わらない。生原のお祖母さんとは、相性が悪いのが目に見えているから」


 中学三年生になった梅芳はすっとした顔をしていた。全てを否定するかのように手で追い払う。


「美桜っちと折り紙で遊ぼうね。おばあちゃ」


 美桜緒が一番祖母に懐いている。祖母の手を取り、自身の胸に当てた。安心を与える術を知っているのだろう。我が家の生き物担当を率先していつも愛情を込めていた。パパが折角のお庭だからと矮鶏ちゃぼの小屋を用意して、情操教育だからと好きにさせていた。餌をやり、なんとひよこも孵してしまう勢いだ。


「おばあちゃ、大人がいるから怖くないからね。美桜っちもここにいるよ」


 祖母の具合の悪さを知らないからだ。だからか、しきりと宥めた。


 ◆◆


 令和三年四月十五日。母の獰猛化で、家庭が壊れそうだと辟易した為、介護付有料老人ホーム『しばざくら』へ入居させることとなった。押したばかりの印泥いんでいも乾かない内に、決行している。ただ、この山道へ入ってしまったのは誤算だった。フクお祖母さんのお見舞いへ行ったとき、寧くんの運転で楽に来られた。立て看板から先、道が細いと思いって徒歩に切り替えたのが失敗だ。地図と違う道へ分け入る。看板で徒歩三十分を確認したのだが。


「二度と、親をバカにするな事件を引き起こしたくないわよ」


 口を結んで前へ進む。しずくトンネルまで直進と看板に表記されていた。草丈が高くて歩き難かろうが、露が肢体をびしょ濡れにしようが構わない。荷が蠢いて私の手にぬるい屁をされてしまった。


「あたしのお家は、まだかね」


 七十七歳を背負い直す。一人娘の誠意が伝わらないのか、催促に苛ついた。


「はいはい、お母さん。お友達が沢山おりますよ」


 投げやりにしか対応できない自分にも苛立っていた。中三になっても氷のような梅芳とどんぐりの背比べだ。二つ下の美桜緒のぬくもりを借りたい。


「パパでもいいかな、お祖母ちゃん」

「どちらさま?」


 背中で口を曲げて惚けた顔をする。私は醜女と化しており、鏡を避けたかった。


「これだもの。愛情が裏返りそうだわ」


 嘲笑してしまう程に私は汚れた。


「お祖母ちゃんはどうしたのかな」


 パパはお人好しだ。彼は怒らないで物事を片付ける。


「僕からは、呆けたとしか」

「梅芳姉ちゃ、美桜っちだって同じだよ」

「流石にうちの梅芳さんに美桜緒さん、案じているとパパは信じているよ」


 呑気な会話には入って行けない。人生七十余年の荷は、娘である私の責任だから。


「ママ、子ども達もお祖母ちゃんを悪く思ってないよ」


 泥臭い汗に優しさなど届かなかった。


「老いた母を最終処分場へ送るのは、気が引けるの。だからこそ、二人分歩むのは譲れないのよ」


 山道に入ってから小一時間、汗は睫毛からも滴って限界を感じていた。すぐ前も分からない。じっとりと合わさった背に、母の薄ら笑いが伝わる。得体の知れないものが、びちりと頬に当たった。濡れそぼった母の袖で、目隠しゲームが始まったらしい。


「あたしは負んぶ嫌い。もう疲れたよ」


 飽きて来たのか、獰猛化の片鱗が見える。母の尻をずらしてどしっと持ち直す。


「意地でもいいわ! 私はこの山を登り切りますから」


 この先に絢爛豪華な老人ホームがある。引き渡すまでが私の仕事だ。


「梅芳さん、美桜緒さん。追い付いているかな」


 パパからのエールだ。


「僕はいるよ」

「生原家揃っておりまする」


 この子達は、母の犯した罪を知らない。綺麗なしば桜の公園へ連れて行くと、志朗さんがいると呟く癖がある。


「戦中生まれのお祖母さんの狂い咲きなど、分からなくてもいいの。お父さんへの裏切り行為だからよ」


 フラッシュバックに心臓を凍てつかせていたときだった。


「雫トンネルよ!」


 肩で息をしていた。念の為マスクをしていたので、入り口からの冷気にあてられないで済む。


「きっと、もう一息だからね」


 トンネルの中は、もっと足元が悪そうだ。汚い、嫌だ。けれども、一歩踏み込まなければならない。


「はあ、はあ……」

「疲れたろう。もっと頼っていいよ、ママ」

「パパ」

『パパ、パパ、パパ』


 躊躇いがこだまする。トンネルが軋んだ。列車の懐かしい音がする。私だけの幻だろうか。コトトンコトトンと向こうから来るようだ。


「列車に轢かれるわ! 皆、壁際へ」

「列車は来ないよ。パパには聞こえなかったな」


 幻聴ではないことを祈りたい。汚いと思っていたトンネルの中は、整備されていた。よく足元を見ると、枕木が背の順になっており、線路があったと推察できる。


「気を付けて歩いてね」


 もうすぐだ。もうすぐの筈だ。背負いながら後ろからも支えて貰い、枕木を目安に直線を踏む。奇妙なことに、薄桃色をした明かりに呼ばれた。


『ようこそお越しいただきました。薄桃よ』

「とんでもなく久し振りに聞いたわ。しば桜の声よね?」

「病気じゃなくてママの創作みたいだから、安心しているよ」


 パパが不思議なことを言っているけれども、聞かなかったことにしよう。とうとう雫トンネルを抜けた。明かりが眩しく差し込んだかと思うと、一面の薄桃色が広がる。向こうに薄紫の建物が霞む。介護付有料老人ホーム『しばざくら』だ。

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