第三十八話 愛しい妹
「ママ、お義母さんと同じ病院の産科に来ているよ」
「赤ちゃんは!」
飛び起きようとしたが、力が入らなかった。黄色い壁のカーテンで仕切られた部屋だ。計器の音がする。
『どうされましたか。生原櫻絵様』
「櫻絵の夫です。本人が目覚めました」
『分かりました。参ります』
ナースコールでパパが告げてくれた。
「ママは、気を失ったのだよ。医師がお見えになるから、よく診察して貰おう」
「ああ! お母さんはどうしたのかしら」
パパが黙っている。
「お母さんは無事なのよね」
「焦らずに聞いて欲しい」
「パッパ、パッパ。だっこ」
「よしよし。すっかり抱っこ好きになちゃったな。梅芳ちゃん」
パパは、つかまり立ちをしていた子を抱きかかえた。
「ママ、安心して。お母さんの容体から、看護と検査の為に暫く入院することになったよ」
「え……。打ちどころとか悪いのかしら」
私は青ざめた。
「頭を打っているから、僕も心配だしね。入院をお願いした」
「パッパ、ちょうだいな。ちょうだいな」
「はいはい、喉が渇いたのか。麦茶を飲むかな」
梅芳ちゃんは、ストロー付きの麦茶コップで上手に飲む。毎日、少しずつだけれども、成長を感じる。
「妊娠が分かったばかりのママに無理があってはいけないから、帰宅して休んだらいいと思うよ」
医師の診察により、私の方は頭を打つなどの身体的なものではなく、心理的なストレスからだと診断された。よく安静にするようにと、注意すべき点を示される。午後には離床した。
「患者の生原さくらさんのことは、僕、生原寧にご連絡を願います」
ナースセンターに言葉を置き、私達は病院を去った。三人で無事に家路に着く。
「家に帰れてよかったな」
「茅葺のおうちが一番だわ」
私はタンポポ茶をいただく。病院の売店にあり、妊婦にいいと買い求めた。
「家事は僕に任せてほしいな。好きなことをして過ごしたらいいと思うよ。油彩画が大変だったら絵手紙とか、趣味を持つのもいいと思う」
「絵手紙の方が向いているのかしら」
彼は家に幾つか額装してある絵手紙に目をやる。
「梅芳ちゃんのTシャツが干してあり、『おおきくなりました』とあるのに僕は感動したんだ。ママは、どれ程子どもを愛しているのかと」
私の髪をやわらかに抱いてくれた。込み上げて来るものを我慢していた。
「疲れただろう」
「……う、本当は心配だったの」
とうとう決壊した。一つ、二つと零してしまう。彼の肩を濡らしてしまった。さらさらと私の髪が流れて行く。指先に絡め、漠然としていたものを思い出した。
「パン作りしてみたかったのよ。それも趣味に入れてもいいかしら」
「うん、いいと思うよ。僕もご相伴に預かりたいね」
母がいなくて残念だが、週に二回程はパンを焼く。計量して発酵してと一日掛かって夕には食べられるようになった。
「さあ、手捏ねのテーブルロールですよ。パパのシチューと一緒にいただきましょう」
「いただきます」
「んま、んま」
我が子の成長とお腹の子への想いは、絵手紙にした。
「あんよがじょうずか。いいね。ママの心だね。愛らしい花をあしらった靴を僕も履かせたいな」
「梅芳ちゃんが自由に歩けるように。お祈りをがんばりました」
母のいない生活が暫く続いた。私が思っていたよりも母に頼っているのだと分かった。
「お母さん、お帰りなさい」
「お義母さん、お元気になられてよかった」
「ばあばっ。ばあば」
二週間後に、母は退院した。寧くんのお迎えで家に着く。しば桜は通り易いように、玄関周りは空けて置いた。
「いやいや、心配を掛けてすまないね」
居間でお気に入りの場所に座布団を用意していた。母は、座るのにも億劫なようだ。少し痩せたのを心配する。
◆◆
平成二十年五月十四日。お夕飯が終わって、梅芳ちゃんも寝付いた頃だった。私に特別な異変が起きる。
「お腹が痛い。痛いわ……!」
「ママ?」
お手洗いとかではなく、尋常ではない強い波が寄せて来る。
「パパ……。もしかして、陣痛が来たのかも知れないわ」
「ママ! よし、バッグを持って行こう。すぐに病院へも電話をするからね。安心して」
パパは、テキパキとしていた。
「お義母さん、梅芳ちゃんをお願いします」
「はいよ、任せて。転ばないんだよ」
病院へ着くと、部屋へストレッチャーで移動した。
「あ、あ、あ、痛い……」
もう表現力などなく、自分の身体状況を声にする。人生初の激痛が波となって襲って来た。
◆◆
陣痛が十五時間続いた。
「がんばって、ママ。他に飲み物とか要らないの?」
「み……。みーずー」
「分かった。自販で買って来るよ」
医師が時々診察に来る。
「もう少し、がんばりましょう」
私は、三度首を縦に振り、返事とした。口を開くのも辛いから。もう、時計を見る余裕もない。間違って産まれたりしないのかと、不安になっていた。
「順調ですよ。生原櫻絵様、分娩室へ移動します。腕のバンドが二つあるのを確認いたしました。イクハラサエ様で合っていますね」
「ええ」
ここからの立ち会いはいけないらしく、パパは待合室へ行ったらしい。母と梅芳ちゃんもいると聞いた。
「う、うーん……」
こんなに痛いものだったのか。梅芳ちゃんも生みの親から、謎の痛みを伴って産まれたのだろう。病院でもなく、不意に産気づいてしまったのかも知れない。
「生原様、意識をお産に向けてください」
はいと口を動かすも、風を吐くようだった。医師や助産師さんらの話し掛けのままに、お産に集中する。まだか、まだかとずっと思っていた。体感時間は地球を一周だ。
◆◆
五月十五日の午後、産声を聴いた。
「んぎゃ――」
肺胞の奥から出る一つの命が繋がった印だ。向こうで赤ちゃんを調べている。
「お母さんの腕バンドの片方を赤ちゃんにつけます。イクハラサエ様とあります」
赤ちゃんと私に、お揃いのバーコードが印字された黄色くて外れないバンドが巻いてあった。
「おめでとうございます。お母さん」
「おめでとうございます。お母さん」
私は、惚けていた。身二つになることがお母さんと呼ばれることだと実感したのは、本当にお産をした下の子でのこと。
「お、お母さん! おめでとう?」
胸元で赤ちゃんを抱かせていただいた。
「女のお子さんですよ」
クベースに入れるとの旨を承諾し、私は赤ちゃんと別々に分娩室から出た。
「落ち着いて聞いて。気を遣わないでほしい。僕の両親もお見舞いとお祝いに来ているんだ」
「鶴見のお義母さん、お義父さん……」
思い起こせば、神奈川から呼んでもいいだろうかとパパに尋ねられていた。
「お久し振りです」
気持ちが上ずっていて、どうしているのか内容が飲み込めていない。




