第三十七話 解の真実
パパが外にある駐車場の手前を指し示す。大きな白い車が目立っていた。
「あれだよ。車椅子を昇降機に乗せているとき、よく確認した」
「どなただったのかしら。ねー、梅芳ちゃん」
「パッパ、マッマ」
よだれかけに私が刺繍したミミちゃんを狙って汚す才能が、梅芳ちゃんはある。お口周りを拭いていた。
「聞いてほしい。陶芸店の店長と陶芸作家の紫香さんだったんだよ」
紫香さん。血の気が引くとはこのことか。実の親だと思われる名は、聞きたくなかった。
「お店は朱の炎よね」
「確かに、夫婦になった日に寄ったお店だよ」
命運と言う歯車が、狂い出して回ったのか。
「群青シリーズを買い求めただろう」
「うん、普段使いの食器だから、よく目にするわね」
物に当たるのはよくないけれども、食器を片付けてしまいたい気持ちになった。
「陶器の話が問題ではなく、紫香さんがこの病院に通っていることが梅芳ちゃんの件を難しくさせているのだろうな」
「パパ、冴えてまちゅねー」
「パッパ、パッパ」
パパも大好きな梅芳ちゃんだから。大人しく遊ばせるのには、ムークのおしゃぶりがいい。くるりと回して遊んでくれる。
「恐らく、彼女も外科で診て貰っている筈だ」
「お母さんも外科だわ。狭義では脳のだけれども」
顔を突き合わせてしまっては危険だ。
「紫香さんが出て来られても困るわね」
母が話を聞いていたのか首を動かした。丸い窓の方を向いている。見ているのだろうか。
「ママは店長さんのお名前を覚えているかい」
「確か、太田総一郎さんと仰ったわ」
「太田総一郎氏か。中々、厄介な存在になって来たな」
愛らしい子を手放したくない。おしゃぶりで遊ぼう。
「ねー、梅芳ちゃん。くるりんっぱ」
「きゃっきゃは」
母が空気を吸いたそうに口を突き出した。
「志朗さんが……」
暫く二の句が継げないようだったが、母はがんばっていた。
「……木に寄り掛かっていたよ」
「お母さん。無理して話さなくてもいいのよ」
私はふと想い出を零した。
「持田の伯父さんが精魂込めて作られたしば桜の丘にも、木があったわね。トチノキだったわ」
素敵な公園だった。伯父夫婦が梨園を止めた理由は分からなかったけれども。元々、働き者なのだろう。
「あったね。子どものことがあってから、暫く行っていないよね。縁の花壇の後に丘陵から見えた恵のトチノキは圧巻だったな」
「楽しいランチが、尊厳のあるものに感じられたわ」
立派なトチノキの下で読書などしたら、母は素敵な父がいると妄想するだろう。
「あたし、志朗さんに……」
言葉が切れるが、言いたいことは皆掴める。
「お父さんはお空の虹にいるの。だから、まだ会いに行かないでね。お母さんにまで残されたくないわ」
母は疲れたのか、うとうとと微睡み始めた。この病院はスタッフも腕がよく、設備も整っている。転院は考えていない。
「パパ、私は心が狭いみたい。彼女に会いたくないわ」
紫香さんとは会いたくない。赤ちゃんが無事に育っていることを知られたら、奪われてしまうだろう。
「僕も声を掛けずに立ち去ってしまったよ」
「池に一石を投げられたら、私達は離散してしまうかも知れない」
「糸電話みたいな軽い絆ではないだろう」
考えが煮詰まってしまった。
「パッパ。めんめ、ぷうう」
「怒ったらいけないか、梅芳ちゃん」
「マッマ、めんめ、あんあん」
「あら、私は泣いたら駄目らしいわよ」
二人で笑い合う。
「梅芳ちゃんはお見通しだな」
母が体を刻むように動かす。微睡みながら小さく声を出した。
「櫻絵や……」
母はテレビの方へ視線を送った。
「ああ、私の絵よ」
僅かに微笑んでいるかのように窺えた。
「おしゃぶりが、二つ――。いい絵だよ。櫻絵もきっと可愛い娘に恵まれたのだね」
「お、おかあ……」
私は泣かないつもりだったのに、誰にはばかることもなく母のベッドに顔を埋めた。
「櫻絵や。櫻絵の子なら、きっと愛くるしいね」
母は体を揉むように咳を三つ程した。
「体に気を付けて、元気な子を産むんだよ」
「やめてよ、虹へ行くようなことを言わないで! 私にはお母さんが必要なの。大切なのよ……?」
息が詰まる程に、父だけではなく母のことも想っている。
「……愛しているの! お母さん! ずっと大好きなの!」
「どうしたって愛されているのは分かっているよ」
また咳をした。母が体をよじったので、点滴が倒れた。
「末永く夫の寧くんと……。子ども達とね」
いけない。立て直しても管が引っ張られて、腕が痛そうだ。
「愛し愛されるいい家庭を持つんだよ……」
待って。最期とか。そんな。間違いだ。
「お母さん――!」
パパがナースコールをする。紐で繋がったボタンを押しているのは分かるが、耳の中で小さな生き物が咳をする。ドアを開ける音すら、私の耳は掻き消してしまっていた。次第に音が真っ白になる。
◆◆
「白ちゃん、薄桃ちゃん?」
『私達の色をしたおしゃぶり、可憐で二人の赤ちゃんに似合うわね』
「赤ちゃん、お腹の子は大丈夫かしら」
病室で大分興奮してしまった。
「ママ、ママ。大丈夫かい」
パパの声だ。
「マッマ、マッマ。なっと」
梅芳ちゃんがお腹を空かしている。起きなければ。この静寂の闇から抜け出なければ。双眸を起こしかけて驚いた。思いも寄らない所だった。




