第三十六話 無罪判定
「お母さんは強いもの。大丈夫だわ」
梅芳ちゃんと遊びながら、気掛かりでならなかった。病院の方へ向かって祈る。
「私の祈りは届いているわよね」
急な携帯電話の着信音に驚かされた。
「はい、櫻絵です」
『僕だよ。お母さんがお目覚めになった。今から迎えに行くから、出られるように支度をして待っていてほしい』
私は梅芳ちゃんをベビーサークルに入れて、マザーズバッグに麦茶やおむつなどを詰める。出る前に麦茶を飲ませておむつも新しくした。
「秋雨が悪い予感を運んで来るわ」
しば桜が蔓延る玄関で戸締りを終えた頃に、パパと合流できた。車に乗り込む。
「容体はどうなのかしら」
「詳しくは分からないが、頭を打ったようだよ。お義母さんは意識が混沌とする中で、お義父さんの名前を呼び出したんだ」
パパは腕時計の竜頭を逆巻きにして、病院でのことを話をしてくれた。
「目覚めの一言は、お義父さんの名だった。志朗さんと、呼気を辛そうに絞り出していたよ。僕は喜び勇んで個室から出て、前を通った看護師さんに告げた。ナースコールの存在を失念していた位だった。櫻絵さんも求めて、うわ言を打ち寄せる波のように繰り返していたよ」
「ありがとう。分かったわ」
「落ち着いて面会してほしい」
病院に着くなり、パパが梅芳ちゃんを抱いて、私も病室へと急いだ。自動血圧計に心拍数モニターやパルスオキシメーター、点滴や酸素等の管まみれとなった母がいた。脈拍の音はゆっくりだ。
「お母さん、櫻絵よ」
「……さ」
眠っていたようで、言葉が続かない。無理をさせないように配慮した。私は母の顔ばかりを見ていた。もしものことを考えると目覚めないかも知れない。決意した。
「お、お母さん! 心の中でいいの……。私の気持ちを込めた絵手紙を見てください」
私は両の腕を真っすぐに伸ばして、母の方に葉書を向ける。白と薄桃のおしゃぶり二つに、添え書きがある。
『豊の秋、恙身ながら、子を宿す。 櫻絵』
「意味が分かりますよね。お母さんなら」
泣かない。泣かないと決めて来た。泣かないで、見て貰おうと懸命に我慢した。
「……さ、櫻絵」
「目が覚めたの? 分かる? 私よ、櫻絵よ」
暫く沈黙が続いた。母の脈拍が走り出す。
「お父さんと会えたよ。見事な綺麗なしば桜の咲く丘でね」
却って母を興奮させてしまったのだろうか。
「ずうっと、いつまでも佇んでいてくれているよ」
「どこにいるの? お父さんは」
母は、こてりと病室の丸い窓の方を向くと、また言葉をつぐんでしまった。彼女の視線の先を追う。
「うーん。この窓の外なのかしら」
「見てみるかい」
一人、枯れ葉の散った木に背中を向けて本を読んでいる男性らしき方がいた。
「ん? お父さんとは似ても似つかないわ。もっと鴎の眉毛なのよ」
男性が正面玄関の方へ歩み寄り消えた。暫くすると、車椅子を押しながら出て来た。
「どなたか患者様の付き添いだったのね」
全く関係がなかった。
「ばあば、ねんねん、めっ。ばあば、ねんねん、めっ」
「お母さんは強いもの。大丈夫だわ」
梅芳ちゃんと遊びながら、気掛かりでならなかった。病院の方へ向かって祈る。
「私の祈りは届いているわよね」
急な携帯電話の着信音に驚かされた。
「はい、櫻絵です」
『僕だよ。お母さんがお目覚めになった。今から迎えに行くから、出られるように支度をして待っていてほしい』
私は梅芳ちゃんをベビーサークルに入れて、マザーズバッグに麦茶やおむつなどを詰める。出る前に麦茶を飲ませておむつも新しくした。
「秋雨が悪い予感を運んで来るわ」
しば桜が蔓延る玄関で戸締りを終えた頃に、パパと合流できた。車に乗り込む。
「容体はどうなのかしら」
「詳しくは分からないが、頭を打ったようだよ。お義母さんは意識が混沌とする中で、お義父さんの名前を呼び出したんだ」
パパは腕時計の竜頭を逆巻きにして、病院でのことを話をしてくれた。
「目覚めの一言は、お義父さんの名だった。志朗さんと、呼気を辛そうに絞り出していたよ。僕は喜び勇んで個室から出て、前を通った看護師さんに告げた。ナースコールの存在を失念していた位だった。櫻絵さんも求めて、うわ言を打ち寄せる波のように繰り返していたよ」
「ありがとう。分かったわ」
「落ち着いて面会してほしい」
病院に着くなり、パパが梅芳ちゃんを抱いて、私も病室へと急いだ。自動血圧計に心拍数モニターやパルスオキシメーター、点滴や酸素等の管まみれとなった母がいた。脈拍の音はゆっくりだ。
「お母さん、櫻絵よ」
「……さ」
眠っていたようで、言葉が続かない。無理をさせないように配慮した。私は母の顔ばかりを見ていた。もしものことを考えると目覚めないかも知れない。決意した。
「お、お母さん! 心の中でいいの……。私の気持ちを込めた絵手紙を見てください」
私は両の腕を真っすぐに伸ばして、母の方に葉書を向ける。白と薄桃のおしゃぶり二つに、添え書きがある。
『豊の秋、恙身ながら、子を宿す。 櫻絵』
「意味が分かりますよね。お母さんなら」
泣かない。泣かないと決めて来た。泣かないで、見て貰おうと懸命に我慢した。
「……さ、櫻絵」
「目が覚めたの? 分かる? 私よ、櫻絵よ」
暫く沈黙が続いた。母の脈拍が走り出す。
「お父さんと会えたよ。見事な綺麗なしば桜の咲く丘でね」
却って母を興奮させてしまったのだろうか。
「ずうっと、いつまでも佇んでいてくれているよ」
「どこにいるの? お父さんは」
母は、こてりと病室の丸い窓の方を向くと、また言葉をつぐんでしまった。彼女の視線の先を追う。
「うーん。この窓の外なのかしら」
「見てみるかい」
一人、枯れ葉の散った木に背中を向けて本を読んでいる男性らしき方がいた。
「ん? お父さんとは似ても似つかないわ。もっと鴎の眉毛なのよ」
男性が正面玄関の方へ歩み寄り消えた。暫くすると、車椅子を押しながら出て来た。
「どなたか患者様の付き添いだったのね」
全く関係がなかった。
「ばあば、ねんねん、めっ。ばあば、ねんねん、めっ」
母の夢に付き合うより病状だ。心に釘が刺さったように感じられる。
「ばあば、ばあば」
「梅芳ちゃん、ばあばはおねんねしているの。ね、いい子にしていてね」
パパの抱く子の頭を私がやさしく撫でた。私は、はっとして、声を細めた。
「パパ、先程の男性と車椅子の長い髪の方、見覚えがあるみたいだわ」
「知り合いなのかい」
「喉の奥に突っかかっているの。名前が出て来ないのよ」
ずうずとしている。
「櫻絵さんは身重だから、僕が会って確かめて来るよ」
パパから梅芳ちゃんが託された。
「んぱー。まっま、まっま」
「よしよし。パパはすぐに戻るからね」
母が窓からの陽を浴びて、血色がよく見える。
「お母さんの大好きな梅芳ちゃんよ。お腹には梅芳ちゃんの弟か妹がいるの。ね、楽しみよね」
母は幾つか数えても無言のままだった。
「お母さん、絵手紙はテレビの横に飾りますね」
私のお手製、紙粘土で天使が舞う写真立てを持って来ていた。テレビ台にことりと置く。
「ばあ、ぶ。ぶー」
「あら、おしゃぶりがほしいのかしら」
くわえさせてあげると、おしゃぶりを舌でくるりと回す。
「上手ね」
くるり。私が元に戻す。くるり。再び元に戻す。くるり。
「あらら、可愛いわね」
母に向けておしゃぶり遊びを見せていた。
「キューティーアイドルでしょう。モンプチなのよ」
病院のカートを引く音がする。同時に、パパの踵から下ろす独特の歩き方の音がした。
「大変だ。櫻絵さん」
「お静かに願います。美濃部医師がお見えです」
看護師の後ろから、七十代と見られる女性医師が現れた。
「お見舞いですか」
「はい。娘の生原櫻絵です。夫の寧と、子どもの梅芳です」
「生原さくら様がお目覚めのようです」
医師の言葉に振り向くと、母は薄目を開けていた。
「お母さん」
「お義母さん」
「ばあば、ばあば」
静かに皆で覗き込み、一言を待つ。母にはしっかり意識を回復して欲しい。
「どこかで頭を打ったようです。転んだりしていませんでしたか」
「玄関先で倒れておりました」
いつも見守っていてくれたしば桜の上に。白も薄桃も血を含んでおり、これが凶器なのかと思った。
「救急隊員に訊くところによると、花の上にうつ伏せになっていたそうですね」
「花が広がっていたので、躓いたのでしょう」
しば桜を凶器呼ばわりして罪を着せている。いつも励ましてくれていたのに。
「花は無罪ですよ。倒れたときの緩衝材になったようです」
「白と薄桃が、母を助けたのですか……?」
目から鱗が落ちた。医師は母を診て、看護師さんに指示を出す。二人は病室を後にした。気配が消えると、急いだようにパパが口火を切る。
「さっきの車椅子を押す男性と髪の長い女性、知り合いだったよ」
「ふうーん。大根畑の七井さんかな」
私は気に留めなかった。思い出せない程度のことに関わっても仕方がないだろう。
「落ち着いて、聞いて欲しい」
真顔のパパと目が合って、私も一瞬で本気になった。




