第8話 赤い紐事件(8)
「駄目でしょうか?」
アシュリーが頭を下げた状態から、少し身体を起こし、上目遣いで僕の事を見た。
(か、可愛い……)
状況が状況なだけに、そんな事を言っている場合ではないのだが、これまで自信に満ちあふれていたアシュリーの顔が少し不安そうになっている姿を見てしまうと、すぐにはNOとは言えなかった。
この時点で、僕の敗北は決定していたのだろう。
「わ、解りました。クロエさんにも、同居をお願いしちゃった手前、すぐに出ていってもらうというのも変な話しです」
「ありがとうございます」
そう言って、アシュリーはもう一度頭を下げ……すぐに身体を起こした。その顔は古書店で颯爽と現れた時にように、自信に満ち溢れた目と優しい口元が浮かんでいる。
「タイチローさん、魔法調査士として忠告させていただきますが……上目遣い一つで騙されるようですと、監察院で取り調べを受けるような事になった際、無いことまで認めて仕舞いかねません。注意してくださう」
「は?」
「それでは、状況を整理しましょう」
「ちょ、ちょっと……さっきのは演技という事? え、え、ええ?」
***
「他に、思い出す事はありませんか?」
僕は古書店に入ってから監士のクリダに取り押さえられ、ランドルフに簡単な尋問を受けるまでの話しを、ソファに座りながらアシュリーに説明していた。
「そうですね……咄嗟の事であまり覚えてはいないのですが……」
僕は見落としが無いかを必死に考えてみた。
「あ!」
「何かありまして?」
「裸足でした。被害者の方は両足とも?」
「両足とも?」
「そうです。床下に押さえつけられた時、カウンターの下から足が見えたんです。確かに両足とも裸足でした」
「そうですか……それだけだと何とも言えませんね」
何か僕の疑いが晴れるように……
「アシュリーさん」
「はい」
「本当に、魔法使いじゃなくても、魔法が使えたりするんですか?」
「使えないですよ」
僕の質問に、アシュリーはあっさりと答えた。
「え? でもさっきは……」
「その可能性という事で、あの分署長が監察院長宛にレポートを上げたのは知っていますが、あり得ません」
「それじゃ、僕が犯人の可能性なんて」
「ありません」
その言葉に、僕はソファから半分ずり落ちる。
「じゃ、じゃあ何でアシュリーさんは僕の弁護を?」
「……」
アシュリーは少し考え、徐ろに立ち上がり、僕にこう説明を始めた。
「タイチローさん」
「はい」
「もし、仮に、こう考えてはどうでしょうか?」
アシュリーは、ソファに腰掛けている僕の後ろに回り、
「タイチローさんが、空腹に耐えかねて水辺で座り込んでいたとしましょう」
こう言った。
僕は何のことか解らなかったが、とりあえず目を閉じ、自分がそんな状況にある姿を想像してみる。
「そこへ、丸々と太った鴨がやってきます」
「はぁ」
「さぁ! タイチローさん! どうします!」
「ど、どうって……食べる?」
すると、アシュリーは僕の両肩に手のひらを軽く叩きつけて、
「そうです! 食べるんです! 空腹なタイチローさんは、今こそ、そのカモを!」
カモ……カモ……これまでのアシュリーの言葉が過る。
「アシュリーさん」
「はい」
「どうか、ソファに腰掛けてください」
「あら、そうですね。わたくしときたら、はしたない……」
僕の言葉に、アシュリーはおとなしく元の場所に戻り、ソファに優雅に腰を下ろした。
「要するに、僕はカモだったと」
「わたくしが、いつ、そんな事を申し上げました?」
アシュリーがにっこりと笑う。
「いえ、いいんです。僕は、僕の無罪が証明されて、元の日常に戻れれば……」
「そうですか。そうですね。タイチローさんのそういう諦観した所は、素晴らしいと思いますよ」
「褒めていませんよね」
「ええ」
アシュリーがもう一度、笑顔を浮かべた。
どうやら、この人は、こういう性格なんだろう。
こうなっては、早く事件を解決してもらい、出ていってもらうしか無い。
「それで、僕が犯人じゃない事を証明するにはどうすれば……」
「そうですね。今の情報だけでは有罪になる事はなくても、魔法使い以外の魔法行使の可能性があると考えている、あの分署長さん相手には、無罪とするには何も情報が無いと思います」
その言葉に僕は落胆する。
「まぁ、でもアシュリーさんは僕の無罪を信じてくれているので、気が楽ですよ」
「あら、私は魔法使い以外が魔法を使う可能性は否定していますが、タイチローさんが犯人であるかどうかについては、何もコメントしていませんよ」
僕はアシュリーの言葉に驚き、思わず立ち上がる。
「僕はやってませんよ!」
「そうですか」
「そうですかって……」
「まぁ、わたくしもタイチローさんが犯人ですと、色々困りますし……これでも一応、嫁入り前の身体ですので、殺人犯と寝食をともにするのは、ちょっと……」
「寝食をともにするなんて、人聞きの悪い」
まるで僕が襲いかかるみたいだ。
「あらそうですか?」
「そうですよ」
「そうなったらきっと、わたくしとタイチローさんは、運命の赤い糸で結ばれていたって事なんでしょう」
***
結局、この日はその後、お茶の片付けが遅いと、クロエが上がってきて、3人でワイワイと話す事になった。僕は何の問題の解決も無いまま、アシュリーとの初めての夜を過ごす事になる。
「いいですか、アシュリーさん。僕は自分の寝室に入ります。アシュリーさんは申し訳ないですがリビングでお休みください」
「そうですか……わたくしはベッドでご一緒でも問題ありませんが?」
僕が人畜無害な人間にでも見えたのだろうか。
「アシュリーさん、僕も男です。隣に寝ていたら何をするか解りませんよ!」
「何をするのでしょうか?」
アシュリーは僕を挑発しているのだろうか?
僕は思わず、
「襲いかかるかもしれないって言っているんです! アシュリーさんは若い女の子なのに、無防備過ぎませんか?」
「無防備? 襲いかかる? ……どうぞ」
そういって、アシュリーは満面の笑みを浮かべ両手を広げて僕を誘うような事を言いだした。
「アシュリーさん?」
「一宿一飯の恩義、この身体で返せと言われるなら……」
「……なら?」
「ふふ」
アシュリーの目が妖しい色に染まった気がした。
そして、
「で、その両手に浮かび上がっている炎は何でしょうか?」
「これですか? 魔法律の初歩中の初歩。燃焼魔法です」
アシュリーの両手には、30センチ程の高さにもなる炎の幻象が浮かび上がっていた。両手に持っているという事は、実際の燃焼まで魔法律を進めていないという事なのだろう。
確かにそうだ。
女性一人の部屋で、男の部屋に泊まり込む?
僕の眼の前にいるのは魔法士だ。
僕のような魔法の使えないノートムでは無い。紛うなき魔法使いだ。
僕が例えベッドの隣で寝ていようとも、アシュリーがその気にならない限り、アシュリーの貞節を汚すような事は起こるはずも無い。安全安牌、最高のカモ……それが僕なのだ。
その事実に気が付かされ、僕は肩を落とし、
「いえ、何でも無いです。……おやすみなさい」
「そうですか? 残念ですね。それでは、おやすみなさい」
アシュリーは手に浮かべた炎を消し、なぜか残念そうにそう言うと、僕に向かって頭を下げた。僕は、後ろを向き自分の寝室へ入り、すぐにベッドに潜り込み電気を消した。
***
(僕は馬鹿にされているんだろうか……)
王立学院の魔法史科を主席で卒業した無職の男。
確かに馬鹿にされてもおかしくは無い。
(さっきは赤い糸で結ばれていると言われて、少し嬉しくなったのだが……)
ノートムと魔法使いでは、そもそも人種が違うと言ってもいいくらいだ。赤い糸で運命が交わるなんて……
(赤い糸、赤い糸、赤い……)
「赤い紐だ!」
僕は事件現場で見たもう一つの鍵を思い出した。
「アシュリーさん! アシュリー……さん?」
そこにはちょうど寝間着に着替えようとしたのか、上半身が下着姿のアシュリーの姿が、僕の目に焼き付いてしまった。
「すみません!」
僕は慌てて後ろを向いた。
「何か思い出しましたか? ちょっとお待ち下さい」
後ろを向いた僕の背後で、衣擦れの音がする。1つ年下とはいえ、同年代の女性の下着姿など、初めて生で見てしまった。僕は心臓の鼓動が大きくなるのを自覚してしまうが、
「もう大丈夫ですよ」
「は、はい」
その声に、僕は、少しでも鼓動が抑えられるよう、時間をかけて前を向いた。そこには、少し厚手のパジャマに着替えたアシュリーが、立っていた。
「それで何か思い出しましたか?」
僕に上半身の下着姿を見られたのみもかかわらず、平然としているアシュリーに、気圧されながらも、僕は、
「赤い紐です。赤い紐を見ました!」
「赤い紐?」
「はい。カウンターの下の隙間から見えた足の……左足の親指に赤い紐がくっついていました」
アシュリーはそこで少し思案をする。
「くっついていただけですか? 結び目は?」
「結び目までは見えなかったけど……親指を一周する感じだったので、多分、どこかに結び目があったのだと思います」
アシュリーは、僕の言葉を聞いて、少し下を向き……
「解りました。ちょっとこのままお待ち下さい」
そう言って、僕の部屋を出ていってしまった。
***
どこに行くのだろうと、窓から外を眺めていると、アシュリーが1階から外にでて、正面で僕の部屋を監視している二人組の監察院の監士の所まで歩み寄り、何か話しかけてから、また戻ってきた。
「終わりました」
「終わりました? どういう事ですか?」
アシュリーの言葉に、僕は聞き返したが、
「ほら、ごらんになってください」
アシュリーはそう言って、窓から階下を指差した。
その方向を見ると、先程の監士達は荷物をまとめて、立ち去ろうとしている所だった。
僕の横でアシュリーは小さな欠伸をすると、
「すみません、夜更かしはお肌に悪いので、もう寝かせてもらってもよろしいでしょうか」
「え、ええ? どうなっているんですか?」
「あ、明日、一緒に監察院に行きましょう。それでこの話しはおしまいのはずです」
そういって、ソファを二つくっつけた簡易ベッドに倒れ込み、
「おやすみなさい。良い夢を」
アシュリーは僕が唖然としているのを無視して、そのままスヤスヤと静かな寝息を立てて眠ってしまった。
次で第一部終わります