18話
ーー弥太郎ーー
「今日は弥太郎に般若心経を授けむと思う!」
座敷にて勇ましき琳海と向き合う。永海を見ると目が合い、頷いた。
(付き合えということか)
「我が先に読まん。後に続きて誦すべし。
’ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょう’」
「、っせつ、、かー、、にゃーはー、、、たー、、、う」
永海の声に遅れて合わせる。
「きちと致せ。心が乱れておる」
「琳海、焦るべからず。かくのごとく厳しくしては逃れられてしまうぞ」
「か、かたじけなし」
琳海が俯きて黙る。また永海と目が合った。
「少しゆるりとな、ちと長いわ」
潤んだ目で顔を上げ、また読み始める。
「’ぶっせつまーかー’」
「ぶっせつまーかー」
「’はんにゃーはーらーみーたーしんぎょう’」
「はんにゃーはーらーみーたーしんぎょう」
「’かんじーざいぼーさーぎょうじん’」
「かんじーざいぼーさーぎょうじん」
琳海が顔をほころばせた。
「ぼーじーそわかーはんにゃーしんぎょう」
「’まーかーはんにゃ’」
「いつまで続くんじゃ?」
琳海が息を切らし、むせ返る。
「これ、初めてのことか?」
「琳海が先に音を上げるとはな」
「坊さんはいつも、これをなすのか?」
「初めのうちは、これほど長きにはあらず。般若心経は短き経なれど、日々繰り返し習いて覚え入る」
永海より渡されし紙には字がひしめいていた。
(右平次はこんな字を教えなかったぞ)
「琳海が書きしものなり」
「一の字しか知らぬ」
「弥太郎もやがて書けるようになる」
琳海が胸を張る。紙を返して横になった。
「こら、弥太郎」
「まぁ、少しくらいよかろう」
永海が横になると、琳海もしぶしぶと続く。
「何か感じ入るところはあったか?」
「ただ疲れただけじゃ。これが愉快なのか?」
「これを繰り返すうちに、やがて’さとり’の日も至らん。さすれば、輪廻の苦より免れん」
「輪廻を嫌うか?」
「この世は苦に満ち満ちておると思わぬか?」
「苦のみじゃなかろう?」
隣で目を瞑る琳海を見る。
「確かに然れど、苦の少なき方がよかるべし」
琳海の口がわずかに開く。
「かような幼き頃より坊さんになるのか?母がうるさかろう?」
「琳海は親なき身なり。三年前の大雨にて、すべて流れ去りぬ」
「ひどき雨だったな。山の爺に聞かねば危うかったわ」
「掛海様が御告げを賜りしも、その時なりし。真ならんかと疑いつつも、山の向こうまで独りにて知らせに行きけり。誰も信ぜずとも知らせることをやめず、夕空紅く色づきし夜、激しき雨降りたり」
「あの日の空は燃えておったわ」
「四日経て、ついに帰りたる掛海様は、家も家族も失いし女、子を連れ来たり」
「幼き身には苦しいな」
「経を唱え、’しゅぎょう’を積めば今の苦も、次の生の苦も少なかるべし。それこそ’さとり’と申すものぞ」
「誰かが助ければよかろう?琳海様のように」
「助けたまうこと常ならず、そなたのごとく助けらるる身にもなりぬ。輪廻を終え、仏となる道は、ただ’しゅぎょう’を積むのみなり」
(苦しき時は、いつも爺らがおったなぁ)
永海が起き上がる。
「しばし休みておれ。琳海はこの寺に来たりし頃、毎夜泣きおりてな。掛海様がこの座敷にて寝かしつけたものよ」
「弥太郎、起きるのだ」
肩を揺すられ、目を覚ます。
「起きたか?」
「寝ておりしは、そなたであろう。ささ、今一度、般若心経を読まん」
(永海め、誰がこやつを止めるんじゃ?)
ーー右平次ーー
夜明け前、囲炉裏の微かな灯と灰を用いて弥太郎に字を教える。
「般若心経にこんな字は無かったぞ」
「もう経を習いしか?」
「琳海、様がうるさいわ」
(あの幼き弟子か)
「はっはっは、上弟子には従うべし」
「そういや、掛海様が右平次に話があるようじゃ」
「神様や輪廻のこと、もう申してしまいたりか?」
「ここらにはおらぬと言うたんじゃ。三年前の大雨を知らせたんじゃろ?」
「早く見出さねばならぬか。日沈む山の向こうに天の中川という大きな川あり。そこにおはす竜の神様が時折、大雨を呼び、川を荒らしめるなり」
「竜とは何だ?」
「空に舞う大きな蛇か蜥蜴のごときものなり」
「そんな姿の爺は見たことないぞ。たまに鳥や獣で、ほとんどが木じゃ」
「尋ねに参らぬか?泊まりにならんとすれどもな」
「おっかぁを置いては行けぬ。それに今は栗と茸を採らねば」
「されば、次の春にまた考えん」
(真に竜なれば、いかにせん。神は人を食うか?)
「いーろーはーんにゃー、、、何じゃった?」
「いろはにほへと」
(やはり、和尚はこの者を僧侶とならしめんとするか)




