22.愛
イブラヒムは、小高い丘の上で眼下に広がる景色を眺めていた。
彼自身も疫病を患い、杖なしではまともに歩けないような状況であった。もはや余命もわずかと宣告された時、彼は全てを捨てて最後の時を過ごすと決めた。
「イブラヒム様…無理をされては、お体に障りますよ」
その背にユーリが声をかけた。
もはやイブラヒムの側にいるのはユーリだけになった。先が短いと知ったイブラヒムは屋敷を売り払い、この街を見渡せるような丘の上に小さな家を建てた。そこで最後の時を待つというわけである。
「ユーリ…君は変わらないな。初めて出会った時から、ずっと」
そう、その外見は今もなお変わることがなかった。白い肌に輝く鱗、輝く髪の色は、イブラヒムが彼女と出会った頃から寸分違わなかった。
「どうしたんですか、急に。昔の話だなんて」
「…ずっと、君を縛りつけてばかりだった。こんな死の間際でさえ…すまない…」
「仕方のないことです。自由になったところで私には行くあてもない、迫害されて生きていくだけ…特に、モンゴメリー法が制定された今となっては。そうなれば、多少不自由でも奴隷として貴方に支えていた方がいい。幸い貴方はそこまで悪い主人ではなかった。
イブラヒム様も、そのことが分かっていたからこそ、私を側に置いてくれていたんでしょう? ちゃんと…理解していますよ」
「…それは違うよ」
「え?」
イブラヒムは胸元から、一枚の古ぼけて皺くちゃになった紙を取り出した。
それはユーリの奴隷証文であった。
「あ…」
「もっと早く、こうするべきだった。だが出来なかった…君を失いたくはなかったから。
だが、今は違う。もう俺には先がない。だから今でなくていけないんだ」
その両端に、イブラヒムは手を掛けた。
「今まで、本当にありがとう」
震える両手で、イブラヒムは奴隷証文を引きちぎった。
そうしてユーリの首筋の、奴隷としての紋章は跡形もなく消え去った。
「……!」
「おめでとう、ユーリ。君は自由だ」
「自、由…?」
「そう、自由。誰も君を縛り付けることは出来ない。俺でさえもな。
君の人生はたった今、君だけのものになったんだよ」
ユーリの両眼から、大粒の涙がボロボロと溢れていった。
そんな彼女をイブラヒムが抱きしめると、ユーリも彼をきつく抱きしめた。
「うわあっ、あっ、あうっ、うっ…っぐ、ひっく…!」
声を上げて彼女は泣いた。それはまるで赤子の産声にも似ていた。
ユーリの人生のほぼ全てを見てきたイブラヒムでも、そんな姿は一度としてみたことが無かった。
二人は最後の時を、夕日を眺めながら過ごしていた。
「私は、どこに行けばいいんでしょうか…もうアズリエルは、亜人にとって暮らしやすい場所ではないでしょう」
「心配するな。北の方では独立運動で名を馳せた”ディミトリ・ラファト”という青年が、新たに国を立ち上げた。
亜人たちが統治する最初の自治国家だ。そこには方々から亜人たちが集まって来ている。そこなら安心だろう」
「でも、貴方は…」
「心配はいらない。もう、俺は君に十分側にいてもらったよ。だから…今度は君に幸せになってほしい。
新しい土地で幸せを手に入れられることがあったら、また会いに来てくれればいい」
「…ありがとうございます」
二人は見つめ合った。
お互いの目には、これまでに無いほどの優しさが満ち満ちていた。
「愛してるよ、ユーリ」
「…はい」
ユーリは、優しく微笑んだ。
彼女がそんな顔をイブラヒムに向けるのは、初めてであった。
(ああ、そうか)
そして、悟った。
(俺は…この顔を見るために、今まで頑張ってきたんだな)
その三日後、イブラヒムは崩御した。疫病による衰弱死で、大往生だった。
その死は大きく歴史に名を刻むこととなり、大陸の多くの人間がその死を悼んだ。
イブラヒムの墓碑には多くの参列者が連日訪れ、歴代の王の中でも類を見ないほどであったという。しかしそれも数年経ちだいぶ落ち着いてきた後に、竜族の亜人が定期的に現れるようになった。親族や政治関係者以外は立ち入り禁止であるが故、墓前に行くことは出来なかったが、それでも彼女は時折姿を現した。それは、エドワード王によるモンゴメリー法廃止の直前まで続いた。
それは、本当に小さな”愛”の話だった。




