13.裏の顔
いつしかイブラヒムは壮年と呼んでもいい年齢に達していた。顔には皺ができ、瑞々しさは徐々に失われていった。
しかしその両眼に宿る輝きだけは、若き日から変わる事は決してなかった。未だ傍らにいる者が、初志をイブラヒムに思い出させていたのだ。
赤い絨毯が敷き詰められた道を闊歩し、そしてイブラヒムは玉座の前に立った。その様子を、皆が固唾を飲んで見守っていた。
この日、イブラヒム新王の戴冠式が盛大に行われていた。閣僚を始めとした要人達が見守る中、長い年月をかけて、イブラヒムは遂に玉座に座った。そして儀式用の王冠を被ると、盛大な拍手が巻き起こった。
ジャスティン先王の死により、イブラヒムは史上最年少での国王となった。閉塞した時代のムードを一掃してくれるのではと、世論の支持率は高い。そうした情勢に後押しされて、イブラヒムは歴史を変える資格を持ったとも言えるだろう。
「混迷の時代…私の力を全て使い、希望を照らしてみせます」
そう宣言すると、イブラヒムは一気に喝采を浴びた。
「おめでとうございます、イブラヒム様」
「ああ…ありがとう」
必要以上に口を開かず、滅多に祝いの言葉など述べないユーリが、珍しくイブラヒムに声をかけた。
ユーリは常に全身を覆い隠すような服を着ていた。それは、その身に宿した奴隷の紋章を、覆い隠すためである。
改革派の筆頭であり、人種的平等を謳うイブラヒム王が奴隷を使役させているとなれば、大問題となるからだ。
「お食事の用意は出来ておりますので、これで失礼します」
「ああ」
それだけ言い残して、ユーリは部屋を出て行った。
一人残されたイブラヒムは、机の引き出しに入っていた、一枚の紙を取り出した。それはユーリの名が記された、彼女の奴隷証文であった。ユーリを奴隷商から購入した際に渡された、自らが彼女を服従させる者であるという証書である。
(…俺がこいつを破り捨ててしまいさえすれば、ユーリは)
それは明白なことではあった。イブラヒムが一度この証文を破り捨ててさえしまえば、それだけでユーリは自由の身となる。彼が身を粉にして革命を起こさずとも、ユーリは奴隷という身分から即座に解放されるのだ。
しかしそれは出来なかった。確かに彼女は自由にはなるが、しかし彼女を取り巻く環境は変わらない。純粋種と変わらない市民権を手に入れなければ、どのみち迫害や差別の対象となる。最悪の場合、奴隷に逆戻りというケースも有り得るだろう。
(…違う、そんなのは言い訳だ)
一方でイブラヒムは、自らの心の奥底にあるエゴにも気付いていた。この奴隷証文さえあれば、彼女は自分の側を離れる事は出来ない。イブラヒムは生涯にわたってユーリを独占できるのだ。大義名分を掲げてみても、それは自分の個人的な欲を隠すための言い訳に過ぎなかった。
「くそっ!」
イブラヒムは机を叩いた。握り締めた拳は、小刻みに震えていた。
アズリエル王国の王都郊外にある、古ぼけた奴隷商館の地下深く。そこはグスマン商会の長、ミハイル・グスマンの根城だった。所々に蜘蛛の巣が張り、少々ホコリが溜まっているそこには、この大陸の中でも特に悪名高く、また強い者たちが集まっていた。
その場所にユーリは、フードと口元を覆う布で顔を隠し、地下へと続く階段を降りていった。そしてミハイルの待つ部屋への扉を開けると、取り巻きたちの濁った視線が自分に向けられるのがわかった。ユーリは内心、その目つきを嫌悪していた。彼らは弱者を踏み付けることをへとも思わない、言うなれば自らの敵だからだ。
それらを表情に出さず前へ進んでいくと、ミハイル・グスマン本人が足を組んで座っていた。想像していたよりも小柄ではあるが、しかし身に纏う豪奢な服と宝石、そして有無を言わさないような悪意に満ちた笑みから、彼がこの集団の統率者であることは明白だった。
「ほう、こいつぁ驚いたぜ。是非とも会いたい奴がいるって言うから、誰かと思ってみりゃ女とはな。いい度胸してるぜ」
ミハイルは邪悪な笑みを更に深くした。
「大した事ではありません。その気になれば、私一人で貴方方全員を殲滅することも、難しいことではありませんので」
それは事実だった。亜人の中でも有鱗族は、特に身体能力に長けていた。そしていつの日かイブラヒムが自らの目的を達成するため、ユーリに特殊な戦闘技術を施していた。もはや常人であれば、彼女には指一本触れる事は出来ないだろう。
しかしその事に気付かず、先ほどの言動が癪に触った取り巻きの一人が、ユーリに近付きながら睨みつけた。
「おいおい、ずいぶん大きく出たじゃねぇか。女一人でこの人数相手にして、無事でいられると思ってんのか?」
女一人に舐めた態度を取られたのでは、男の沽券に関わる。そう言わんばかりに男はナイフを構え、他の数人も同じく武器を身構えた。
「試してみたいのなら、どうぞ。その代わり、命の保証はしかねますが」
「な、何だと! てめぇ、殺してやる‼︎」
男はナイフを一直線にユーリの方に向けて、突進してきた。ユーリは避けることも容易かったが、あえて彼女はナイフを素手で受け止めた。普通ならば掌が切れ出血するところだが、普通の頭身では彼女の肌に傷一つ付けることさえ出来なかった。
「な…⁉︎」
「これでお分かりでしょう。普通の武器では、私を殺せませんよ」
その場にいた全員が恐れ慄いた。あえて受け止めて無傷をアピールした方が、より自らの強さを主張できるとユーリは考えたのだ。その計算は正しく、血気盛んなはずの悪漢たちは、たちまち腰が引けてしまっていた。
「その辺にしときな。そいつが言ってることは本当だ。少なくともこの女が本気になりゃ、俺たちも無事じゃすまねぇ。
それに、こいつは俺たちに取引を持ち掛けてきたんだ。その内容を聞いてからでも、悪くはねぇだろ?」
ミハイルは落ち着いていた。数多くの修羅場を潜り抜けて来たのであろう、不測の事態でも彼は同じている様子を見せてはいない。
「話がわかって何よりです」
「へっ。前置きはいらねぇ、取引の内容だけ聞こう」
「単刀直入に申し上げます。グスマン商会には、全ての奴隷貿易及び売買からの撤退を要求したい」
「…何?」
その発言に、ミハイルの眉が釣り上がった。奴隷に関する稼業は、グスマン商会の扱う商売の中でも、そこそこの上がりを得ていたからだ。近年は不況により奴隷の買い手も減ってきてはいるものの、それでも富裕層に好まれる奴隷による収益は未だ高かったのだ。
「無論、タダでとは申しません。前金として、こちらをお納めください」
ユーリは懐から、金貨が積められた袋を取り出し、ミハイルの足元に置いた。
「奴隷解放が確認でき次第、追加の報酬をお支払いします。こちらの三倍になります」
「なるほど。しかし、こいつは金だけじゃ納得できねえな」
「それも承知の上です。では我々が、税制優遇措置を取れば、どうなりますか?」
「…どういうことだ」
「正確にはグスマン商会を含めた大規模組織への減税措置、となりますが。
そしてあなた方が商品を輸入する東アガルタ連合…そこと貿易協定による関税軽減となれば、どうです? グスマン商会が続く限り、貴方たちは永久に利益を得ること出来る仕組みですが。
更にはあなた方の輸入する、幾つかの麻薬…あれらが幾つか合法化の兆しがあるのを、ご存知ですか? この契約が交わされた暁には、我が主の力で一気に合法化を進めましょう」
「……」
ミハイルにとっては悪い話ではなかった。
グスマン商会は表の顔も持っているため、それに関する利益の増大は喜ばしいことではあった。特に麻薬事業が解禁となれば、大手を振って市場を独占できるだろう。
しかし懸念事項がない訳ではなかった。
「確かに嬉しい申し出だがな…あんたが約束を違えないって保証はないぜ」
「それならば、心配はいりません。この証文をお持ち下さい」
ユーリは一枚の紙を、ミハイルに差し出した。
「こいつは…」
「契約書です。既に我らの署名と印は済んでいますので、こちらに一筆頂いた後、これを保管して頂きたい。
もし我らが約束を違えた場合、これを世に出せばいい」
「…おい、ちょっと待て! こいつは…」
ミハイルは目を見開いた。そこにはイブラヒム現王と王家の署名があったからである。王族関係者が自分たちの様な裏社会の人間と、直接取り引きするなど、まさしく前代未聞だ。
「これが公表されれば、我々はお終いです。法の下で断罪され、即座に死よりも辛い牢獄行きだ」
「お前ら正気か? 俺がこいつをネタに、あんたらを強請るかもしれねぇんだぞ?」
「ご心配なく。あなた方の不義理は、計算済みです。その場合は地の果てまでも追いかけ、息の根を止めるまでです。
私と王家の力ならば、それが出来る事はお分かりでしょう?」
「……」
ミハイルは暫し考え込んだ後、首を縦に振った。
「…いいだろう。全ての奴隷稼業は、これで終わりだ」
一気に周囲がざわついた。
「解放された奴隷は、皆家元に返すよう頼みますよ」
「わかったよ。全く、とんでもねぇ事になったぜ」
「ご協力、感謝します。ではこれで」
ユーリはミハイルに背を向け、出て行こうとした。
「ちょっと待ちな」
その背中を、ミハイルが呼び止めた。
「まだ何か?」
「お前ら、何をやろうってんだ? 俺たちと取り引きなんて、普通はやらねぇ…何が目的なんだ?」
「革命ですよ。弱者の救済…大義を為すためです」
そう言い残して、ユーリは去っていった。




