12.新王誕生
結果として、奴隷制撤廃は否決された。イブラヒムに反論した議員の言う通り、彼の主張は憲法に反するという主張は間違いではなかった。
(憲法ごと変えないと、国も人も変われないと言うのか…!)
隠しきれない苛立ちを表情に浮かべながら、イブラヒムは議事堂の廊下を、靴音を響かせ早足で歩いていた。
「待て、イブラヒム」
背後から彼を呼び止める声があった。それは長年聞き慣れた声、アイザックのものだった。
「急ぎすぎたな。まだ問題が表面に出ていない今、お前の主張は現実味に欠ける」
「しかし…これは事実だ! 景気の暴落はもう少しで起きる。そうなってからじゃ手遅れだ‼︎」
「わかっているさ。そんな事は、多少頭の良い奴ならとっくの昔に気づいてる事だ。お前に言われるまでもなくな」
アイザックは真っ直ぐに、イブラヒムの瞳を見据えた。
「さっきの議員が言ったように、お前の言っている事は憲法違反だ。つまり彼女を解放するためには、王国憲法第15条が足枷となる。つまり…」
「憲法ごと変えなければいけないという事か…しかし、それは…」
イブラヒムは口籠った。
「そう、王族半数以上と、総議席3分の2以上の賛成が必要だ」
「……」
冷や汗が額から流れてくるのを、イブラヒムは確かに感じた。
王国憲法というのは、立憲君主制であるアズリエルの根幹をなす物である。それを変えるというのは、正しく歴史を変えるような出来事である。
「事の大きさがわかってきたようだな。どちらにせよ、今のお前じゃ無理だ」
「しかし…このまま黙って見てるなんて…!」
「わかってるよ。何も止めろなんて言ってるわけじゃない。ただ今はその時期じゃないってだけの話だ」
アイザックは肩をすくめた。
「今は準備期間だ。根回しと言ってもいい」
「根回し?」
「さっきだって、全ての議員がお前の敵というわけじゃなかった。ちゃんとお前の話に耳を傾けてる奴らだっていたはずだ。
味方を増やすべきだって言ってるんだよ、俺のような。やがて俺たちが数を増やしていけば、今まで俺たちを笑っていた奴らも、無視できなくなる」
アイザックはイブラヒムの肩を叩き、ニヤリと笑った。
「心配するな。お前のやろうとしてる事に、俺は賛成だ。手助けなら惜しむ気はない」
「…本当に彼女は」
「⁇」
「本当に彼女は、自由になれるのか? こんなにも…世界は変わらないのに」
「それはお前次第だ。その生涯をかけてでも、彼女を救いたいか。言い換えれば、お前の彼女への愛が、どれだけ深いかだ」
「……」
その日の深夜、イブラヒムは不意に眼が覚めた。普段ならばユーリの寝息が聞こえてくるはずだが、こんやは違った。
「…起きてるのか、ユーリ」
「はい。申し訳ありません」
「…別に、謝る事じゃない」
イブラヒムとユーリは、寝床を共にする事が多くなった。
元老院議員として徐々に多忙になっていくイブラヒムは、その穴埋めの時間を求めた。その唯一の時間が、寝床に入る時間だった。
ユーリはいつもと何も変わらず、無表情のまま命令に従い続けた。しかしその心中までもは、未だにイブラヒムにも分からなかった。
「…ユーリ」
「何でしょうか」
「……いや、何でもない」
無論、問い掛ければすぐに判る事ではあった。心まで服従する事は無いと明言した彼女であるから、一言本心を言えと命ずれば、彼女は躊躇う事なく口を開くだろう。
しかしイブラヒムは恐れていた。ユーリが一度彼への呪詛を吐いた瞬間、胸の中にある物が消え去ってしまうのではないかという事が、今のイブラヒムにとっては何よりも恐ろしい事だった。
「…イブラヒム様?」
イブラヒムは、ユーリの掌を握った。その様子をユーリは不思議そうに眺めていた。
そうして、二人の何度目かの夜は深まっていった。
更に10年の時を経て、世の情勢は悪化していった。
イブラヒムの指摘通り、奴隷の維持費による経済格差は拡大の一途を辿り、街中には失業者が溢れ出た。最終的にはそれらがスラムを形成し、治安を悪化させる要因にもなっていった。
消費の冷え込みによるデフレも深刻な問題と化し、それに伴う少子化も止まることを知らなかった。それらは国中の経済産業の停滞を招き、それが軍需産業にも及んだ。その結果として、各地での亜人の脱走奴隷や、純粋種の貧困労働者たちによる暴動への対処が遅れるなどの事態が発生する。
世界は混迷の一途を辿っていった。
そんな世のムードをモノともせずに、ジャスティン王はパレードの楽隊と共に、馬車を街中に歩かせた。馬車の窓から顔を出し、笑顔で手を振る義父を、イブラヒムは苦々しい思いで横目にみていた。
「お義父様…何もこのような時に、こんな豪勢な行進を行う必要があるのですか?」
「ふっ。何を言う、イブラヒムよ。このような時だからこそ、救国にして独立の象徴である私が、国民を鼓舞せねばならんのだよ」
「…そうですか」
イブラヒムは内心、義父のこうした言動に辟易としていた。自らが英雄であり勇者であり、また世界における絶対的王者であると信じて疑わない。そうした態度はイブラヒムだけでなく、王室関係者からも多く顰蹙を買っていた。
胸が悪くなるような感覚をイブラヒムが感じていると、突如として馬車が急停止した。その反動で、イブラヒムとジャスティン王の身体は、大きく前後に揺れた。
「なっ、何事だ!」
ジャスティン王は前方の馬車の御者達に怒鳴った。
「うわああああっ!」
「に、逃げろ‼︎」
「キャー!」
「ひ、ひゃあああっ‼︎」
王の怒声を無視し、御者達は蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。また周囲の軍種たちも、みな悲鳴を上げて逃げ出している様子である。
続いて聞こえてきたのは、銃声だった。鼓膜に直接叩きつけるような音が、イブラヒムの耳を否応なく痛めつけた。
「い、一体何だ?」
イブラヒムが外を覗き込むと、そこは戦場の様相を呈していた。
武装した亜人達が、警備兵達を相手に銃撃戦を繰り広げている最中であり、時には魔法を使った爆発が辺りで発生していた。敵味方ともに鮮血を撒き散らしながらも、徐々に敵勢力はこちらに向かっていた。
「亜人たちの蜂起です! 逃げますよ、お義父様‼︎」
「あ、ああ…!」
如何に自ら軍を率いた英雄でも、流石に多勢に無勢である。一旦は退くしかなかった。イブラヒムとジャスティン王は両足を縺れさせながらも、なんとか馬車を降りた。このまま警備隊と合流し、安全な場所まで逃げるつもりであったが、しかしそれでは遅すぎた。
「ぐふっ‼︎」
突如として、ジャスティン王が血を吐いた。恐らくは腹部や胸に数回被弾している様子である。流れ弾か、それとも遠方からの狙撃かどうかは分からなかったが、何れにせよ命に関わる大ダメージであることは明白だった。
「お義父様!」
「陛下、大丈夫ですか! こちらです‼︎」
ようやく合流した警備隊に連れられ、イブラヒムは命辛々脱出に成功した。
結果的に、ジャスティン王は殺害された。
銃創の損壊具合から見て、遠方からの狙撃であることが確定となった。
王の死という衝撃的なニュースは、瞬く間に国中を駆け巡った。またこの事件をきっかけとして、隷属し抑圧されてきた亜人種たちの反乱というものが、ようやく一個の脅威として認識され始めた。民衆の間で死人や怪我人が出ることはあっても、記憶を始めとした富裕層に被害者は少なく、特に王族では被害にあったものが一人も居なかったせいである。
これは言うなればアズリエル王国における事実上の内戦であり、富裕層と貧困層の奪い合いである。そうした戦いの空気の中で、ついにイブラヒムは、その頭に王冠を乗せることを許されたのであった。
それは歴史を動かすイブラヒム王の、誕生の瞬間でもあった。




