8.世界を変えるしか
翌日のアカデミーでの、近代史の授業での事。その日は”近代における奴隷制”をメインとして授業が進んでいた。その内容は、幾度となく繰り返し覚えさせられてきたジャスティン王の英雄譚と、それに伴う亜人属の奴隷化である。アズリエル臣民ならば誰もが知る物語であり、今更聞くまでもない話であったが、それをこの教授は基礎の確認ということで、冗長に話していた。
「えー、ジャスティン王によるアズリエル平定の後に問題とされたのは、あー、その戦力となった亜人族の処遇でした…」
教授の凡庸且つ退屈な口調を耳にしながら、イブラヒムは心の中で疑問が湧き起こるのを抑えきれなかった。
(何故、虐げられるのは彼女たちなんだ)
その光景はイブラヒムの目蓋の奥に焼き付いたように、常にありありと目の前に思い出せるようだった。僅かばかりの金の為に、少女を虐げる人間達。それを疑問ともしない社会。そして苦しみながら命を奪われていく者達。
そんな世界でユーリは生きていた。油断すればすぐに絶命しかねない世界で、心を尖らせながら生きてきたのだ。彼女とその仲間たちが、なぜ痛めつけられるのだろうか? 純粋種の人間と同じく、尊厳ある人間だというのに。
(何故、俺は貴族なんだ)
そして、イブラヒムはただ単に公爵家に生まれただけの、幸運な男の一人に過ぎない。学業や運動といった事は人より得意とはしていたものの、それ以外はこれと言って秀でた所のない人間である。兵士のように敵兵から人や国土を守れるような、強大な力を持ち合わせているわけではない。しかし彼はユーリたちの直上に、支配階級として立っている。流れる血は同じであるにも関わらず、である。
(何故ユーリが、こんな世界で生きていかなきゃいけないんだ)
そんな皮肉で残酷な世界に、ユーリは今生きている。常に彼女を脅かし続ける、民衆と法律に囲まれながら。
彼女が流す涙は、自分の心を切り裂くかのように痛めるのに。彼女が笑えば、見るもの全てが色鮮やかに見えるのに。
イブラヒムには、まるで世界中の人間や法律が、彼女を責め立て殺そうとしているかのようにも思えて仕方が無かった。そしてその仕組みの中で胡座を書いているような自分自身が、無性に腹立たしかった。
「はい。というわけで、亜人の従属はこの時点で始まったのでした。何か質問は?」
「……質問があります、先生」
気が付けば、イブラヒムは手を上げていた。
「珍しいな、イブラヒム。君が質問とはね…いいだろう、何だね?」
「…なぜ亜人は、奴隷でなければならないのですか」
「何?」
その言葉に、教室内がどよめいた。アルやアイザックでさえも狼狽し、何が起こったのかと彼の方を見つめていた。
「我ら純粋種と同じ、人間の心を持つ者たちが何故…尻尾や鱗があると言うだけで、奴隷として我々に従属しないといけないのですか?」
「お、おいおい。気は確かかね、イブラヒム」
教師は目を見開きながら、ひどく狼狽えた。
「彼らの見た目で分かるだろう。彼らは純粋な人間ではない、動物だ。人が家畜を使役するのと同じように、知恵と尊厳を持つ我々が、亜人という種をうまく利用しているのだ。何がいけないというのだね、人として実に素晴らしい文化的かつ知識的営みじゃないか?」
「そんなバカな! 知識と尊厳なら、亜人にだってある。彼らだって文字を解し、芸術を愛し、笑い涙する人間なんだ! それが何故家畜と同じ扱いを受けねばならないのですか⁉︎ 誰がそのような事を決めたのですか!」
「さっきも言っただろう、ジャスティン王が定めたのだ。別に変なところはあるまい。亜人は知識に乏しく、我々のような創造性を持ち合わせていなかった。だからこそ、こうした貴族制に則り彼らは我々に仕えているのだよ」
「ジャスティン王ですって? 如何に独立を成し遂げた英雄といえど、人の形をした物を隷属させる権限など持ってはいないはず! それが出来るとしたら、天上のアドナイだけだ! 十戒をお忘れなのですか、教授‼︎ 神を模すなかれと記されているではないですか‼︎」
「い、イブラヒム…少し落ち着けよ」
辛抱堪らず、アイザックが近寄りその腕を取った。しかしイブラヒムはその腕を振り払い、ひどく激昂したままアイザックを睨みつけた。
「うるさいっ! 今しゃべってんだ、邪魔するな‼︎」
「す、すいません教授、ちょっと疲れてるんですよ、こいつ…ほら、行こう」
「何するんだ、放せっ! おい、やめろ‼︎」
ダンとアイザックが必死で彼を取り押さえ、無理やり引っ張るように教室から出て行かせた。その様子を他の生徒たちや教授は、ただ茫然と見守ることしか出来なかった。
「一体どうしたんだよ? 本当にここ最近おかしいぞ?」
ダンは心配そうにイブラヒムの顔を覗き込んだ。イブラヒムは先ほどの反動からか、地面に座り込み頭を垂れていた。
「話してもらうぞ。一体何があったのか」
アイザックは鋭い目付きでイブラヒムを睨みつけた。
とうとうイブラヒムは口を割った。ユーリとの出会いと理解。そして亜人少女への迫害、それら全てを二人に聞かせた。
「今まで知らなかった…ユーリが、俺たちと同じだなんて…なのに何で世の中は、あいつらに冷たいんだよ? そして、なんで誰もその事を疑問に思わないんだよ? どうして…どうして俺は、公爵家に生まれただけで、あいつと違う人間なんだ…」
気がつけば、イブラヒムは涙を流していた。残酷な世界と、自らの無力さが、今の彼にはどうしても許せなかった。
「…大切なんだね、その子のことが」
ダンは沈痛な表情で言った。
「…おかしな話だよな。なんで俺が、一人の女にこんな…今までこんな事なかったのに…」
「いいや…おかしいことなど何もないさ」
アイザックが口を開いた。その顔は、今までに見たこともないような、神妙かつどこか優しさを含んだような顔だった。
「お前は、その女を愛しているんだよ。この世の誰よりも」
「愛…?」
「そうだ。他者の痛みを感じ取る事、他者の為に己の物を分け与える事、それは紛れもなく愛だ。
…それをどうやって体現するかは、お前次第だ。彼女に愛していると伝えるも良し。主従関係を保ったまま、彼女を外界から守るもよし。あるいは…いや、やめておこう」
アイザックは目を逸らした。
「とにかく、だ。お前のその感情は、おかしなものなんかじゃない。むしろ誇るべきものだ」
「そうだよ、イブラヒム。君みたいな奴が人の事をそんなに思いやれるなんて、素晴らしいことじゃないか」
「愛…この俺が、ユーリを…」
イブラヒムは知らなかった。これほどまでに他者を想う気持ちに、名前がある事を。そして愛というものが、このような感情であることを、彼は人生で初めて知った。
「……って、俺みたいな奴ってどういう事だよ!」
「あ、気付いちゃった? 気づかないと思ったんだけどなぁ」
「ダンの言い分は正しい。お前の、俺に対する今までの言動を見返せ」
「こ、こ、この野郎!」
そうして彼らは最後には、三人で笑い合った。
「お帰りなさいませ、イブラヒム様」
「ああ…ただいま」
いつも通り、ユーリはイブラヒムの部屋を整理し、埃一つ立たないような完璧な部屋に仕立てていた。イブラヒムは、その姿を見つめていた。
その視線に気付き、ユーリは怪訝そうな表情を浮かべた。
「何か、ございましたか?」
「あ…い、いや…」
咄嗟にイブラヒムは視線を逸らした。昼間アイザックに言われた事が脳裏によぎり、彼女と目を合わせる事が出来なかった。
『お前は、その女を愛しているんだよ。この世の誰よりも』
(俺が…ユーリを)
その事実をイブラヒムは受け止めきれずにいた。その地位や金、そしてその見た目の美しさ故に、彼に言い寄って来る女は後を絶たなかった。
しかし、その誰もがイブラヒムにとっては遊びの範疇に過ぎなかった。多少の不幸であるなら、普段は眉一つ動かさないであろう。
しかしユーリだけは違った。彼女をあらゆる不幸から守りたかった。彼女の側で、身を挺してでも全ての災いから遠ざけたかった。
「…具合でもお悪いのですか?」
「あ、いや…そういうわけじゃない」
ユーリが訝しむように顔を覗き込んできた。その顔を直視する事が出来ず、イブラヒムは目をつい逸らしてしまった。
「私はこれで失礼いたします。何か体調に問題があれば、お申し付けください。では」
「あ…ちょっと、待ってくれ!」
踵を返して去ろうとするユーリを、イブラヒムは引き止めた。
「何か、お薬でもお持ちしますか?」
「いや、そうじゃない…その…今夜も、俺と一緒に寝てくれないか」
彼女から目線を外しつつ、イブラヒムは口籠もりながら言った。
「それは昨晩と同じく、夜伽ではないという意味ですか?」
「ああ…別に、嫌ならいいが」
「構いませんが、よろしいのですか?」
「良いと言っている! ったく、俺は夕食に行くから、お前も飯が済んだら寝る準備を済ませておくんだぞ!」
「かしこまりました、イブラヒム様」
若干不思議そうな顔をしながらも、いつもと変わらない無表情でユーリは答えた。
そして夜も更け、月明かりが窓から差し込む頃に、二人はベッドの中にいた。
月光はユーリの寝顔を仄かに照らし、イブラヒムはそれを見つめていた。安らかに寝息を立てる彼女を見つめながら、イブラヒムは思案していた。
(どうすれば、彼女は幸せに生きていける)
彼女が自由に生きるということ、それはこの世界の仕組みでは到底叶わないことであった。ならば、彼女を取り巻く全てのルールや法を丸ごと変えねばならなかった。そしてそれは、並大抵のことではない事は明白だった。
(俺が、世界を変えなければならないのか)
それが、彼の出した結論であった。




