6.息ができない
そして次の日の朝、イブラヒムは酷い寝不足に苛まれた。
一晩中飽きもせずにユーリの寝顔を眺めていると、いつの間にか朝になっていたという顛末だった。軽い偏頭痛と目眩に一日中苛まれながら、イブラヒムは翌日のアカデミーの授業を何とか乗り切った。途中何度か授業中に眠りこけそうになった事もあったが、そんな時はユーリのことを考えていた。
気が付けばイブラヒムは、一日中彼女の事を考えていた。授業の内容もほとんど頭に入って来ない程に、ユーリに集中力を掻き乱されていた。
「おい、今日はなんだか変だぞ」
「そうだよ。何だか、一日中上の空じゃないか」
「…そうだな」
親友二人が語りかけても、気の抜け切ったような返答しか返さなかった。付き合いの長いダンとアイザックでも、こんなケースは初めてであった。二人は顔を見合わせ、困惑し切った表情で首を傾げた。
「何か悪いものでも食べたのか、イブラヒム」
「それか、何か新手の風邪でも引いているのかな?」
「…そうだな」
親友二人の心配を他所に、イブラヒムはただ虚空を見つめ、その中に幾つものユーリの表情を思い描いていた。
そしてある日の午後の事であった。
イブラヒムは通りを散策していた。アイザックやダンも誘ってはみたものの、二人とも予定が詰まっているとの事だった。
致し方なく騒がしい市場を通り抜け、アカデミーの女学生の間で話題の菓子屋にでも行って、ユーリたちへの土産でも買っていってやろうかと思っていたところ、一際大きな怒声がイブラヒムの耳に届いて来た。
「テメェ、こんなパチモンの銅貨渡しやがって! 奴隷風情がどういうつもりだ、あぁ⁉︎」
恐らくは食料品店の店主であろう。ひどく古びて傷だらけの銅貨をもち、眼前の華奢で小さな亜人奴隷の少女を、凄まじい剣幕で怒鳴りつけていた。少女の方は頭の上に獣のような両耳を持ち、尻尾の生えた何処にでもいる亜人奴隷と言いた感じであった。その容姿は若干幼く、少なくともイブラヒムより歳上には見えなかった。
「ち、違います! これは偽物なんかじゃありません‼︎ ちゃんとご主人様から頂いた、本物のお金です!」
「嘘つけ! なら何でこんなに汚くて古いんだよ‼︎ 偽物なのを誤魔化すためだろうが!」
「そ、そんな…ご主人様が、お前にはこれで十分だと…!」
「このガキ、おちょくりやがって! さあ、こっちに来い‼︎」
そうして少女は路地裏に引っ張られていった。イブラヒムの心臓が飛び上がった。それは割と普通の、なんでもない光景のはずだった。純粋種の人間による亜人奴隷への私的な制裁など、はっきり言って枚挙に暇がない。そのことをイブラヒムもよく分かっていたはずだった。
(別に、俺には関係のないことだしな…そうだ、好きにすりゃあいい)
そうしてイブラヒムは足早に歩を進めた。しかし心臓の鼓動は早いままであった。
路地裏では、複数人の男が少女の両手両足を押さえ付け、地面に仰向けに寝かせていた。小さい体を必死に振って抵抗しようとするが、如何せん何人もの屈強な男たちの前では無力だった。さらには簡易ではあるが捕縛用の魔法も効いているようであり、単純な腕力も魔力も使えない様子だった。
「この野郎、舐めたマネしやがって…借りは返してもらうぞ」
「いやっ、やめて! やめてください‼︎」
「こいつ、まあまあ大人になりかけだぜ。どうする、楽しんじまうか?」
「いいね。娼館の女にも飽きてきたところだ、やっちまおうぜ」
「いやああああああっ!」
男は彼女の衣服を乱暴に破き、肌を露わにさせた。そこまで身体の起伏は激しいものではなかったが、いまだ未成熟で初々しい肢体が、男たちの嗜虐心をより一層昂らせた。
「よっしゃ、俺が一番だな」
「さっさと済ませろよ。お前、独り占めしがちだからな」
「いやっ‼︎ お願いです、やめてください! 誰か、誰か助けてっ!」
「おい、もう放してやれよ」
イブラヒムは男たちに向かって、真っ直ぐに向かっていった。
「あぁ? なんだテメェは」
「外野は黙ってろよ!」
男の一人が、イブラヒムに向かって思い切り腹部を蹴り付けた。
「がっ…!」
ちょうどその蹴りは肋骨付近にクリーンヒットし、イブラヒムは息を吸う事すら困難になった。脇腹を抑えて蹲る彼を、男たちはニヤニヤと笑いながら眺めていた。そして男の一人が簡単な拘束魔法を行使すると、イブラヒムの両脚は地面に縛り付けられるように動かなくなった。
「くそ…放せ!」
必死で拘束を解こうとするが、無駄だった。もちろんイブラヒムも解除の魔法を展開してはいるが、すぐには解けない。兵士でもない限り魔法を一瞬で破るというのは、不可能に近いことであった。
「ケッ、お貴族さまの分際でよ。俺らの邪魔すんじゃねぇよ」
「こんな奴ほっといて楽しもうぜ。まぁまぁいい女じゃねぇか、こいつ」
「ちょっと待ちな。普通にやるよりも、良い方法を知ってるぜ。」
そういうと、男の一人が仰向けになっている少女の首の上に、自らの膝を置いた。
「がっ…‼︎」
「首を絞めてやると、締まりが良くなるらしいぜ」
「ほぉ、初めて聞いたな」
「や、め…苦し…!」
少女は必死に抵抗しようとするが、男たちはたじろぐばかりか、さらに残酷な笑みを浮かべた。
「ほらほら、やめて欲しけりゃ立ってみろよ!」
「こいつは楽しみがいがありそうだぜ」
「もうよせ! 何でそこまでする必要があるんだ‼︎」
拘束魔法により魔法を使う事もできず、たまらずイブラヒムが叫んだ。解除魔法は徐々に高速を弱めてはいるが、それでも飛び出して男たちを止めるにはまだ足りなかった。
「おいおい、何でこの女を庇うんだよ? あんたら貴族だって、こいつら亜人を奴隷にしてるじゃないか」
「だからどうした! こいつが偽の銅貨を使っているなら、憲兵にでも突き出せばいいだろ‼︎ 何故こんな私刑を加える必要があるんだよ!」
「はぁ? こいつら人間じゃねぇのに、なんで憲兵なんか通す必要がある」
「違う! こいつらは人間だ‼︎ 血を流し、考える、同じ人間だろうが!」
「こいつ頭湧いてんな。まぁいいや、さて…お楽しみだぜ」
少女の顔から徐々に血の気が失せていき、抵抗が弱くなっていくのが分かった。膝を少女の首に置いている男は、全体重を彼女の首の上に置いているようであり、ほぼ呼吸ができていないのが側から見ていてすぐにわかった。このままでは命の危険があることは、火を見るよりも明らかであった。
「お…願…助け…息が…出来、な…」
「もうやめろ! 死んじまうぞ‼︎」
「お母…さん…たす…」
「さてさて、心配すんな。お前も気持ちよくなるんだぜ? クックック」
少女は涙を流しながら、母の名を呼んだ。やがて男が自らのベルトに手をかけ、服を下ろそうとした時。
ゴキッ、と不吉な音が鳴り響いた。
「あ"…」
ほんの一瞬の小さな断末魔の声を上げた後、少女は微動だにしなくなった。その見開いた瞳からは光が消え失せ、まるで乾いた硝子玉の様だった。顔は真っ白になり、呼吸音は一切聞こえなくなった。
「おいおい、マジかよ。このガキ、くたばっちまいやがったぜ」
「はぁ? 最悪だぜ。せっかくこれからやっちまおうって時によ」
やがて男の膝が少女の首から離れると、その顔はイブラヒムの方を向いた。瞳孔が開き輝きを失った双眸は、まるでイブラヒムを睨み付けているようでもあった。何故助けてくれなかった、と。恨みを持って語りかけているようにも感じられた。
「あ…ああ……」
やがて、拘束の解除が完了した。イブラヒムの両脚は自由になり、魔法の行使も可能となった。しかしイブラヒムはその拳を固く握りしめ、わなわなと身体中を震わせた。
「うわああああああああっ‼︎」
イブラヒムは駆け出し、その拳で男の一人を全力で殴りつけた。魔法でなく、自分の拳で直接痛みを与えないと、イブラヒムの気が済まなかった。それほどまでに自分の中に、怒りの感情が湧いていることは、彼の人生の中で初めての経験だった。
「ってぇ!」
「何しやがる、この野郎!」
「なんで殺したんだよ! お前らそんなに上等なのかよ、クソ野郎‼︎ ふざけやがって、殺してやる!」
「上等だよ、クソガキが!」
「やってやろうじゃねぇか‼︎」
男たちは、今度はイブラヒムを痛ぶり始めた。魔法を使えるとはいえ、複数対一人では一方的にイブラヒムが殴られるばかりであった。
怒りと悲しみに包まれながら、イブラヒムは殴られ続けた。その瞳に涙が浮かんでいる事に気づいたのは、もう少し後の事であった。




