4.尊厳ある
そして数日後の出来事であった。
何気なくイブラヒムが廊下を歩いていると、ユーリに出くわした。しかし彼女の方は、イブラヒムに気づいた様子はまるで無かった。自分の主人が近づいていることを忘れるほどに、彼女は壁に立てかけられた絵画に没頭していた。
(あの絵は…)
その絵は父であるルイス公爵が、最近気に入って購入したものであった。公爵はこうした芸術作品に目が無く、己の眼鏡にかなった物であれば、その場で購入してしまうのが彼の悪癖でもあり、その度に増えていくコレクションに母である公爵夫人は溜息をつくというのが恒例であった。
「その絵が気に入ったのか?」
イブラヒムが声をかけると、ユーリは一瞬肩をびくりと震わせ、主人の方に向き直った。
「申し訳ありません、イブラヒム様。お気づきになりませんでした」
「いや、それはいいんだが…その絵、好きなのか?」
「…はい。とても、色彩が綺麗で」
その絵は抽象画に近いものであり、一本の大木からありとあらゆる色彩の葉が舞い落ちるという、原色が鮮やかに映える絵だった。そして背景は青や濃紺を使ったグラデーションで描かれており、さながら深海の中にいるかのような錯覚さえ起こす程である。それがさらに葉の色彩を際立たせる、絶妙のコントラストであった。
「確かに、俺もこの絵は気に入っているよ」
イブラヒムは正直に答えた。大広間に通じる道でこの絵を見かける度に、つい一瞬目を奪われてしまう。それがこの絵だった。
「…そうでしたか」
すると、ユーリは絵画の方に目を戻した。その両目には、普段決してイブラヒムたちには見せることのない、輝きが宿っているのを見逃さなかった。濁った硝子玉のように感情を失った顔が、何かの人間味が宿ったような気さえもしていた。
その瞳を見つめていると、イブラヒムの中に感じた事のないものが芽生えていくのを感じた。
(こいつは…)
「お帰りなさいませ、イブラヒム様」
それはいつも通りの光景だった。アカデミーから帰宅し、自宅の門を通って玄関に入る。ドアを開けて入ってきたイブラヒムを数人のメイド達が出迎え、上着を預かり、靴を揃え、部屋履きを履かせる。そこまでがいつも通り、変わらない日常のルーティーンであるはずだった。
「いらない」
「え?」
「俺の上着を預かる必要など無い、と言ったんだ。服の脱ぎ着くらい、子供じゃないんだから自分で出来る」
そう言うと、イブラヒムは自ら上着を脱ぎ、靴を揃えた。その姿を、メイドたちはオロオロと見守ることしか出来なかった。普段とは全く違う主人の行動に、頭が混乱しきっていたのだ。
「それと、今後俺を出迎える必要はないぞ。わざわざ玄関まで走ってくるぐらいなら、家事の手伝いや掃除に時間を割け」
「は…はい」
「それと、この前倒れた奴隷が何人かいたな」
イブラヒムは手に持っていた小袋を、メイドの一人に手渡した。
「薬と精の着くものを買ってきた。これでさっさと体調を治せと伝えておけ」
「あ…ありがとうございます!」
メイド達の顔が一気に輝いた。
(…俺は、何をしているんだ)
イブラヒムはついこの間まで、奴隷など人間未満の存在であり、純粋種にとっての道具に過ぎないと信じて疑わなかった。だからこそ何人倒れても平気だった上に、どうやって維持し、また破棄するかといった効率の良い運用しか考えていなかった。それが今ではこの様と言うわけである。彼はそんな自分自身に、酷く困惑していた。
そうしてアカデミー内でも、彼の立ち居振る舞いは徐々に変わっていった。常に高慢で鼻につくと話題だったイブラヒム・ルイスが、最近は妙に大人しく控えめであると、学生の間では専ら話題になっていた。近頃は何か思案するような姿が目立つようになり、それがまた奇異の目を集めていた。
「おい、最近どうしたんだ? やけに大人しいな」
「なんか近頃無口だけど、悪いものでも食べたの?」
イブラヒムが椅子に座りながら、ぼんやりと外の景色を眺めていると、アイザックとダンが肩越しに話しかけてきた。その目は物珍しげでありながらも、どこか心配そうな目をしているのが分かった。
「…なぁ、お前らの家って、奴隷っていたっけ?」
「奴隷? 奴隷というのは、亜人のか?」
「ああ」
「いや、いない。道義的に見て、奴隷を使役するというのは我々の教義に反するからな」
「俺の家もいないよ。出費が嵩むから、家族全員買わないようにしてるんだ」
「…そうか」
「一体どうしたの? マジで最近様子がおかしいよ」
「…そうだろうな。自分でも、おかしいと思っているよ」
イブラヒム自身も、自らの変化を受け入れられずにいた。これまでの人生で培ってきた教養、常識。そういったものをユーリが全て覆し、打ち壊していった。
最初に彼女を購入した時も、所詮は物体としての造形美や機能に惹かれたのだ。だが彼女の知識や感性、そして誇りを見るにつれ、いつしか彼女に対する感情さえも変化していくのがわかった。
そういった事情が分からない親友二人にとっては、ただ首を傾げるばかりであった。
その日もユーリを含めたメイドたちは、屋敷の中で働きまわっていた。あるものは掃除道具を持って清掃に、あるものは厨房で料理を準備していた。
そしてユーリは、まだ幼い奴隷の子供達に文字を教えているところだった。今や彼女は、この屋敷に支える奴隷達の中でも教師役となっていた。何より幼い子供達への教育は彼女の専属業務となり、子供達を集めては様々な知識を与えていた。
イブラヒムは、その様子を遠巻きに眺めていた。声をかけるか否か思案しているうちに、タイミングを完璧に逃してしまった。というのも、彼女が普段に比べて、どこか生き生きとしているような印象さえ受けるからであった。
「お姉さま。できました」
「はい、よくやったわね」
少女は拙い字を紙の上に書き、ユーリに手渡していた。すると彼女は、子供に微笑みかけた。
その顔にイブラヒムは衝撃を受けた。自分に買われてからというもの、ずっと彼女が表情を変えることは無かった。冷たい目と貌、それがユーリに対して知る全ての事だった。
今彼女が、自分以外の者に対して完璧に心を開いていると言う事が、イブラヒムにとって納得いかない事のようにも思えた。
(俺には…あんな顔、見せないよな)
『結局のところ、私は奴隷で貴方が主人であり続ける限り、私が貴方に心を開くなど有り得ない』
しかしイブラヒムは、かつての彼女の言葉を思い出していた。イブラヒムとユーリの関係というのは、つまる所は使役する者とされる者の関係でしかないのだ。それが無くなれば彼女は自分の元から迷いなく去って行くだろうし、運が悪ければ今までの恨みとばかりに殺されてもおかしくは無い。
そのことを、何故かイブラヒムは堪らなく悔しくも感じていた。
「おい、ユーリ」
気がつくとイブラヒムは、ユーリに声をかけていた。
「その仕事が終わったら、一緒に来い。今日は夕飯を外で食う」
「かしこまりました、イブラヒム様」
そうしてイブラヒムは踵を返して出て行った。醒めた彼女の顔を見ていても、何故だが辛くなるような気さえしたからだった。
「酒場に来たのは初めてか?」
「はい。基本的には亜人は入れませんので」
基本的に亜人を受け入れるような酒場は、極端に少ない。身分的に下の者を置いておくと、雰囲気が悪くなるというのが大体の理由だった。奴隷に対して嫌悪感を抱く者は、決して少なくは無い。だからこそ、危害を加えられないためにも人間の多い場所には立ち入らない、というのが亜人の間では暗黙の了解になっていた。
「今は長袖だから、鱗が見えることはない。こうしていれば普通の人間にしか見えないから、安心しろ」
「はい」
「では、何か頼むか…よし、これにしよう」
イブラヒムは店の中で一番いい肉とパンを頼んだ。恐らく普通の亜人ならば、絶対に味わう事ができない料理である。また、酒も上等な物を頼んでおいた。奴隷が酒を飲むなど、普段は有り得ないことではあるが、今回だけは特別だった。
やがて肉が運ばれてくると、肉がジュウジュウと焼ける音が響き、それが否応なく食欲を刺激した。ユーリの両目が少々見開くように大きく開いていくのを、イブラヒムは見逃さなかった。
「よし、食べようか」
「は…はい」
二人はナイフで肉を細かく切りながら、一欠片ずつ食していった。肉を口に運ぶ度にユーリの目が輝いていくのを見ると、何故か心が躍るような感覚になるのを、イブラヒムは不思議に感じていた。
そんな風に彼女を眺めていると、ふとイブラヒムはある事に気が付いた。一緒に運ばれてきたサラダに、殆どユーリは手を付けていなかった。よく見れば、色の濃い野菜だけを残しているようだった。
「…お前、野菜が嫌いなのか?」
「! ……」
痛い所を突かれたとでも言うように、ユーリは気まずそうに顔を背けた。そんな彼女が少々可笑しく見え、イブラヒムは笑ってしまった。
「ぷくく…ユーリって意外とお子ちゃまなんだな」
「ば、馬鹿にしないでください! 野菜ぐらい、ちゃ、ちゃんと食べれます!」
そう言ってユーリは、勢い良く残っていた野菜を掻き込んだ。すると彼女を目を白黒させながら、なんとか全精力を持って飲み込んだ。ユーリは息を切らしながら、半分涙目にもなっていた。
「なかなか可愛らしい所もあるんだな。安心したよ」
「なっ…こ、子供だと思っているのですか⁉︎ 納得いきません!」
そういうとユーリは、空になっていたグラスに酒を並々と注ぎ込み、それを一気に呷った。
「お、おいユーリ…」
「ぷはっ…これでお分かりになりましたか。私は子供ではありません」
一気にユーリの目が据わった。そこから更にユーリはグラスに酒を注ぎ、飲み干した。その光景をイブラヒムは黙って見ているしかなかった。
「すみません、もっと強いお酒を瓶で」
「え…大丈夫ですか?」
「大丈夫です。出費はこの御方が」
(金…足りるかなぁ…)
財布の中身を心配し始めたイブラヒムであった。




