本気を出すのは明日から?
夏波は、最初泊まる予定だった離れに一人でいた。
明日から、ビシビシ行くから、今日はせめてゆっくりおし、と、言って六曜は去った。
家に電話をしないとな、と、思いながら、どうやったら実家と連絡がとれるのか、後で星太夫に聞いておかないと、と、だらんと横になった。
大学をどうするか、とか、確認しなくてはならない事は山のようにあるけれど、気持ちをはっていたせいか、倦怠感からゆるやかな眠気に誘われる。
お風呂、入らないと、と、思いながら、あー、でも、この離れは、お風呂、ついてないんだっけ、従業員用のお風呂場まで行くの、大変だなあ、と、思いながら、虫の鳴き声に耳をかたむけているうちに、夏波は横になってしまった。
縁側から見える庭園は、明るかったらきっともっと見事なのだろうな、と、思える。
あ、そうだ、車、とりに戻らなくちゃ、と、起き上がった。
庭に、人が立っている事に気づいたのはその時だった。
昨晩拉致されかかった事を思い出して、身がすくむ。
怖い、と、思うのに、目を離すことができなかった。
「夏波ちゃん……」
立っていたのは、星太夫だった。
「えっ、えっ、その、なんで、今、あのっ」
夏波は、あたふたして、とりあえず乱れていた裾を整えた。
そういえば、スマホをどこに置いていたかな、と、思ったけれど、立ちすくむ星太夫から視線を逸らす事ができなかった。
「えっと、その……こっち、来る?」
夏波が言うと、星太夫はうれしそうに、いいの? と、言って、濡れ縁からにじり寄って、夏波の向いに座った。座卓を挟んで向かい合うと、なんだかお見合いみたいで、夏波はおかしな気持ちになった。
夜に訪れておいて、こういう形で中途半端に距離をとるところが、何とも星太夫らしいな、と、思って夏波はおかしかった。
思わずふふ、と笑うと、星太夫は唐突に笑った夏波に驚いて、言った。
「……あれ、僕、何かおかしかった?」
「ううん、星太夫らしい距離のとり方だな、と思って」
このあいだ、あんな風に触れてきたのに、と、思わず口をつきそうになった夏波は、その言葉を飲み込んだ。
「どうしたの?」
「こんな風に、二人だけで会えるのは、今夜が最後かも、って あ! 会いたくないって意味じゃないやらね? ただ、女子寮は男子禁制だし、外泊もできないから、……その、年季があけるまで、夜に二人で会うって、できなくなるから」
『夜』に会う事に、やけにこだわっている星太夫がおもしろくて、夏波はまた吹き出しそうになるのだけれど、夏波は必死で笑いをこらえた。
「『夜』でないと私に用はないの?」
少しいじわるかもしれない、と、思いながら、夏波がたずねると、星太夫はめいっぱい頭を振ってあわてて否定した。
「そ! そんなわけはッ! ……ない、けど」
もごもごと口ごもりながら、恥じらうようにうつむく星太夫はなんだかかわらしくて、夏波はおかしかった。
「なんだか、ごめん、勝手に決めちゃって」
夏波は、星太夫に何の相談も無く決めてしまった事を詫びた。
「いや、いいんだよ、それは、だって、決めるのは夏波ちゃんなんだし」
いじいじと星太夫は指で畳の目をなぞった。
「……でも、その、よかったの、かな、夏波ちゃん、学校とか、お家の事とか」
「だって、連絡は取り合えるし、行き来もできるんでしょう?」
そう、今は、まだ。
あの夜、激情に身を任せてしまったら、それもできなくなっていたのか、と、夏波は思った。
「そういえば、星太夫や三太郎は、あちらとこちらを行き来できるの?」
「僕や千秋は、向こうの生まれだし、僕の母親が向こうの人だから……、千秋の母親は、逆で、こちらの人だからね、でも、三太郎は……」
つまり、『あちら』と『こちら』の間に産まれた者は、その、『行為』の影響の外にある、という事か。
「夏波ちゃんのお父さんは、役場に勤めてるよね、ゆかずち温泉の町役場には、こっちとあっちの人が混ざってる、結局、その、戸籍をまたいだりする人がいるからね」
「ちょっと待って、あちらのゆかずち温泉が周辺と合併しないのって……」
「こちらの事が、あるからね、今のところ、正しい窓口はゆかずち温泉町役場だけ、もちろん、国の方へ出ている人たちでも知ってる人はいるけれど……」
住民台帳とかはじゃあ、役場で何らかの操作がされているという事なのか、でも、それは、いつから、どうして。
「古くは戦国時代から、でも、役場に人を送るようになったのは、多分廃藩置県の後だと思う」
「……よく、その、この温泉街を守れたね、あれ? じゃあ、お客さん達って、どこから来てるの?」
「どう説明したらいいのかな、ゆかずち温泉の表と裏、それぞれに世界が広がっていて、裏は裏で、また世界が広がっていて、お客さんが来るのは裏の世界から、なんだよね」
ちんぷんかんぷんになった夏波に、電話機の横に置いてあったメモとペンを持って、星太夫が図を示して見せてくれた。
コインの裏と表、それぞれに広がる世界。
「接しているのはここだけで、それぞれにはそれぞれの世界があるという事?」
「そう、だから、夏波ちゃんのスマホも、向こうとやりとりできるのは、ゆかずち温泉内だけなんだ」
それぞれの世界にはそれぞれの世界のプロトコルがあるが、行き来できるのはこの温泉郷だけだと、星太夫は説明する。
以前、星太夫が言っていた『境界』とは、そういう意味か。
独立した二つの世界、表と裏の接点にして境界。
「ただ、そのバランスが今、少し崩れつつあるのは確かなんだ」
「温泉宿の数の不一致って、そういう事?」
七つある湯宿、数の減ってしまった表の宿達。
「だから、千秋がこちらに来るのは、本当はうまくなかったんだ、多分、三太郎は向こうへ行く気なんだろうね、千秋の父は、別の考えを持っているみたいだけど」
「その、数があわなくて、バランスが取れなくなったらどうなるの?」
「行き来が、できなくなる」
「つまり、向こう側へ戻れない?」
「そう、だから、本当は『ユキヒト』は番所へ届けて、本来は戻さないといけかったんだ」
「じゃあ、私は帰らなくちゃダメ、って事?」
「夏波ちゃんは、戻りたい?」
「まあ、学校とか、家とか、手続きをしなくてはいけない物があるのかな、とは思うけど……」
けれど、父が事情を知っているのなら、話そのものは早そうだ、とも、夏波は思っていた。
「でも、そのままこちらに戻ってこれないのはイヤ、かなあー」
夏波が言うと、星太夫が少しほっとしたようで、体育座りでピッタリかかえていた膝を少し崩した。
「そっか、よかった!」
あまりにも星太夫がうれしそうに言うので、夏波は少し気恥ずかしくなった。けれど、まっすぐに好意を向けてもらえる心地よさが、じんわりと夏波の心を癒やすようにしみこんでくる。
星太夫は、普通にしているだけで、こんなに自分を幸せな気持ちにしてくれるのに、自分の方はどうなのだろう、と、夏波は少しだけ不安になった。
「ねえ……星太夫」
「なあに? 夏波ちゃん」
にっこりと笑い、まっすぐに向けられる視線。路面電車で会った時とは大違いだ。
「本当に、私でよかったのかな、って」
「どうしてそんな風に思うの?」
さっきまで、子犬のように人懐こい笑顔を見せていた星太夫の顔が歪む。
「だって、私なんて……」
自嘲気味に言う夏波の横に、星太夫が座った。
「僕の好きな夏波ちゃんを、自分なんて、って言わないで、僕、夏波ちゃんが好きだよ、僕の好きな君を卑下しないでよ」
熱っぽい目で真っ直ぐに見つめられると、視線をはずせなくなる。
「でも、それって……」
近づく星太夫から顔を離すように、夏波は両手を後ろについたが、近づく星太夫の動きの方が早かった。
「こんなに触れたいって思う僕の気持ちを、否定しないでよ」
「それって、単に私の、……その、身体が目当てって事じゃないの?」
「心だって身体の一部でしょう?」
耳が痛くなるほどに、夏波は自分の鼓動を感じていた。
「だって、その、そういう、いやらしい事が目的って事じゃない」
「それはいけない事? 夏波ちゃんは、僕に触れられるのが嫌い?」
「イヤじゃない、……イヤじゃない、けど……」
逃げようとする夏波の腰をとり、星太夫がそっと夏波を畳の上に押し倒した。
「僕ね、夜這いに来たんだよ」
「……もしかして、そうじゃないかな、とは、思ってた」
「え? つまり、それって、僕を受け入れてくれたって事でしょう? 僕をここへ上げてくれたのは、そういう意味では無いの?」
夏波は、否定も肯定もせずに、真っ赤になってそっぽを向いていた。
「……知らないッ!」
少しすねた様子が星太夫のツボに入って、星太夫は我慢ができなくなりそうだった。
「だからね、そんな風にするとき、自分がどんなにかわいいか知らないでしょう」
顔を真っ赤にして星太夫が言う。押し倒したまま、両腕が夏波の顔を閉じ込めるようにしている。
「でも、それだったら、千秋だって」
「でも禁止」
千秋に対して夏波が劣等感を感じているとは思わなかった。逆ならまだわかるけれど、と、星太夫は思ったが、口に出して言ったりはしなかった。
「……ごめんね」
星太夫があやまった。
「……なんで、謝るの?」
うーん、なんでだろう、その、今度話すよ。
星太夫ははぐらかした。
あの時、中学生の時、千秋に服を隠されて、浴衣一枚で泣きそうになりながら、気丈に振舞っていた夏波に、強烈な劣情を覚えたことは、今は言うべきではないと、星太夫は思った。
頬を染めて、身体を隠す姿を、守りたいと思いながら、乱したいとも思った。
その時、初めて星太夫が自分が男で、夏波が女である事に気づいた。
千秋に、好意を持たれている事は星太夫もわかっていたが、どうしても受け入れられなかったのは、千秋がこうと決めた相手に対して見せる、ある主の残酷さを恐れたためだ。
そんな千秋の残酷さを嫌悪しながらも、自分の中にそれと同質のものがある事を忌避し、恐れた。
星太夫が千秋を厭うのは同族嫌悪だ。千秋は、自己愛ゆえに、自分と似たものに惹かれ、星太夫は、自己嫌悪ゆえに自分と似た者から目を背けた。
本当は、君を組み伏せて、啼かせたいって思っているんだよ、夏波ちゃん。
誇り高い夏波を、守りたいと思うのと同じように、狂わせたいとも思う。
ああ、三太郎が千秋に対して感じているのも同じなのか、と、今更に気づいた。
蝶は、己の美しさに気づいているのだろうか。蜘蛛の巣に戒められて、もがいている蝶々。
もしかしたら、星太夫は、その薄酷さを、表に出していたのだろうか。
「……夏波ちゃん、僕が、怖い?」
三太郎は、その残酷さで、じわじわと千秋を犯したのだろう。だが、自分は?
星太夫は、自分自身よりも、千秋に自分のそうした残酷さを気づかれて、畏れられる事を、怖いと思った。
「どうして、そう思うの?」
きょと、と、曇のない瞳で見つめられると、自分がひどく汚らしいもののように思えて、星太夫は胸が締め付けられた。
「僕は、君にひどい事をしてしまうかもしれない、……それが、ひどく怖いんだ」
うさぎと狼が恋をして、うさぎを食べてしまいたいと思いながら、自身の欲望をおさえようとしたときに、こんな感情になるのかもしれない。
星太夫は思った。
「不思議ね、私、星太夫が泣いているみたいに見えた」
夏波が手をのばして、星太夫の頬に触れる。目元から、涙が流れていない事を確かめるようにして、夏波の両手が星太夫の顔をおおった。
星太夫の両腕は、夏波の身体を縫い付けてはいなかった。
夏波は起き上がって、星太夫を抱きしめた。
「……怖くないよ、星太夫、私、あなたが好きよ」
抱きしめられて、思いを告げられて、星太夫の我慢の限界が臨海突破した。
「夏波ちゃんッ!」
星太夫が抱きしめ返すと、夏波がすう、と、意識を失うように眠っていた。
疲れていたのだろう、というのもわかる、けれど、これは、いくらなんでもあんまりだ、と、星太夫は、今度こそ泣きそうになりながら、気を取り直して夏波を布団へ運んだ。
……添い寝くらいは、許されるとおもうんだよね。
そう、ひとりごちて、星太夫は、同衾はしないものの、夏波の眠る布団の横に、その身を横たえた。
「……これも、許されるかな」
夏波の額にそっと唇で触れて、真っ赤になった星太夫はじたばたと暴れだしたい衝動をこらえながら、呼吸を整えて夏波の眠りを見守った。
次に、こんな風に二人きりになれるのがいつの事になるのか、そう思うと、暗澹とした気持ちになるのだけれど、今は寝顔で我慢しよう、と、星太夫は自分を戒めるように両腕を組み、膝を丸めて暴れだしそうになる下半身を鎧うようにして、眠りについた。
眠れる気は、全くしなかったけれど。




