星流楼の若旦那
星太夫は、呆けたように社長室に居た。気持ちとしては、すぐにでも祝言を上げたいところではあったが、そうはならなかった。いや、できなかったのだ。
「では、祝言は、夏波が若女将になった時に」
有無を言わせない様子の母に、星太夫は反論ができなかった。星太夫としても、夏波がそう望んでいて、そのようになった事に対して異議を唱えるわけにはいかず、しぶしぶ諾と返したのだった。
夫婦でないものが、同室になるのはおかしいね、寮長である六曜が言った。だが、今はまだ部屋の用意が整わない、そちらの空きが出次第、夏波にはそちらへ移ってもらうから。
と、にこやかに言われ、完全におあずけを食った形になってしまった星太夫は、残された一日に全てをかける気持ちでいた。
今晩、夜が明けたら、夏波は寮に入ってしまう。男子禁制の女子寮では、おちおち夜這いに行くこともできない。
それがわかっているから、六曜はにやにやとからかうように星太夫を見たのだった。
こんな時に、妙案をさずけてくれる三太郎は未だ戻らない。
鏡に映った自分に気づいて、星太夫は驚いていた。いつの間に自分は仮面が不要になったのだろうか。夏波と共にいたい、そばに居たいと願い、自然に足が外へ出た。より近くに居たいと、自分を見て欲しいと思って仮面を外した。
夏波がいなければ、自分は未だに、仮面で顔を隠し、人前に出ることもできずに、三太郎の影にかくれていたのだと思うと、湧き上がるような心の力は夏波によって呼び起こされたものなのだという事に気付かされる。
腕に抱いた時の、やわらかな感触と、鼻腔をくすぐる芳香を思い出して、星太夫は心が暖かくなっていく事を感じていた。
夏波の事を思い出すと、鼓動が早まり、優しい気持ちになったり、いやらしい気持ちになったりする。……この心の動揺は、他の誰にも感じなかった感情だ。
ややあって、ノックの音がした。
一人で感傷に浸っていたかった星太夫は、あと少し一人でいたいと思っていたが、待たせるのは悪いと思って扉を開けた。
扉の外にいる千秋の姿に、顔を青くした星太夫があわてて扉を閉めたが、その後、けたたましいノックの音にしぶしぶもう一度扉を開けると、外にいたのは千秋一人ではなくて、三太郎も一緒だった。
「お前たち、どこに……」
よく見ると、千秋は罰が悪そうに赤面しており、三太郎の方はどこか満たされた様子だった。
話があるというので、中に通すと、どうにも二人の様子がいつもと違う事に、星太夫は気がついた。
三太郎と千秋が一緒にいるのはいつもの事だが、どこか千秋の方に照れがあり、そんな千秋を三太郎は愛おしくてしょうがないといった様子で、常に互いのどこかしらが触れているのだ。
そう、距離が近い。
前よりもずっと。
茶は不要と三太郎が言うので、三太郎と千秋は、ソファに並んで座り、星太夫がその向いに座る。深く腰掛けて、足を組むと、二人が指先を絡め合っているのが見えた。
「……その、お嬢が、星太夫に言いたい事があると」
なかなか言い出さない千秋に、しびれを切らして三太郎が言った。
「もう、お嬢はやめてって、言ったでしょう?」
何ともねばついた様子の千秋に、星太夫はぞっとしながら、もはや堂々と手を握り合っている二人を交互に見た。
「ああ、そうだった、……フフッ、でも、お嬢、って、呼んで欲しい時もあるくせに」
「……ッ、やだッ、もう、そんな事、人前で言わないでぇ」
二人を取り巻く桃色の気配に、星太夫は少しばかりぞぞぞぞとしたが、しつこく自分を追い回していた千秋が、全く自分に対して関心を持っていない事に少しだけ安堵もした。
「だから、それは、また、後で……ね」
三太郎が千秋の耳元に囁くと、千秋が甘いため息をもらした。
どうしよう、自分はまだこの二人を見続けなくてはならないんだろうか、と、早くもうんざりし始めた星太夫は、じとっとした目で二人に白い視線を向けつつ、さらに椅子にもぐるようにして足をずるずると前に出していく。
「で、その、用件と言うのは……」
腰のあたりが椅子のフチから落ちそうになるのを両手で支えて食い止めながら、星太夫が言うと、やっと星太夫の存在に気づいたのか、千秋があっさりと言った。
「あなたとの縁談、無かった事にして欲しいの」
今!? 今それを言うのか?! と、星太夫は思ったが、千秋の心が変わっても困るので、声に出したりはしなかった。
「え? あ、ああ、そう、わかった、そのようにしよう」
星太夫が答えると、千秋はあっさりと立ち上がり、
「ありがとう! じゃあ、私はこれで」
と、即座に立ち去ろうとした。
すぐに立ち上がった千秋に対して、三太郎はゆっくりと立ち上がり、扉のところまで千秋を送ると、
「おじょ……、っと、千秋、私もすぐに行くから、先に行って待っていてくれるかな」
「えーーー、いやよ、私、あなたと一時も離れていたくない」
「困らせないでおくれ、愛しい人、すぐに戻るから、……ね」
そう、千秋の耳元で囁いて、三太郎は、千秋の方にやさしく口づけた。
「もう、本当に、すぐ来てね」
千秋は、一度頬を膨らませてから、三太郎の首に両腕をからめて、思い切り良く口づけた。三太郎の方も、千秋の腰をとり、長い濃厚な口づけが続く。
三太郎は、もう、目のやり場に困るばかりで、椅子からずり落ちて、床に仰向けになりそうだった。
名残惜しそうに唇を離した二人は、とどめにもう一度軽く唇を重ねて、千秋は三太郎を置いて出て行った。
「……終わったか?」
テーブルの下に入り込みそうな勢いで、仰向けになっている星太夫が、すっかり毒気が抜かれたようにつぶやいた。
「いや、悪い悪い」
先ほどの甘ったるい伊達男ぶりはどこへ行ったのか、ようやくいつもの調子に戻った三太郎が、今度は一人でソファに座った。
「まあ、君も立ちなよ」
星太夫は起き上がり、軽く埃を払ってから、椅子に座り直した。
「……何があった、とは聞かんが……」
「えー、聞いて欲しいなあ、俺が積年の片思いに終止符を打っためくるめく時間について」
「片思い……って、誰が? 誰に?」
「俺が、千秋に」
にっこりと、いつもの悪巧みをしているような笑顔で三太郎が答えた。
「えええええええええええ!!!!!」
驚きのあまり、星太夫が叫んだ。
「あー、やっぱり気づいてなかったか、君も、若旦那の仕事をちゃんと務めるつもりがあるのなら、改めた方がいいよ、その、周囲に関心をもたないところ」
星太夫を指差して三太郎があきれたように言った。
だって、ああいう女は嫌いだと、あんなにはっきりきっぱり言い切っていたでは無いか、と、言おうとして星太夫はやめた。
「どうして! もっと早く言ってくれれば!」
「言ってどうにかなったと思う? 君はともかく、あの千秋が」
我儘で気が強く、思い通りにいかないとすぐに癇癪を起こす千秋の様子を思い浮かべて、星太夫が困惑した顔を作った。
「千秋があんな風なのは、仕方ない部分もあるんだよ、自分は好かれて当然、っていうのが基本にあるからね」
口ではそう言っているものの、三太郎の顔は緩みっぱなしだった。
「それが、完全に敗北、口では認めてないみたいだったけど、打ちひしがれた千秋はもう……」
よだれをたらさんばかりの三太郎に星太夫は食傷気味につぶやいた。
「頼むからやめてくれ、生々しすぎるから」
幼なじみ同士の閨房でのやりとりなど好んで知りたくなどは無い。
「えー、のろけさせてよ、あの、つっぱていた千秋がどんな風にデレたか、かーたーりーたーいー」
「あー、わかったわかった、そのうちな、そして、できればシラフでは無い時に頼む」
愛しい者のかわいらしい様子など、びた一文だれとも共有したくない星太夫は、のろけたがる三太郎の気持ちはいまひとつわからないが、自分を向かないと思っていた相手がふりむいてくれた喜びなら、なんとなくわかった。
「……しかし、結局お前の望んだ通りになったような気がする」
「何だ、今頃気づいたのか」
「今頃って……、ていうか、夏波ちゃんに乱暴狼藉を働かせたのはお前の眷属だったのか、そうだ、思い出したぞ! その一点、彼女を傷つけた点については、許しがたい」
「でも、結局うまくいったでしょう? お嬢、最初は温泉街のゴロつきに声をかけようとしてたんだ、あわてて俺が手配するって止めてなかったら、どうなってたか」
「手段の問題では無い! 彼女が傷ついたかどうかが問題なんだ、……二度とするな」
凄んで言った星太夫を茶化すように三太郎が言った。
「ほっ、君がそんな顔をするようになったとは、夏波ちゃんに感謝だね、ああ、わかった、もう二度としない」
「もし、今度、夏波ちゃんをないがしろにしたり傷つけるような事があったら、お前であっても許さないからな」
それは、星太夫の心からの言葉でもあった。
「ちょっと見ない間に、覚悟が決まったというか、ようやく跡取りの自覚が出てきたというか」
もし、星太夫があのままであったなら、と、三太郎は思う。今回の一件、三太郎の思惑通りに事が運んだというのであれば、それは星太夫が未だ本気を出してなかったからだろう、と。
自分の影に隠れていた、星太夫はもう居なかった。女一人でここまで変わる事ができるという事に、三太郎は驚いていたし、また、自分の方も、千秋をここまで愛おしく思うようになれるとは思わなかった。
最初は、弄んでやろうという思惑の方が強かった。何があっても、星太夫しか見ていない千秋を。千秋は、星太夫自身を見ていないというのに。
星流楼の跡継ぎと縁を繋ごうとしていた父親の影響が、自分の人格形成にどれほど影響を与えていたか、千秋自身は気づいていまい。
そんな心の鎧を一枚ずつ剥いでいった先にあった、愛されたいと願う千秋を、三太郎は、今では心から愛しいと思う。
始めは拒んでいた三太郎の手をとり、その手でもって剥ぎ取られていった鎧と、現れた姿を。愛を乞い続けた千秋に、愛を注ぎたいと思っていた三太郎は、足りないものを補い合って、今は二人とも満たされていた。
星太夫に注ぐべきだと思っていた愛情が枯れたわけではないが、今、星太夫は、庇護すべきものではなくなっている。
ようやく並んで立ち、それぞれの視線で物を見られるようになって、はじめて男同士として、対峙する事ができた事を、三太郎は喜ばしい事だと思っていた。
「これなら、番所の役割もまっとうに務める事ができそうだね」
三太郎が言うと、星太夫はようやくそこで、自分の役割について思い至ったようだった。
「何だ、忘れてたのか、見なおしてソンした、結局君が見ていたのは夏波さんのお尻か」
「ば……、お前っ、何て事を」
「いつまでも色ボケされていても困るからね、そろそろ本腰を入れて、跡目を継ぐ事を考えてもらわないと」
「色ボケって、お前に言われたくはない」
赤面して、星太夫が憤慨している。
「ああ、そうだね、僕の方はもうちょっと溺れる事にしよう、じゃあ、また明日、今夜の月はどうかなあ、夜這い日和だといいねえ」
挑発するような言葉を吐いて、三太郎は足を弾ませながら部屋を出て行った。千秋の元へ行くために。
「……夜這い、って……」
三太郎に言われて、星太夫はまた、思い出してしまった。
そう、本当に、何かするなら、今夜をのぞいて、他は無いのだ。




