ジジイとババアと引きこもり
こう、と、決めてからの六曜は素早かった。
夏波と源次郎へ指示を出し、星太夫さえ顎でこき使う。
救いといえば、六曜は指示を出したきりにはせず、自分から動くという事だろうか。
源次郎は、筆耕係の元へ行ったきり、星太夫はたった一人で番所へ行かされた。星流楼以外の六つの宿へ仁義を通す必要がある。
「本当は、あんたも一緒に行ってもらいたいところだったんだけど」
急こしらえのビラは、筆耕室にある輪転機で刷ったものだ。
ゆかずち温泉駅から降りてくる客達に、にこやかにビラを配りながら、六曜が隙を見て夏波に言った。
「ま、それは正式に若女将になってからね」
そのように不敵に笑うと、六曜はぞっとするほど美しい。夏波は、六曜を敵に回すことにならなくて本当に良かった、と、思いながら、胸中は複雑だった。
ビラを配るのは、単純に楽しかった。以前バイトでやった時と違って、皆、興味深そうに手にとって、これは何事かと聞いてくれる。
明日なのですが、と、言うと、なかなかできる事では無いと、皆いっそう目を輝かせてくれる。
「はい、それでは、ご参加いただける方はこちらにご記名を」
六曜がすかさず台帳を取り出すと、気の早い者は早いものがちと我先に記名してくれた。
「皆、存外物見高い、まあ、なかなかできる事ではないからね」
愉快そうに六曜が言うと、
「どうしていままではやらなかったんですか?」
これほど好評なら、もっと早くやったってよかったのではと夏波が尋ねる。
「ここの連中は『新しい事』を嫌がるからね、変わらないこと、変化の無い事を尊ぶ、しかし、あんたはユキヒトだから」
留まらず、通り過ぎる者。
通り過ぎるはずが、留まる事になるかもしれない者。
どうにも夏波の立場は中途半端で収まりが悪い。
けれど、その中途半端さ、宙ぶらりんなのは、夏波自身の気持ちと同様だった。
本当に、それでいいのだろうか。
星太夫に嫁ぎ、ここへ留まるという事へ、全く不安が無いと言えば嘘になる。
しかし、もう、計画は進み、動き出してしまっている。
今、受け付けてしまった客達を、がっかりさせるわけにはいかないのだ。
振り切るようにして、夏波は笑顔でビラを配り続けた。
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ゆかずち温泉番所で、星太夫は緊張のあまり固まっていた。
「どうぞ、お楽に」
茶を入れてくれたのは、今年の正名主である『雪輝荘』から派遣されている者だ。以前挨拶をして、名前は聞いたはずだが、星太夫はどうしても思い出せない。
小柄な、人懐こい、童顔だが、星太夫よりも歳は上のはずだ。
「あ、ありがとうございます、イただきます」
一部、声が裏返った星太夫に何か言うでなく、淡々と対応する様子が手馴れていた。
星太夫は、緊張のあまり手をふるわせながら、茶托から湯のみをとって一口飲んだ。
外はまだ暑い、冷たい茶の方がよいかとも思ったが、その茶は温かく、すっと喉を通った。飲んでみて思ったが、絶妙な温度である事に星太夫は気づいた。
なかなかどうして、只者では無いように見受けられる。
しかも、本丸の宿の方ではなく、一年間持ち回りの正名主の間だけの勤めに出されているという事は、同じような事ができる者が、雪輝荘にはざらにいるという事だ。
星流楼はどうだろう、と、星太夫は思った。
そして、今、対面している者の名がわからないのと同様に、自分は星流楼の者達全てに目を配れていただろうかと、今更ながらに思い至った。
雑事は全て三太郎が片付けてくれていた。
しかし、それでよかったのだろうか。
三太郎がいてくれたおかげで、星太夫は心置きなく自分の世界に引きこもっている事ができた。
今になって気がつく。
それは、果たして自分の為だったのだろうかと。
三太郎は、物心ついた時から側にいて、まさに兄のように、時に助け、かばい、引き立ててくれていた。千秋を恐れるあまりに、人との関わりを避けるようになったときも、好きなだけ引きこもっていてかまわないと言ってくれたのも三太郎だった。
そんな星太夫を部屋から叩きだして、作法一切を教えてくれたのが六曜であり、若旦那たるもの、全ての仕事を把握しなければならんと、ボイラー室でこき使ってくれたのが源次郎だった。
今、ここに至って、星太夫は思う。
夏波をもてなすことができたのは、六曜の仕込みのおかげではなかっただろうか。
夏波と千秋が若女将の座を巡って争うにあたり、源次郎にボイラー室の事、湯引きの事を仕込まれていなかったら、自分はどうなっていたのだろうかと。
やさしげな三太郎の顔が浮かぶ。
いつも笑顔で、星太夫を助けてくれた三太郎は、しかし、星太夫にとって何をしてくれただろうか。
手代の職分を超えるほどの量をてきぱきとこなす三太郎がいなくなれば、星流楼は立ちゆかなくなる。
だが、もし居なくなるのが自分だったなら。
唐突に、思い当たった怖い考えを、星太夫は一旦棚上げして、今は、自分がしなくてはならない事に集中する事にした。
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行灯とは、通常、和紙などで光源を囲み、風で光源が消えないようにした昔ながらの照明器具を言うが、星流楼の裏方では、もう一つ意味があった。
筆耕室、それは、旅館内の印刷物を含め、書物にまつわる一切を行う部署で、ボイラー室の一階上の半地下にある。例外的に、料理の品書きは料理長が行うが、それ以外の、玄関看板や、宴会場への案内、中でも、『アンドン』と呼ばれる、宴会場に張り出す大書きは、集中力と広いスペースを必要とする為、無駄に広く、そして静かだった。
筆耕室の主が集中して筆を滑らせている横で、源次郎は無言で備品庫から出した備品類をまとめていた。
筆耕係の八重が、筆を置き、息をついたところで、源次郎に声をかけた。
「本当に、いいんですか? それ、お蔵入しちゃったやつですけど」
八重は、ふくふくした柔らかな手で道具を片付けながら、続けた。
「まあ、私は、使ってもらえればそれはそれでありがたいですけど」
「ああ、蔵入りといっても、誇り臭くもなってないし、色も落ちてねえ、充分だ」
「結局、人は集まりそうなんですか?」
道具を片付け終わった八重が、源次郎を手伝い始めた。
「それは、六曜と、ほら、夏波がな」
「夏波ってのが、若旦那が連れてきた嫁候補ですか」
「おう、ちい坊と違って、根性座ってそうだぞ、あの娘は」
「源爺に気に入られたって事は、なかなかの女傑のようですね」
色白な頬がやわらかく微笑む。黙々と文字ばかり書いている八重だが、客前に出るのが嫌なわけでは無い。ただひたすらに、己の手と体を操り、文字を書く事に『のみ』傾倒している為、文字を書いている間、集中している間は、無言、無表情になり、邪魔をされると容赦ない舌鋒で一刀両断にする『だけ』だ。
愉快そうに八重が言うと、源次郎が答えて言った。
「俺だけじゃねえぞ、六曜も味方につけた」
源次郎の言葉に、八重はすこしばかり驚いた様子をみせた。
「それは、……ちょっと興味がわきました」
八重は、六曜ほどでは無いが、星流楼では古株だ。六曜の人となりも、過去も、それなりに知っている。
「お前はどうするんだ、八重、今となっちゃあ、夏波とちぃ坊の若女将合戦は、旧勢力と新勢力の跡目争いみてぇな事になってるぞ」
源次郎は、全て万端整えたところで、荷物をひとまとめに台車に載せた。
「私は、そういうのには巻き込まれたくないですねえ、特に後を譲る弟子もおりませんし、だいたい、私のやっている事は、もう機械でやったっていいんですから」
筆耕室には、輪転機の他、印刷に必要な機材は一通り揃っている。先ほど八重が書き終えたアンドンすらも、機械で作る事はできる。
「代が替わって、お役ゴメンになったらなったで、その時は『向こう側』へゆくだけですよ」
特にこだわりも未練も無いような様子で八重は言う。
「お前は、本当にこだわりがねえなあ」
あきれた風でもなく、感想として源次郎が言った。
「私は、この場、そのものに未練があるわけではないですからね、紙と筆があって、必要な文字を書ければそれでいいんですよ、源爺みたいに、この湯、この釜に愛着するのとは違いますから」
「でも、書家になりたいわけじゃねえんだろ?」
「目的の無い文字を書いて紙を無駄にするのが嫌いなんですよ」
「目的が無いって……俺にはわからねえが、あれはあれで芸術ってやつなんじゃねぇか?」
「そういう、定義の曖昧なもので禄をいただくのが好きじゃないんです、さあ、無駄口を叩いている時間はないんでしょう、後他に、いるものは無いんですか?」
「いや、これで大丈夫だ」
出庫台帳に源次郎が綴り終えると、八重は納得したように次の書に戻った。




