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千秋と三太郎

 千秋は、たいそうな剣幕でエレベーターまでどすどすと歩き、乱暴にボタンを押した。


 従業員用の通路を使って下さいと三太郎がいさめたものの、だって私はこの宿の雇われ人ではないもの。と、頬をふくらませるのだ。


 三太郎は、先ほどの、まるで次代の若女将ぶっていたのはポーズだったか、と、半ばあきれたように後を着いて行った。


 千秋の出自を知っている者は、案外多いのだ。


 『表』の者達で『裏』の存在を知っている者は少ないが、『裏』の者達は『表』の存在を知っている。


 千秋が、『表』の大きなホテルの娘であり、当代の許嫁と知っている者からすれば、次代の若女将候補のふるまいがどう映るか。手代としては見過ごすわけにはいかなかった。


 上客相手に礼を失したふるまいがあってはならない。


「……だいたい、なんであの女がここにいるわけ?」


 忌々しそうに千秋が爪を噛む。


「彼女はユキヒトです、偶然電車で乗り合わせたんです、車掌に番所に連れて行くよう頼まれたんですよ」


「じゃあとっとと連れていけばよかったでしょう? もう夜よ?」


「夜だからですよ、どのみち、我々が彼女に会ったのは日が傾きかけた黄昏時、連れて帰るしかありませんでした」


 三太郎は、連れて来て泊める他無かった事を千秋に説明した。


 既に、夏波とは、しばらく星流楼で働く算段になっている事は敢えて口にしなかった。


 今晩泊めるだけでもこの怒りようなのであれば、千秋があばれて手がつけられなくなるだろう事は、容易に想像する事ができた。


 それにしても、と、三太郎は思う。


 若旦那、星太夫が許嫁の千秋と距離をとりたがっていた事は薄々予想していたが、その理由が……と、予想がついたからだ。


 夏波が今、この時期に、『裏』ゆかずち温泉に迷い込んだのは、どんな天の配財か。


 と、すら思った。


 であれば、星太夫が夏波を番所に連れて行く事を妨害しようとした事にも納得がいった。


 星太夫は、めったに我を通すところはなく、千秋と足して二つに分ければちょうどよかろう、と、常々三太郎は思っていた。


 お嬢様として、わがままに育ち、およそ客商売には向かない千秋を、どうやって調教、もとい、教育すべきか、現女将である星太夫の母と、綿密に打ち合わせなくはなるまい、とも。


 今回の一件は、星太夫にとって、よい方向に持っていけそうな気がしてならない。


 まず、星太夫が、思い人と添い遂げたいと願い、それが成就した場合。


 夏波は、少なくとも千秋より、よほど扱いやすそうだ。そうなると、千秋の始末をどうつけるかだけれど、三太郎の倫理観は、星流楼の維持が第一なのだ。


 『表』の娘が一人見当たらなくなったとしても、別段困る事は無い。


 それと同様に、夏波が星太夫にほだされなかった場合も同様だった。


 千秋ほどに我の強くない娘である夏波ならば、それこそなんとでもなるだろう。


 星太夫が、夏波を必要としない場合は、改めて千秋をどうにかすればよいわけで、それは当初からの想定で、問題無い。夏波を番所に届け、『表』に帰してそこで終わる。


 万が一、星太夫が、やはり千秋を、と、言い出したならば、夏波に協力を頼んで、一時二人を競い合わせるのも悪くは無い。


 千秋の性格から言って、好敵手が見える形で存在した方が、対象が一人にしぼられて、意識を向けやすい。


 夏波に負けまいとするあまり、三太郎に操られていると気づかないまま、女将としてそれなりの形になるかもしれない。


 少なくとも、世間と没交渉気味の若旦那と、気が強くて接客に向かない若女将の目を覚ますために、夏波は有効に動いてくれそうな存在だった。


 誰の配材か、ともあれ、この展開は、三太郎にとって、たいそう好都合であるといえた。


 問題は、どう話を持って行くかだった。


 全うに、夏波と千秋を次期若女将として競わせるには、根回しの時間が足りなさすぎる。


 下手をすると、千秋が、表の世界の住人としては、少々過激な方法で夏波を排除しようと動きかねない、それはまずい。


 『裏』の世界に『表』の世界の法律は適用されない。


 つまりは、こちらがわで千秋は夏波にやりたい放題できるという事だ。もちろん、『表』の世界の、一旅館の娘にすぎない千秋にそこまでの権限は無いが、星流楼の名を出せば、手を貸す有象無象の類いは存在する。


 そうなると、少しばかりやっかいだった。


 千秋の目を夏波に向かわせず、なおかつ対峙させるにはどうしたらよいのか。


 三太郎が少し思案していると、千秋は千秋で別の事を考えていた。


 三太郎は、どうも何かを隠しているような気がする、と。


 女の勘なのか、鼻がきくのか、三太郎は、中々本心を明かさない事に、千秋は気づいていた。


 けれど、そんな風に、三太郎については薄々わかるのに、意中の相手である星太夫についてはわからない。


 幼い頃から、せいちゃんは千秋の王子様だった。


 顔も、声も、しぐさも。


 大好きな王子様のお嫁さんになれるとわかって、千秋はいつもせいちゃんと一緒にいた。


 千秋がどれほど追いかけても、せいちゃんは歩みを止めてはくれない。


 振り向いてもくれない。


 千秋が、せいちゃんの速さに追いつくようにして、並んで歩く事しかできなかった。


 けれど、決定的な拒絶はされないのだ。


 星太夫は、誰とも親しくならないし、嫌な相手は拒絶する。


 千秋は、立ち止まってはもらえないものの、振り返って拒絶された事は無かったのだ。


 先へ行って、振り向いて手をさしのべてくれる事はしない。


 けれど、着いてくるなと、拒まれた事は無いのだ。


 これは、星太夫としては、かなりの譲歩と言える。


 だから、千秋はあきらめない。


 振り向いてくれなくても、手を差し伸べてくれなくても、同じ速さで並んでついて行くことを拒まれないという事は、方角は違えてはいないのだ。


 だから、千秋は、星太夫を追うことを辞めない。あきらめない。


 はっきりと拒絶の言葉を投げつけられるまでは。


 たとえば、星太夫の歩む先に、千秋では無い別の女がいたとして、その時自分はどうするのだろう。


 千秋は思う。


 生まれて物心がついて、添い遂げる相手は星太夫と決めた千秋にとって、星太夫は生きている目的そのものと言えた。


 少し遅れて追いかけるという自分の居場所が奪われた時に、どうなるか、それは、千秋にもまだわからなかった。

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