星流楼の若女将には誰がなる?
星流楼地下、ボイラー室。
ゆかずち温泉の源泉は、ゆかずち山中腹、ゆかずち神社より湧き出ている。階段に沿って、七つの宿に分岐する引き湯に流れるのは、赤銅の湯と言われ、湯の中の鉄分が参加して赤く見えるとも、かつては、富士の鬼と争ったという、ゆかずち山の鬼の流した血であるとも呼ばれている。
各宿へ引き入れられた湯は、加温、循環するための設備と、各客室用の沸かし湯の為の設備が備わり、どの宿にも、湯守や、設備長、ボイラー長といった専任の部門がある。
星流楼の設備長は、若旦那に先駆けて代替わりしたばかりなのだが、すでに代を譲ったにも関わらず、先代が出張る事が多く、地下では常に、先代である父と、当代である息子の言い合いが繰り広げられていた。
「誰だ、湯口を閉めた奴は!」
配管を乱暴に叩きながら叫ぶのが先代、設備長と呼ばないと未だに怒る、源次郎。
「配管を乱暴に扱うんじゃねえ、親父、今日は客が少ないんだ、湯殿を閉めて点検してんだよ、台帳に書いてあるだろうが、ちゃんと読みやがれ」
先代に対して一歩も引く様子が無いのが当代の藤五郎。
二人共、長身でいかつく、父の源次郎はごま塩頭で、息子の藤五郎は大柄で力士のようだった。
「客、じゃねえ、お客様だ、そういう、不遜な態度はなあ、ボイラー室からだってキッチリ伝わるもんだ、ったくおめえはいつになったらボイラー室の心構えの基本を身につけるんだ」
湯口の件で一本とられた事がくやしいのか、源次郎は斜め上の方から藤五郎を攻撃してくる。その言いようからわかるように、これは『指導』では無く、因縁をつけるためにやっているという事を、藤五郎もわきまえていた。
しかし、斜め上からでも、父の言う事に一部の理がある事を認めたのか、藤五郎もそれについては言い返さない。
けれど、二人が腕を組んですごむのは、体が大きいだけあって、それだけで迫力があり、他者の介入を阻む空気を作り出す。
心臓に悪いのでやめて欲しい、と、小僧の六助は思うのだが、そんな事を言おうものなら、先代と当代、そろってどやされそうなので、黙って二人の間に立って、二人の顔色をうかがうくらいしかできない。
「設備長、湯口を閉めたのは俺です、おしかりは俺が……」
たまりかねて六助が言うと、
「黙ってろ、六助、閉めろと言ったのは俺だ、お前は悪くねえ」
藤五郎が六助をかばうように言えば、
「おう、てめえか、六助、こんな若造の言うことを聞く必要なんざねえ、これは違うって事があったら俺に相談しろ」
一応、女将からは、設備長はもう藤五郎なのだから、藤五郎の言う事を聞くように言われている六助だ。こればっかりは、一から仕事を教えてくれた源次郎相手でも、曲げるわけにはいかず、ほとほと困っているようだ。
「親父、そうやって六助を振り回すなよ、もう女将からも、六助は俺の指示に従うよう言われてるんだ、親父の言うことを優先させたら、女将をないがしろにする事になっちまうだろうが」
女将を引き合いに出されると源次郎は弱い。
しかし、表向き、女将をたててはいるものの、自分のやりたいようにやるという姿勢は曲げない。
そして、藤五郎は藤五郎で、父の居場所をうばうつもりはないのだが、父のやり方では、効率の悪い部分もあり、改めたいと考えていた。
代替わりの今、ボイラー室の主導権、ひいては、星流楼設備長としての立場を固めておかなくてはならない。引くわけにはいかないのだ。
睨み合う二人に、割って入ってきたのは、手代の三太郎だった。
「はいはい、そこまで、源さん、女将から隠居しろって言われてンだろう、ここは当代にまかせてもらわないと」
にこやかな三太郎は、仕事もできて、ボイラー室の者をたててくれる。藤五郎は三太郎を信頼していたし、三太郎もまたしかり。源次郎も、三太郎の仕事ぶりを認めてはいるものの、やはり帳場は帳場で世代交代をしたばかり。
源次郎から見れば、三太郎もそうした若造どもの一人にすぎなかった。
「今日の差配は藤五郎が各部署へ根回しした上でやっている事、他の部門と話のついているところを、先代がしゃしゃりでてきて、俺は聞いてねえ、じゃあ、示しがつきませんよ? たとえば、調理場とか」
現状、星流楼では、ほとんどの部署で代替わりを終えているのだが、調理場だけが、唯一代が変わらず、料理長は変わらず務めている。
料理長の清次郎は源次郎に輪をかけて頑固で聞き分けが悪い。しかも、次代を担う予定の清三は、藤五郎とは比べ物にならないほど押しが弱く、父に対して強く出られない。
ボイラー室の確執と、調理場の代替わりは、目下、若旦那、星太夫の縁談以上に三太郎にとっては悩みの種だが、そんな三太郎の苦心を知ってか知らずか、源次郎は勝手な事をほざいた。
「調理場のタコ入道とボイラー室を一緒にされちゃあ困る、あのハゲ、未だに息子に料理長を譲りやがらねえあんな頑固爺と、俺を一緒にしないでくれよ」
えええっ、と、六助、三太郎、藤五郎の三人が、華麗に自分の事を棚上げする源次郎にあきれたように白眼を向けたが、当の源次郎はどこ吹く風。
「だから、その清さんにも藤五郎は話をつけたんだよ、それを源爺がまぜっかえしたんじゃあ、なんだ、ボイラー室は、てめえらの考えもまとまらねえのかと笑われるのがオチですよ」
源次郎と清次郎は、互いに嫌い合っているが、同族嫌悪なのか、実はソックリなのだ。藤五郎曰く、
「清次郎さんは言うても他人ですからね、一応こう、相手をたてようとしてくれますが、うちの爺は身内だけあって遠慮が無い、少なくとも、俺は親父にどうこう説明するより清次郎さんを頼る方がラクですよ」
という事らしい。清次郎は清次郎で嫌い合っている源次郎の息子が、自分に対して下手に出てくれるのが心地よいのか、同じ案件でも、源次郎から言うより、藤五郎から言われる方が聞き分けがよい。
三太郎からしてみたら、併せて扱いにくいクソジジイ共ではあるものの、二人そろって女将に心酔してくれているおかげで、なんとか裏方としては機能していた。
これで、若旦那が嫁をとって、若女将がきた日には、どんな事になるのか、考えると三太郎は頭が痛かった。
「じゃあ、これでいいですか、源さん、俺は湯引きの相談に来たんだけどね」
源次郎が納得したので、ようやく三太郎はボイラー室に来た目的を話始めた。
--
夏波は、結局ベッドを使う事にした。
星太夫がはりきって、和室の方へ床をのべると言い張ったものの、和室側の内装は、美しいものの、そこはかとなく淫靡な雰囲気があり、ドラマや映画で見た遊郭のようで、そこで休む気になれなかったのだ。
ドアで区切られた方の洋室は、和室に比べれば簡素で(とはいっても、絨毯や調度類は値打ち物に見えた)、まだいくらかマシだったからだ。
床の準備もでき、後は風呂に入って休むだけ、と、なったところで、夏波は困惑した。
星太夫が出て行かないからだ。
せっかくの温泉だったが、なれない場所の大浴場へ行く気になれず、部屋から出て、千秋に出くわすのも嫌だった夏波は、部屋に備え付けられた風呂を使う事に決めていた。部屋には、ユニットバスもついているのだが、それとは別に、半露天の風呂があった。ベランダと思われるところに出ると、陶器の湯船にこんこんと温が注がれている。
注がれる湯は、温泉らしい独特の赤みがかった色の湯が注がれ、温泉情緒は充分味わえそうだった。
……星太夫の存在を除けば。
夏波としては、一人にして欲しいのだけれど、そう言うと、星太夫は心配だからと言って譲らない。
「何も、一緒に湯につかろうと言っているわけでは無い、しかし、本日この時より、貴女は私の許嫁、次代の若女将候補なのだから」
「ふりね! 若女将候補の『ふり』だけだから!」
そう言って、何度否定しても、星太夫はあきらめなかった。
確かに、入浴中に立ち入るような真似はしなかったが、入り口で門番よろしく仁王立ちになられたのは閉口した。
もういっそ、入浴はあきらめようかとも思ったけれど、客室付き露天風呂の魅力にはあらがえず、夏波は服を脱ぐことにした。
ご丁寧に、浴室には誰が用意したのか、浴衣と、替えの下着まであった。
話はしていないが、星流楼には、女性とおぼしき中居も見かけたので、夏波はそのうちの誰かが用意してくれたものだと自分を納得させて、湯を使った。
残念ながらシャワーはついていないものの、陶器の浴槽に注ぎ込む温泉とは別に、水道の蛇口があり、そこからは湯と水が使えたので、体を洗い、陶器の浴槽に身を沈ませると、夏波ははじめて心から安らげている事に気づいた。
今、ここにいる場所が、夏波の知っている地図に載っていない場所だったとしても、目に映る景色の鮮やかさ、肌をすべるなめらかな湯の感触には、覚えがあった。
父と母、弟は心配しているだろうか、ふと、夏波は思った。車で出て行ったきり、夕食にも戻らない娘を、さすがに心配しているのでは無いかと考えたのだ。
せめて一言、伝える事ができたなら。
事故などでは無く、ゆかずち温泉で少々やっかい事にまきこまれ、宿泊する事になった事だけでも、何とか伝えられはしまいかと。
父はともかく、母は心配しているかもしれない、弟は、車が無くて不便を強いられているかも知れない。
そう思うと、夏波はいたたまれなくなり、思わず涙がこぼれ落ちた。
「え……嘘……」
なれない場所にたった一人でいる事で、気持ちが昂ぶったせいか、自分が涙を流している事に、夏波自身が驚いていた。
そうなると、次から次へと涙があふれでてきて、止まらなくなってしまう。
「ふっ……うッ……」
涙をぬぐわなくては、と、思ったところで、夏波は驚いて一瞬息が止まった。
陶器の浴槽のすぐそばに、星太夫がいた。
「ッッッ!」
いつの間に! と、痴漢にでも遭遇した気持ちで、夏波が湯おけでお湯を汲み、星太夫にかけてやろうとすると、
「すッ、すまない!」
あわてて星太夫が夏波から背を向けた。
「のぞき見や、不埒な真似をするつもりじゃない、……泣いている、ような、声が、した、……から」
背中を向けた星太夫の耳は赤く、本人も思わず心配で立ち入って来たのだという事がわかり、夏波も、身を隠すように頭だけ出して、浴槽に身を沈めた。
「ごめんなさい、その、心配、かけたかな、……その、父や母、家に、連絡をしないと、心配していると思ったから……」
「ああ、そうか、そういえば、確かに、では、湯からあがったら連絡するといい」
事も無げに、星太夫が言った。
「連絡……できるの?」
ここは異世界では無いのだろうか、と、夏波は思っていた。けれど、よく考えたら、番所から『帰る』事もできるというし、そもそも、千秋は『表』側の人間のはずだ。
「誰もができるわけではないが、星流楼を含めた七つの宿は、表の宿と表裏一体、表の宿を経由して、連絡をとる事はできる、……電話になるが」
「ううん、充分だよ、よかった、ありがとう、助かる」
夏波が、うれしそうに言うと、気が済んだ事がわかったのか、星太夫は浴室から出て行った。去り際に、
「他にも、何か困っている事があったら、言ってくれ」
そう言い残して。
夏波にしてみれば、星太夫は幼い頃数度遊んだだけの存在だった。
けれど、思いやりや、丁重に扱われる事は心地よい。
夏波は、このように大切にされたり、配慮された事があっただろうか、と、うれしい気持ちになっていた。
--
風呂から出て、新しい下着(それは少しデザインは古いものの、ひどく古臭いという感じではなく、むしろクラシックで、素材については、夏波が日頃つけているものより、よほど上等だった)と、浴衣に着替えると、星太夫がゆあがりに麦茶を入れてくれた。
冷えすぎず、ぬるすぎない、絶妙な温度設定が、火照った体を適度に冷やしてくれる。
アイスキャンディーの用意もあると言われたが、家に連絡できる事がわかった夏波は、すぐに連絡をとる事の方を望んだ。
星太夫が渡してくれたのは、スマホだった。
「これは、僕ので、君にあげるわけにはいかないけど、これなら、向こうと連絡がとれるから」
そう言われて、夏波が実家の電話番号を伝えると、星太夫は一度どこかへ電話をし、番号を伝え、転送しているような様子を見せた。
「このまま少し待ってもらえれば、つながるから」
そう言われて、夏波が星太夫のスマホに耳をあてると、聞き慣れた呼び出し音が鳴って、ほどなくして母が出た。
「はい、中川です」
「ああ、お母さん?」
「やだ、あんた、今どこにいるの? 帰ってこないから心配してたんだから、電話しても圏外みたいだし……」
「あー、ゴメン、ちょっと、友達に会っちゃって……その、友達の家に今いるんだ」
「もう、それならそれと連絡してくれればよかったのに」
母は、心配半分、連絡がとれて安心半分という様子だった。
「あー、それで、ちょっと何日か、こちらにお世話になる事になっちゃったんだけど、バイトの人手が足りないらしくて」
「ええ、そんな、急に……」
母は、夏波の突然の申し出に困惑しているようだが、しどろもどろで説明しているうちに、なんとか納得してくれたらしい。
「あとゴメン、車なんだけど……」
「ああ、しばらくは使う用事はないみたい、お父さんの車を使うから、そっちは大丈夫みたいよ」
弟の車の方は、このまま借りておいてもよさそうだった。けれど、そうなると、乗り捨てておいたのでは具合が悪い、なんとかしてとりに戻らなくては、と、夏波は思った。
家に連絡を入れる事ができて、夏波はほっとして、ソファに身を沈めた。
「助かったー、ありがとう」
素直に礼を言うと、星太夫の方は照れたように苦笑した。
「さて、そうとなったら、明日からは、作戦開始って事ね、私はどうしたらいい?」
お礼とばかりに張り切って夏波が言うと、
「それは、明日にしよう、疲れたし、ようやくほっとしたのでは?」
星太夫にそう言われると、確かに、入浴した事もあって、睡魔による引力を夏波は感じ始めていた。
「明日の朝食までは、この部屋が使えるから、今のうちに休んでおいた方がいい」
星太夫に言われて、夏波は素直にその言葉に従う事にした。
「ありがとう、じゃあ、お言葉に甘えて、休ませてもらうね」
そして、洋室に入り、ベッドに倒れこむと、そのまま力尽きたように動けなくなってしまった。
用心の為に、扉に鍵をかけようと、最初は思っていたけれど、扉の向こうに星太夫がいてくれる事で、安心こそすれ、何か害される不安は、いつの間にか無くなっていた。
なんか、現金だなあ、我ながら。
眠い頭でぼんやりと考えながら、夏波は、二つ並んだベッドの片方で、ゆっくりと眠りに落ちていった。
部屋の明かりが、いつの間にか星太夫によって消された事に気づかないほど、その眠りは深く、やすらかなものだった。
そして、朝。すっきりと目が覚めたものの、見慣れない天井に、まず夏波は驚いた。
そして、じわじわと昨夜の出来事を思い出して、起き上がった。慣れない浴衣を着て寝たせいか、片方の乳房が露出している。
ノックの音に、併せて襟を整えて、答えると、わずかに扉が開いて、星太夫の声がした。
それは、朝食を知らせる声だった。
扉を開いて中の様子を確かめないのは、星太夫の配慮だろうか、夏波は急に恥ずかしくなって、少しうわずった声で返事をしてから、身支度を整えて寝室を出た。
リビングのテーブルには、すでに朝食が並んでいた。部屋の作りから考えて、洋食が出てくるのかと思ったが、並んでいたのは和食だった。
粥と、香の物各種。焼き魚に煮物、味噌汁と、どれも温かそうで、空腹を刺激するよい香りがした。
こうしていると、高級温泉旅館での一泊としか思えず、もしそうなら、いくら請求されるのだろうかと、夏波は少し恐ろしくなったが、空腹の前には、頭も働かず、素直にいただく事にした。
「……昨夜の話だけど」
星太夫に、そう切り出されて、夏波は一瞬、何だったろうと思い返す。
「私の婚約者になるという……」
そう言われて、夏波は真っ赤になって否定した。
「ふりね、ふりだけ」
夏波がムキになって言い返すと、星太夫は、わずかに残念そうな顔をして、答えた。
「ああ、そう、婚約者の『ふり』の話」
--
「まあまあまあまあ、お似合いですね~」
高い声で大げさに喜ぶ女は、星流楼の美容室の者だという。
朝食を終えてから、夏波は直接二階にある美容室へ連れてこられた。周囲を見ると、かつらや、婚礼衣装なども陳列されている。装束も、和服の割合が多い事を除けば、『表』の美容室、というよりも、結婚式場に近いけれど、と、あまり変わりが無い。
強いて言うなら、高い声の女が、歯を真っ黒に塗っている事くらいだろうか、見慣れないのは。
お歯黒をつけている他は、どこにでもいるおばさんといった風情のその女が、やけに媚びたような声をあげるのは、すぐ側に星太夫がいるせいだろうか、と、夏波は、近くに控えている星太夫をちらりと見た。
星太夫は星太夫で、スイートルームで見せた執事然とした装いでは無く、路面電車で会った時のような顔半分を覆う仮面をつけていた。
オールバックにしていた前髪もおろしていて、表情がわからない……はずなのに、不思議と、夏波は前に比べて星太夫の考えがわかるような気がしていた。
今も、用意された着物を着せられて、お似合いですね、などとお追従を言われている夏波を見て、どこかうれしそうに見えていた。
……もしかしたら、それは、夏波の欲目なのかもしれない、そう思っていて欲しい、という感情が見せている幻なのかもしれない。
それは、夏の着物だった。肌触りといい、色味といい、星流楼の中は暑くは無いが、外は夏の日差しで、星流楼の外はさぞかし暑いのだろうと思うのだけれど、中は空調が効いているようだ。
「行こう」
星太夫からは、結局、「似合う」とも、「似合わない」とも、言葉は無く、すこしばかり残念に思いながら、夏波は星太夫の後をついて行った。
--
そこは、広々とした宴会場だった。赤いカーペットの模様は、主張が激しく、天井から吊り下がるシャンデリアは、金色の雨のよう。
見たことはないけれど、昭和な感じだと夏波は思った。
円卓がひとつ置かれ、白いテーブルクロスがかかり、すでに先に着席していた数名の中で、千秋と三太郎は知った顔だったが、あと二人、知らない顔がいた。
一人は、夏波同様、夏向きの着物らしい、下に着た白い着物がわざと透けるようになった黒い着物をきりりと着こなした妙齢の女性で、もう一人は、作業着を着た大柄の青年だ。
青年の方は日に焼けており、いかにも肉体労働者といった風情だった。
千秋の方も、着物姿で、青い色味の夏波と異なり、千秋は、緑色だった。
千秋は、いきなり夏波に食って掛かってくるような事は無かったが、鬼の形相で夏波を睨みつけた。
もしこの場が、千秋と夏波の二人だけだったら、間違いなく掴みかかってくるような様子で、夏波は一瞬足をすくませ、星太夫の影に隠れたい気持ちになったが、どちらかというと夏波の影に隠れがちに立っているのは星太夫の方だった。
千秋は、夏波に強い視線を送りつつも、一瞬視線を外すと、おどろくほど甘えたような顔になり、その後もう一度、最初に送られたものよりも、いっそう憎らしそうな視線を送る、その表情の変化がおもしろくて、一瞬夏波がわずかに背伸びをして、星太夫の方へ向けた千秋の視線と合うと、千秋はきまり悪そうに視線をはずした。
そして、そんなやりとりを見ていた妙齢の女性が思い切り声をあげて笑い出した。
「何だい、この娘達、知り合いだったのかい」
上品な見た目に反して、その声は豪快だった。
「どうやらやる気満々らしいのはわかったから、その娘を連れて、こちらへお座り、星太夫」
どこか鉄火肌な姉御のようなその女性こそが、星太夫の母であり、星流楼の女将だった。




