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第九章

 ピッチャーの交代を告げる、ウグイス嬢の声が響き渡る。俺の名が呼ばれた時、遂にこの場所に帰ってきたのだという実感が湧き上がってきた。グランドを揺らすような歓声の中で、自らの鼓動が高鳴るのがわかる。待ちわびた瞬間だった。

 燃えるような照明の灯を一身に浴びながら、マウンドへと駆けていく。その時確かに、夜空を貫く彼女の声が聞こえてきた。

「光司ー! あんたのピッチング、見せてもらうわよー!」

 振り返れば、スタンドで美波が手を振っている。約束通り来てくれたようだった。彼女の視線が、いい感じにプレッシャーとなっている。俺の投球が見たいと言ってくれた彼女に、情けない姿を見せるわけにはいかない。

 思えば、全ては美波のおかげだった。彼女と出会って、出口の見えなかったトンネルに明かりが射した。彼女は、野球ばかりで余裕を失っていた俺の心を解きほぐしてくれた。俺をマウンドに導いてくれたのは、俺自身でも、他の誰でもなく、美波なのだ。

 かつての俺は、験を担いだり、神に祈ったりする投手を見ては、心の中で笑っていた。実力があれば、そんなことをする必要などないと思っていたのだ。

 けれど、今ならわかる。他の選手がそうして心の支えを求めるように、いつしか俺は美波に心の拠り所を求めるようになっていた。他の選手や記者などの周囲の人間は彼女をただの一般人としか見ないだろうけれど、俺からすれば長らく遠ざかっていたマウンドに導いてくれた救世主なのだ。信心深い選手にとってのそれが神や仏ならば、俺にとっての彼女はダイヤモンドの中心に導いてくれた天使だった。

 投球練習として球を抛る度に、自分の意思とは関係なく気持ちが高ぶっていく。直球も変化球も本調子には程遠いが、不思議と抑えられる気がした。

 一人目の対戦相手は高卒二年目左打者だった。ベテランからすれば俺だって若い部類に入るだろうが、さすがに年下の若造には負けたくない。キャッチャーの指示通り変化球を織り交ぜながら、四球目の直球で見逃し三振に仕留めた。

 二人目はベテランの右打者だ。俺が故障する前に散々苦しめられた燻し銀の相手で、バットに当てる上手さは離脱している間も衰えることはなかったらしい。けれど、粘られた末の六球目で何とかセカンドゴロに打ち取ることが出来た。

 三人目のバッターは同期の右打者。典型的なホームランバッターで、ホームランが多い一方で三振も多く、よく対戦結果で競っていた。そして、バッターボックスに入る彼の眼は、かつてのように俺を勝負に誘っていた。

 一球、二球と続けた俺の渾身のストレートをバッターはフルスイングしてくるも、ジャストミートせずにファールとなる。それでもタイミングは合っているので、少しでも間違えば簡単にスタンドまで持っていかれてしまうだろう。空振りが取れない辺りに、本調子でないことの影響が表れている。それでも今は、こうして勝負出来ることがただただ嬉しかった。

 ブレーキの利いた縦のカーブは、落ちるのが早すぎて見送られてしまう。続く五球目、勝負にいったストレートだった。低めにいくはずが、ボール一つ分浮いてしまう。バッターはそれを見逃さず、チャンスとばかりに大きくスイングした。鋭く空を切ったバットは、白球をとらえるも、鈍い音を立てて根元から真っ二つに折れる。力が吸収されたボールは、そのままふわりと小フライになり、キャッチャーのミットに納まった。

 スリーアウト、チェンジ。予定の一回を投げ終えて、マウンドを後にする。納得のいく内容ではなかったが、最低限の投球は出来たと思う。スタンドからの拍手や声援が、全てを証明してくれていた。


 自宅のあるマンションのエントランスまで帰ってくると、煌々としただだっ広い空間に立ち尽くす美波の姿があった。深夜と呼べる時間帯になろうかというのに、彼女はこんなところで何をしているのだろうか。それよりも、今日の投球に対する彼女の反応を知るのが怖い。どう声をかけていいのかもわからない。けれど、幸い声をかけるまでもなく、騒々しく開いた自動ドアによって彼女はこちらに気がついた。

「お疲れ、光司」

「サンキュー。どうしたんだ、こんな時間にこんなところで」

「感想は、新鮮なほうがいいでしょ?」

 美波はそう言って、勿体振ることもせずにあっさりとその話題を口にした。

「そのためにわざわざうちまで来てくれたのか。どうする、お茶でも飲んでいくか?」

「んー……今日のところは、遠慮しとく。時間も時間だしね」

「なら、家まで送っていくから、歩きながら話すか」

「うん、ありがと。護衛よろしく」

 そして俺達は、眩いばかりの無機質なエントランスを出て、夜空の下を歩き出す。苦い思いを重ねた夏は既に遠く、駆け抜ける風からは秋の音さえ聞こえてきそうだった。

「光司、今日はありがとね。あたしがあんなこと言ったから、こういう機会を作ってくれたんでしょ?」

「まあな。ファンの期待に応えるのが、俺の仕事だからな」

「ふふ、格好いいこと言うじゃない。でも、そんなこと言わなくたって、今日のあんたは十二分に格好いいわよ」

 隣を歩く美波の姿は月の光に弱く照らされるだけで、表情まで窺うことは出来ない。もしかしたらそれは、計算されたことなのかもしれなかった。

「素人目にも、あんたが凄いピッチャーだってわかったわよ。知識がないから月並みな言葉しか言えないけど、本当に感動したんだから」

「褒めても何も出ないぞ」

「そんなんじゃないって。とにかく、この感動を早く陽子に伝えたいわね」

 自分ではまだまだという思いが強かったのだが、今日の投球が美波の心を動かすことが出来たのであれば、悔やむ理由はない。まるでプロ初登板の時のような、冷めない余韻が心地良かった。

「そういえば、陽子で思い出したけど、サインのお礼を伝えておいてって頼まれてたんだった。ありがとうございます、家宝にします、だってさ」

「はは、サインくらいならいつでもどうぞって伝えておいてくれ」

「ふーん……いつでもどうぞ、ね」

 ファンに差をつけることはしないが、それ以前に美波の親友ならば俺にとっても友人だ。陽子とも、またいつかお茶にでも行きたいと思う。

 けれど、それよりも何よりも、まずは美波との約束が先だろう。そう思い、ラーメン屋に行く相談をしようとしたのだが、彼女が一瞬早く口を開く。街灯によって露になった表情は、悪いことを思いついた時のあの笑顔だった。

「話をしてたら、何だか陽子のことが羨ましくなっちゃった。ねえ、あたしにもサインしてくれない?」

 どうして今更、なんて考えた時点で、俺はもう彼女の罠に嵌まっていたのだ。美波の口元は一層つり上がって、妖艶な三日月を描いた。


「唇に、キスのサインを……ね?」

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