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第七章

 打球が夜空に大きく弧を描くと、それを後押しするように観客が声を上げた。四時間を超える長期戦に、疲れとフラストレーションが溜まりつつある時のことだった。自軍のサヨナラホームランに、選手は内野で揉みくちゃになり、ホームのファンも見知らぬ同士関係なく喜び合っている。打ち合いを重ねた末の劇的な幕切れに、スタジアムは今日一番の盛り上がりを見せている。

 それなのに、そんな光景を他人事のように見つめる観客が二人。俺と美波だ。

 最初は俺達も、普通に楽しみながら試合を観戦していた。美波だってずっと笑顔だった。けれど俺は、楽しみながらも心のどこかで湧き上がる思いを無視出来なかった。今だってそうだ。

 どうしてあの場所に、自分が立っていないのだろう。何故自分は、スタンドから見つめているのだろう。そういう思いをするのはわかっていたから、敢えて試合は観ないようにしていたのだけれど、今日に限っては美波の希望だったからそれに応えたのだ。

 だというのに、美波はお祭り騒ぎの輪の中で浮かない顔をしている。会った時は旅行に行く子供のような笑みを浮かべていたし、初めてスタンドにやって来た時はそこからの眺めに感動していたし、試合が始まれば熱心に応援をしていた。けれど、試合が進んでいくにつれて美波の口数は少なくなり、サヨナラ勝ちの瞬間にはすっかり黙り込んでしまっていた。

 何となくではあるけれど、試合の内容ではなく、別の何かが原因のような気がした。放っておくのも一つの選択ではあったが、あくまでラーメンのお礼なのだから、美波が不満だったのなら素直に謝らなくてはならない。そう思い、余計なお節介だとわかっていながらも、俺は美波に声をかけた。

「……試合、つまらなかったか?」

「えっ?」

 美波は自分が黙り込んでいることに気づいていなかったのか、驚いてこちらを振り返る。次の瞬間には、失敗した、とわかりやすく表情で語ってくれた。

「ご、ごめん。そういうわけじゃなくて、ちょっと気がかりなことがあっただけで……本当にごめん」

「別に、気を遣わなくてもいいんだぞ」

「だから、本当に違うのよ!」

 普段は落ち着いている彼女にしては珍しく、酷く慌てているようだった。俺としては、気を遣われるよりも正直につまらなかったと言ってくれたほうがいいのだけれど、美波はそうじゃないと言って譲らない。俺がいつまでも彼女の言葉を信じないでいると、必死に否定していた美波は観念したように言葉を口にした。

「こうして初めて自分の目で試合を観て、最初は本当に楽しかった。でも、ピッチャーが打たれる度に、もしピッチャーがあんただったらどうだったんだろうって考えるようになっちゃって。あたしは、選手としてのあんたを知らない。今までそのことを気にしたことはなかったけど、ある程度野球がわかるようになった今、それがとても悔しくなっちゃったのよ。しかも、初対面だった陽子のほうがあたしよりもあんたのことを知ってるんだって思ったら……なんか、辛かったのよね。本当、ごめん。一番辛いのは、他の誰でもないあんたなのに」

 力なく笑う美波に、俺は何も言い返せなかった。美波がそんなことを考えているなんて思わなかったし、何よりも、一人のファンの心に触れることが出来たような気がしたのだ。

 期待されることは嫌いじゃないし、好きな野球のためならいくらでも努力出来る。実際そうしてリハビリも乗り越えられたし、それに限らず今まで野球に費やしてきた努力を考えればとっくに証明は終わっている。

 腕の調子も良くなっているし、今こそが実戦復帰に向けて自分を追い込む時かもしれない。自分のためにも、こう言ってくれた美波のためにも、頑張ってもう一度あの場所に立ちたい。そう、スタンドから見えるマウンドと、隣で落ち込む美波を見て改めて思った。

「……ねえ、怒ってる?」

 何も言わないでいたせいか、美波が恐る恐るといった風に訊ねてくる。叱られた子供のようなその様子が何だか彼女らしくなくて、知らない彼女の一面を見たようで微笑ましかった。

「何で笑うのよ、あたしは真剣に――」

「悪い悪い。怒ってなんかないさ。試合がつまらなかったわけじゃないんだよな?」

「う、うん、そうだけど……」

「なら、いいじゃねぇか。つまらなそうにしてたお詫びに、またラーメン屋に連れていってくれるんだろ?」

 俺がそう言うと、美波はすぐさま真意を理解し、いつもの子供のような笑みを浮かべた。

「それじゃ、またおすすめのお店を紹介するから、楽しみにしててよね。今日のお詫びに奢るからさ」

 試合の余韻に浸るスタンドで、俺達はひっそりと笑いあう。夜空に浮かぶ月だけが、静かにそれを見つめていた。

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