第六章
「……なにこれ?」
いつもと変わらず公園で美波と会った俺は、手に入れたチケットを早速彼女に手渡した。美波は手渡されたそれを、光に翳したりながら不思議そうに見つめる。そういえば、彼女はテレビ中継ばかりで、実際に試合を観に行ったことがないのだった。それならば、球場のチケットを知らないのも仕方のないことかもしれない。
「試合のチケット、ラーメン屋に誘ってくれた礼だ。もしよかったら、応援に行ってやってくれ」
「お礼なんて、そんなのよかったのに……」
「いいんだ。俺の自己満足みたいなもんだから、いらなかったら帰って捨ててくれ」
「そ、そんなことしないわよ! 絶対、観に行くから。……ありがと」
「こちらこそ」
喜んでもらえたかどうかはわからないが、じっとチケットを見つめている彼女の姿を見れば、少なくとも大失敗でなかったことは明白だ。自己満足ではあるけれど、どうせなら喜んでもらえたほうが嬉しいに決まっている。それもまた、単なる自己満足だった。
長らくチケットと向き合っていた美波だったが、ふと我に返り顔を上げると、何やら真剣な目つきで俺の瞳を見つめた。
「……これって、一人分?」
「そうだけど、何か不都合があったか?」
あまり自分のことを話さない彼女だけれど、野球が好きな家族がいたりするのかもしれない。もしそうならば、己の配慮不足を悔いていただろうが、次に美波が口にしたのはそんなことではなく、もっと簡単なことだった。
「だって、ラーメンの時はあたしと二人だったから……」
「……なるほどな」
はっきりと言わないところが何だか彼女らしくないけれど、それがまた微笑ましかった。つまるところ、ラーメン屋の時のように俺に球場へ連れていけと言っているのだろう。スタンドで観戦するのは他の客に正体がバレそうで怖くもあるが、彼女の希望とあっては断ることなど出来なかった。
「そういうことなら、もう一人分手に入れておく」
「ありがと、よろしくね」
しかし、よくよく考えてみたら異性と野球を観に行くのは初めてかもしれない。ここのところ、色々なことがよくわからない方向へ進んでいる気がする。怪我から始まって、絶望しているところの偶然の出会いから、新たな友人が出来た。プロの世界でやっていけていることも含めて、人生は何がどう動いていくかわからないものだ。
などと考えていると、美波がまた妙に遠慮がちな声をかけてきた。
「……あのさ」
「ん?」
「お礼をもらったばかりで悪いんだけどさ、出来ればちょっと頼まれてくれない?」
「内容によるな」
俺がそう言うと、美波はそれっきり黙り込んでしまう。彼女は何を言おうとしているのだろう。まさか金銭を要求されるようなことはないだろうが、何となく身構えてしまう。じっと辛抱して待っていると、美波はようやく口を開いた。
「……この前、あたしの親友の話をしたじゃない? あんたのことを知ってる子」
「ああ」
「その子がね、あんたと会いたいって言うのよ。会って、サインして欲しいんだって。それで、もしよかったら、この後会ってくれないかなって……」
「何だ、そんなことか。それなら、俺は構わねぇよ」
ファンサービス、それも美波の親友とあっては、断ることなど出来るはずがない。俺が快諾すると、美波はホッとしたように息をついた。
「それじゃ、行こっか」
「って、今すぐ会うのか?」
「うん。元々会う約束をしてて、もしOKもらえたら連れてきてって頼まれてたから」
会いに来ないあたり、親友さんも気を遣ってくれているのかもしれない。ファンと会う時は失望させてしまわないか不安になったりするが、今回に限ってはあまり心配する必要もなさそうだった。
そのまま美波に連れられて、公園から団地の一角にある喫茶店へと移動する。駅前だと囲まれたりして面倒なことになったかもしれないが、幸い自宅からすぐの閑静な住宅街ではそんなことは起こらず、たまにすれ違うのも大体は顔見知りで挨拶を交わすばかりだった。
ほどなくして辿り着いた喫茶店は立地相応に狭い店内で、客も数えるほどしかいない。美波が店員を制して、一人の女性客のところへと向かう。美波と同い年くらいの短い髪の彼女は、美波を見て微笑みながら手を振った。そして、その視線は俺へと移り、釘付けになる。美波が痺れを切らして彼女の背を叩くまで、ずっと見つめ合っていた。
「は、はじめましてっ!」
「……はじめまして」
美波が落ち着いた雰囲気なのに対して、快活な印象を与える彼女は緑川陽子と名乗った。陽子とやらがうちの球団のファンで、ユニフォームも持っていて、俺が怪我をするまでは毎試合球場で応援して……という話を嬉々としているのを聞いて、なるほどこの二人は上手くバランスが取れていると変に納得してしまった。日頃から、この子があれこれとおかしなことを言っては、美波が冷やかにツッコミを入れているのだろう。俺の知らない美波の姿を、容易に想像することが出来た。
「そうだ! 白坂さん、サインお願いします! 白坂さんのユニフォームとペン持って来たんです!」
陽子が嬉しそうに声を上げる。苦笑交じりに美波を見遣ると、彼女は陽子からは見えないように申し訳なさそうに手を合わせた。
「ああ、えっと、この辺りでいいかな」
「はい! ありがとうございます! 感激です!」
「ちょっと陽子、声が大きいって」
「美波ー! これも美波のおかげだよー! ありがとー!」
「わかったから、まずは声を――」
「あの、サイン書けたけど」
「わー! ありがとうございますー!」
結局、陽子一人が散々騒いだ挙句、俺と美波が店員に謝ることとなった。




