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第四章

 翌日、美波はやってくるなり嬉しそうに言った。

「快勝だったじゃない、よかったわね」

「は?」

 いきなりのことで、理解が追いつかなかった。美波はそれを知ってか知らずか、矢継ぎ早に述べる。

「観てたら何となくはわかるんだけど、選手の成績の見方とかはどうしてもわからなくて……まだまだ観続ける必要がありそう」

「あー……」

 ようやく合点がいった。美波は昨日帰ってから、野球中継を観たのだろう。去り際に言っていた勉強とは、そういうことらしかった。

「ルールはどの程度把握出来たんだ?」

「ストライクとボールとか、フェアとファールとか。あと、打ったボールは地面に着く前に捕られちゃダメなんでしょ? そのくらいかな」

「上出来じゃないか」

「ふふん、テレビにかじりついて観てたからね」

 自慢げに笑う美波は、ルールの基本は既に理解したようだった。アウトや得点の概念さえわかれば、何となくで楽しむことが出来るだろう。

 ある程度の部分は、観ているうちに自然とわかってくる。だがそれでも、数回試合を観たぐらいではわからないことが沢山ある。そして、そういう部分がわからないと本当の楽しさはわからないものなのだ。

「ねぇ、ストライクゾーンってどの辺なの? 何となくはわかったんだけど、ちゃんとした定義があるんでしょ?」

「バッターの膝より上、肩とベルトの中間より下のホームベース上」

「え、えっと……」

「大体この辺りだな。難しければ、バッターが普通に打てるコースだと憶えればいい」

 そう言って俺は、打席に立つポーズをとりながらストライクゾーンにあたる空間を手で示した。

「言ってしまえば、ストライクゾーンは審判の数だけあるからな。あまり厳密に憶える必要はない。厳密な定義よりも、自分の直感のほうが頼りになるしな」

「ん、わかった」

 ルールブックを読み込んで野球を始めた人間など、実際は殆どいないように思える。大抵は、幼いころ父親と観ていたりしているうちに自然と憶えてしまうものだ。

「じゃあ、打率はどう見ればいいの?」

「打率ってのは、打撃を完了させた数のうち何本がヒットだったかを表しているんだ。ただ、当たり前の話だが三打数一安打でも三百打数百安打でも同じ三割三分三厘になる。打率を見る時は、併せて打数も確認したほうがいいぞ」

「はーい。ちなみに、打率がどれくらいだと優秀なの?」

「優秀っていう言い方が正しいかどうかはわからないが、三割が一つの判断基準になってるのは確かだな」

「へぇ。ありがと、先生」

 お辞儀してみせた美波は、それからずっとそわそわしていた。早く今日の試合中継を観て、得た知識を活かしたいのだろう。しかし、当然の話だが早く帰ったところで試合開始が早くなるわけではない。それ故の、落ち着きのなさなのかもしれなかった。

 知り合って間もない相手と無言の時間が続いてしまったことで、居心地が悪くなってしまう。かといって話すことも思いつかなかった俺は、試しに左腕を動かしてみることにした。

「……お?」

 昨日までならこれだけで少々の痛みがあったのだが、何度動かしても左腕が悲鳴を上げることはなかった。

「ちょ、ちょっと、そんなに動かして大丈夫なの?」

「ああ、よくわからんが今日は痛くない」

 果たして、本当に回復傾向にあるのか単なる気紛れなのか。野球中継が楽しみな美波のように、俺までそわそわし始めてしまった。

 焦ってはいけない。焦っていいことなどないと、俺は十分に知っているはずだ。そう自分に言い聞かせるも、所詮は無理な話だった。

 球場でプレーし続けるチームメートが羨ましかった。野球への愛は人一倍なのだから。給料云々もそうだが、マウンドに立てないことが何よりも悔しかった。

「また、その顔してるわよ」

「ん?」

「辛そうな顔」

「ああ……」

 そういえば、俺達が話すようになったのもそれがきっかけだった。元々、表情を偽るのは苦手なのだ。注意されたからといって、簡単に直るものではない。

「なかなか、笑えるようなことがないもんでな」

「笑えることねぇ……」

 美波が何やら考え込む。単に理由として述べただけで、笑いたいと思っていたわけではないのだが、そこまで本気にされると言葉を挿むことなど出来なかった。

「なら、今度ラーメン屋にでも行かない? あんたが暇なときでいいからさ。あたし、ラーメン好きなのよね」

「男らしいチョイスだな」

「悪かったわね。好きなんだから仕方ないじゃない。あんたの野球と同じで、理由なんてそれ以外にないわよ」

「まあ、お前がラーメン好きなのはわかったが、それと俺の“笑えること”と何の関係があるんだ?」

 至極当然の疑問に対して、美波は何の疑いもないのか、自信に満ちた笑みを浮かべて答えた。

「え、だって、美味しいものを食べて笑顔にならない人なんていないでしょ?」

 そう言われてしまっては、俺はそれ以上何も言えなかった。代わりに出てくるのは、腹の底からの笑い声。美波は馬鹿にされていると思ったようで、終始膨れっ面をしていたが、ラーメン屋に行く約束を取り付けると一転して花が咲いたように笑った。

 基本的にいつも怒っているような印象を与える彼女だが、笑った時は当然のように可愛くて、子供達に愛されているほうの彼女を知ることが出来た。本人にそんなことを言えば、彼女はまた膨れっ面になってしまうだろうけれど。

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