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第1話 城塞都市ヴァルハラ

 

――ヴァルハラにネファスの魔女がいる。彼女を救い、シギルを手に入れなさい。


聖レクス市を出て、二日が過ぎていた。


街道を歩きながら、ミツキはふと隣を見た。エリシェヴァの足取りが、さっきから重い。何度目かのため息を聞いて、ミツキは足を止めた。


「エリシェヴァ?」


「あ、ごめんなさい、何でもないんです」


慌てて笑顔を作ろうとするが、その目には拭いきれない陰りがあった。ミツキは黙って、彼女が口を開くのを待った。


しばらくの沈黙の後、エリシェヴァは俯いたまま、絞り出すように呟いた。


「あの街に、まだ病人がいるんです。私が診るはずだった人たちが」


「……」


「列に並んでいた、あの人たち。水が足りないって言ってた老人も、子どもを抱いていたお母さんも……。私がいなくなって、あの人たちは、どうなったんでしょう」


声が震えていた。ミツキは、あの日の診療所での彼女の姿を思い出す。誰にも助けを求めず、一人で列の全員を診ようとしていた背中。あの意志の強さは、今も少しも変わっていないのだと分かった。


「私、逃げてよかったんでしょうか。治癒師のくせに、自分だけ助かって……」


「エリシェヴァ」


ミツキは彼女の前に回り込み、まっすぐに顔を見た。


「あの街に戻ったら、あなたは今度こそ本当に殺される。それは分かってるよね」


「分かってます。頭では」


ミツキは静かに続けた。


「置いてきた人たちのこと、忘れられないんだよね」


エリシェヴァはこくりと頷いた。それ以上、言葉にならなかった。

ミツキの声に、いつもの軽さはなかった。


「……でも、今あの街に戻ったら今度こそ火炙りにされちゃう。あなたが命を落としたら、この先誰も救えなくなる。あなたを必要としてる人は、あの街だけじゃなくて、これから先にもきっといる筈だから」


「……」


「それに」


ミツキは少し声を和らげた。


「あなたが必死に診てくれた人たちは、ちゃんと生きて、その温もりを覚えてる。無駄になんてなってないよ」


エリシェヴァの目に、うっすらと涙が浮かんだ。


「……ミツキさん」


「まずは、生き延びよう。それから、少しずつでいいから」


ミツキは彼女の手を取った。冷たく強張っていた指先が、少しだけ緩む。


「……はい」


かすかな声だったが、確かな頷きだった。エリシェヴァは涙を拭うと、もう一度前を向いた。


「次は、どこへ向かうんですか?」


「ヴァルハラっていう街だよ。翁が言ってた」


ミツキは気持ちを切り替えるように、明るい声で答えた。


「そこに、ネファスの魔女がいるはずなんだって。──行こう、エリシェヴァ」


二人は再び、街道を歩き始めた。振り返れば、聖レクス市はもう遠く、砂埃の向こうに霞んでいた。



要塞都市ヴァルハラの城壁は、鉄と石が織りなす無骨な巨体だった。そびえる塔の影が朝日を浴びて長く地面に伸び、埃っぽい街道の上に落ちている。ミツキとエリシェヴァは旅装束に身を包み、城門をくぐった。

聖レクス市の火刑台から逃げ延びて、数日。

城壁の内側に足を踏み入れた瞬間、ミツキは思わず息を呑んだ。石畳を行き交うのは、祈りを捧げる敬虔な信徒ではなく、鎧を鳴らして歩く傭兵や、荷を積んだ商人たちだ。教会の白いマントも、異端を探る神官の視線も、どこにも見当たらない。代わりに響くのは、鍛冶場から上がる火花の音と、値段を吊り上げる商人の怒鳴り声だった。


「……嘘みたい」


エリシェヴァが、フードの下でぽつりと呟いた。


「聖レクス市では、息をするのも怖かったのに」


「戦士の街だからね」


ミツキは砂埃に薄く汚れた赤いドレスの裾を払いながら答える。紅いツバキの髪飾りが、朝の光を受けて小さくきらめいた。


「ギルドと騎士団が仕切ってる街。神様より、剣の腕がものを言う場所だよ」


二人は城壁内の喧騒を抜け、酒場「鉄槌の炉」の扉を押し開けた。途端に、酒と汗、焼いた肉の匂いが鼻を突く。壁にはギルドの鉄槌紋章の旗が掲げられ、紋章入りの鎧を着た騎士がカウンターに片肘をついていた。

木のテーブルからは男たちの笑い声が響き、剣の鞘が床を叩く音が時折混じる。ミツキはスープと黒パン、それにステーキと木の実のデザートまで注文し、窓際の席にエリシェヴァと腰を下ろした。 


「そんなに頼んで、お金は大丈夫なの?」


「大丈夫! 魔物討伐の報酬がたっぷりあるから。ほら、食べて元気出して!」


エリシェヴァは小さく微笑むと、窓の外に目をやった。市場では鍛冶屋の火花が飛び、騎士団の巡回兵が馬車の間を歩いている。掲示板には高額な魔物討伐の依頼が何枚も貼られていたが、教会の神官の姿はどこにもない。


「ここ、聖レクス市と全然違う……教会の影がないから、なんだか落ち着く」


「翁が言ってた『ネファスの魔女』も、ここなら隠れやすいはずだよ」


「……その、ネファスの魔女って、普通の魔女と何が違うの?」


エリシェヴァがスプーンを止め、首をかしげる。ミツキはパンをかじりながら、人差し指を立てた。


「契約相手の『格』が違うんだって。普通の魔女は『悪魔』と契約するけど、ネファスの魔女は悪魔の頂点に立つ『魔王』と契約した特別な魔女のこと」


そして、エリシェヴァを指差してウィンクする。


「つまり、魔王ベルゼブブと契約したエリシェヴァも、その一人なんだよ」


「私も?」


エリシェヴァが目を丸くした瞬間、隣のテーブルの会話がミツキの耳をかすめた。


「――最近、魔物の襲撃が増えてるってよ」


革鎧の傭兵が、ビールを傾けながら声を潜めている。


「牙狼やワイバーンまで出て、商隊が全滅したって話だ。教会の浄化官も動いてるが、追いつかねえ」


「ワイバーンだと? あの炎を吐くやつだろ」


「それが、普通の炎じゃねえんだ。聖水でも消せねえ、城壁の石すら溶かす業火だぜ。浄化官の聖剣すら折れたって話だ」


傭兵が顔を歪める。エリシェヴァの表情も曇った。


「ネファスの魔女についての情報は、ここじゃ得られなさそうだね」


ミツキがスプーンを置いた、その時だった。

遠くで、低く唸るような音が響いた。

酒場の喧騒が一瞬静まり、窓の外で馬が嘶く。傭兵が剣を握り、商人が荷物を抱える。テーブルがガタリと揺れた。


「この音……なんだろう」


ミツキは胸のシギルを握りしめる。ドクン、と熱い脈動が突き上げた。


「何か来る。炎の魔物の気配がする」


警報の鐘が鳴り響き、客たちが一斉に立ち上がった。


「ワイバーンだ! 街が襲われてる!」


ミツキとエリシェヴァは顔を見合わせ、外へと飛び出した。

空が、赤く燃えていた。

石畳の通りを駆け抜けると、空を覆う黒い影が見えた。鱗に覆われた巨体が翼を広げ、咆哮と共に炎を吐く。酒場の噂通り、その炎は異常だった。聖水が触れた端から蒸発し、石造りの屋根が飴のように溶け落ちていく。赤黒い煙が立ち上り、異様な熱が市場を包んだ。


「ミツキ、あれ……!」


エリシェヴァが緑の瞳を震わせる。炎が屋台を呑み込み、焦げた匂いが鼻をついた。


「この炎、ただの魔物じゃない。ヤバいよ!」


ミツキは剣を構え、叫んだ。


「私が時間を稼ぐ! エリシェヴァ、癒しの魔法で街の人を助けて!」


「……でも、危ないよ! 聖レクス市みたいに、私……」


声を震わせるエリシェヴァの手を、ミツキは強く握った。


「大丈夫、私には翁の権能がある。エリシェヴァは人を救う力があるでしょ? 信じて」


エリシェヴァは唇を噛むと、青い光を手に集め、負傷した子供の元へ駆け出した。ミツキはワイバーンに向かって走る。熱風が赤いドレスとツバキの髪飾りを激しく揺らした。

戦士や騎士団が挑むが、異常な炎に阻まれ次々と倒れていく。


「聖水が効かねえ!」


「城壁が溶けてるぞ!」


叫び声が響く中、ミツキは翁の権能の一部を解放した。赤い光が剣に宿り、鱗を斬りつけようとするが、炎の壁に弾かれる。


「くっ……この炎、強すぎる!」


歯を食いしばり、権能をもう一段階引き上げようとした、その瞬間。

鋭い風切り音が空を裂いた。銀色の閃光がワイバーンの首を貫き、巨体が石畳に叩きつけられる。舞い上がる塵の向こうに、ミツキは一人の女騎士の姿を見た。

右目を黒い眼帯で覆い、革と鋼の軽鎧に身を包んでいる。腰の長剣は血と炎に濡れ、冷たい青い瞳が戦場を静かに見据えていた。


「誰?」


エリシェヴァが呟く。

ミツキの胸で、シギルが熱く共鳴した。


「あれは……!」


女騎士は動揺する戦士たちを一瞥すると、低く告げた。


「邪魔だ。どけ」


もう一頭のワイバーンへ向き直り、剣を抜く。刹那、黒いオーラが爆発し、市場の石畳が砕けた。空間が歪むような一閃が翼を両断する。業火が女騎士を包むが、黒いオーラがそれを押し返した。


「無駄だ」


氷のような声。一振りで炎が裂け、二振りでワイバーンの胸が貫かれる。黒いオーラが爆ぜ、鱗が粉々に砕け散った。跳躍し、剣を振り下ろす――巨大な剣閃が、ワイバーンを真っ二つに切り裂いた。

衝撃波が市場を揺らし、屋台が倒れる。業火が消え、赤黒い煙だけが静かに漂っていた。


「す、すごい……」


ミツキは目を見開いた。戦士や騎士団が束になっても倒せなかった相手を、たった一人で屠ってしまった。


(あの子……ネファスの魔女だ。翁の言ってた『戦争』の魔女だ)


「あ、あのっ!」


女騎士が振り返る。


「……君は? 何か用?」


声は剣のように鋭い。ミツキは怯まず笑いかけた。


「用ってほどじゃないけど、さっきの戦い、すごくカッコよかったなって! 名前は?」


「……ルーク」


「ルークっていうんだ! 私はミツキ、この子はエリシェヴァ。私たちと一緒に……」


「あまり僕に関わらない方がいい。戦いは一人でいい」


ルークは剣を鞘に収めると、焼け焦げた市場に背を向け、それきり振り返らずに歩き去った。


「ミツキ、あの人、なんか冷たいね。本当に翁の言うネファスの魔女なの?」


「絶対そうだよ。シギルが共鳴したもん」


黒煙が漂う市場に、ルークの足音だけが遠ざかっていく。

ミツキとエリシェヴァは、その背中をただ見つめていた。

やがて“戦争の魔女”と呼ばれる彼女が、この旅路に加わることを――このときはまだ、二人とも知らなかった。

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