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第4話 奴隷達

――それはまだ、街が炎に呑まれるよりも前の記憶。

果てしなく続く砂漠の道。昼は焼けるような陽射し、夜は骨の髄まで凍える寒風。その過酷な道を、鉄の鎖に繋がれた子供たちが歩かされていた。足首を縛る鉄の環が擦れて血をにじませ、乾いた砂が傷口に入り込み、痛みに呻き声を漏らす。鉄輪の荷車が砂を削る音と、商人たちの怒鳴り声が絶え間なく響いていた。


「……ったく、砂が靴に入りっぱなしじゃない。歩かされるこっちの身にもなってよ」


列の中央で、赤茶の髪を後ろで結んだ少女――アーリヤが、不満を吐き出した。彼女の頬には汗と砂がこびりつき、額の下には怒りの火が燃えている。まだ年若いのに、その瞳は獲物を睨む猛禽のように強気だった。


「アーリヤ、声が大きい」


隣を歩くライラが、小声でたしなめる。黒い髪は煤と汗に濡れ、肩に張り付いていた。だがその眼差しは冷静で、周囲を測るように鋭い。落ち着いた声は、不安に駆られる仲間たちをわずかに和らげた。


「商人に聞かれたら……」


「分かってるって! でも、腹が立つのよ。好き勝手に人を鎖でつないで、牛馬みたいに扱ってさ。絶対いつかぶっ飛ばしてやるんだから」


アーリヤは唇を噛み、鎖をガチャガチャと揺らす。その時だった。


「うっ、うわああっ!」


列の前方から、痩せこけた少年が抜け出すのが見えた。


「奴隷が逃げ出したぞ!」


「こ、このガキ! とっちめてやる!」


商人たちが、逃げた少年を捕まえようと即座に追いかけた。


「やめろっ! こっちへ来るなああ!」


少年は何とか外したであろう鎖を振り回して商人たちに抵抗し、乱闘状態になってしまう。


「――せっかくの商品をこんな形で無駄にはしたくないが……こんなに暴れられちゃあ仕方ないなぁ」


先頭の荷車にいた奴隷商人が、ゆっくりと振り返った。痩せぎすの顔に浮かぶ薄ら笑い。男は懐から、銀色に鈍く光る小さな鈴を取り出した。


――チリン。


乾いた砂漠に澄んだ音が響いた瞬間、列の前方にいた少年が膝から崩れ落ちる。


「っ……あ、あぁ……」


少年の瞳は虚ろになり、光を失った人形のようにだらりと崩れ落ちた。口から涎を垂らし、二度と立ち上がることはなかった。


「やめろッ!」


アーリヤが叫ぶが、鎖は無情に引かれ、彼女は前へ引きずられる。


「……見たでしょ」


ライラの顔は、蒼白だった。小さな肩が震え、乾いた唇から低い声が漏れる。


「逆らったら、あの鈴を鳴らされる。……二度と戻れなくなる」


「……っ」


アーリヤは悔しげに唇を噛み切った。血がにじみ、砂に落ちてすぐに乾く。怒りの炎は消えないが、今はその炎を叩きつける場所がなかった。


奴隷商人たちは、周到だった。輸送の際、子供たちは同郷同士で固められず、全員が違う地域出身になるようにバラバラに組まれていた。意思疎通を困難にするための策略だ。だから、アーリヤとライラも出身地は違う。微妙に訛った言葉が交じるが――それでも、過酷な日々を共にするうち、自然と心は寄り添っていった。


数週間後。


二人は他の奴隷たちよりも比較的栄養状態がよかったためか、高値でザビール家に買い取られ、ついにカルデア・ザフラーンの中心に聳える館に連れ込まれた。白亜の大理石の床、壁に掛けられた豪奢な絵画、金細工のランプ。見た目は華やかだが、奴隷たちにとっては牢獄だった。


「水を持ってこい! 遅いぞ!」


「食器を磨け! 曇り一つでも残っていたら皮を剥ぐからな!」


館内では怒号と鞭の音が飛び交い、子供たちはひたすら走り回る。教会の目をかいくぐるためか、館には大量の隠し部屋や裏部屋が存在し、奴隷はそこで昼夜問わず酷使されていた。アーリヤは皿を抱えて駆け回り、ライラは床に膝をついて掃除をした。息を切らす二人に、容赦は一切なかった。


「クソッ、いつか絶対ここから逃げてやる」


夜、藁の寝床に体を投げ出し、アーリヤは低く呟いた。拳を握る音が、闇に響く。


「そうね」


ライラは小さく笑みを浮かべ、隣で体を横たえながら答えた。


「でも今は耐えるしかない。命を繋がなきゃ、夢も叶えられない」


「ライラはさ、なんでそんなに落ち着いていられるの? あたしはもう我慢できないのに」


「誰かが冷静でいなきゃ、二人とも潰れる。……それに」


ライラは目を閉じ、ほんの少し優しく笑った。


「一緒に生き延びたいから」


「ふん、勝手に守ろうなんて思わないでよね。あたしだって、ライラを守るんだから」


アーリヤは真っ赤になった顔を隠すように、背を向けた。


二人は夜ごと、小声で夢を語った。――いつか、この館を抜け出して、自由になる。


そんなある夜だった。


食器を片付けるために廊下を歩いていたアーリヤの耳に、かすかな声が届いた。


『……助けて……』


「……え?」


誰もいないはずの廊下。だが確かに、耳に届いた。声は、女たちの合唱のようだった。アーリヤは桶を置き、足音を殺して声の方へ向かう。


『――私たちも、この館の貴族たちに騙されて閉じ込められているの……助けて。そしたら、あなたもこの館から出してあげる……』


「誰? どこにいるの?」


既に何人かとすれ違っているはずが、誰も館を勝手に歩き回る彼女のことを気にも留めない。不気味な静寂の中、声に導かれるように奥へ奥へと進んでいく。


足元に影が伸びる。声に導かれるように、アーリヤは図書館へと足を踏み入れた。図書館の扉は重く、いつもは鍵がかかっている。だが、その夜に限って、鍵は開いていた。


高い天井まで続く本棚。月光が差し込む窓から舞い落ちる砂埃。本棚の列のあいだから冷たい風が吹き、ページの匂いがする。声はさらに奥へと誘った。まるで道筋を知っているかのように、右へ、左へ。アーリヤは自分がどれほど奥深く入り込んでいるのか、すぐにはわからなくなった。


やがて本棚の一角が途切れ、石の壁が現れる。壁面には古いレリーフが刻まれており、砂に埋もれた太陽と、周囲に踊る炎、そして見慣れぬ紋章が彫られていた。


『――そこ、押して』


「……ここ?」


囁きに従い、指先でレリーフの中心を探る。冷たい石が、わずかに沈んだ。重い音と共に壁が開き、地下へと続く石階段が現れる。


奥に進むと、そこには石造りの小部屋があった。壁や天井、床じゅうに見慣れない文字や、不気味な魔法陣のようなものが描かれていて、中央には奇妙な石板が鎮座している。


『触れて……解き放って……そしたら、みんなを自由にしてあげる……』


アーリヤの心臓が、跳ね上がった。


「……これに触れれば……ライラと一緒に出られる……?」


『そう。みんなこの館から出て自由になれる』


迷いを断ち切るように、彼女は石板に手を伸ばした。


---


視界が裏返り、全身が炎に呑まれた。足が地面を見つけた時、そこは館ではなかった。天も地もない空間。空気は乾いた香の匂いで満ち、遠くで砂が歌う。


目の前に、黒い衣と銀色の鎖をまとった天使が座していた。背中の大きな黒い翼は、先が炎のように赤く輝いている。名を問うまでもない。業火の魔王――イブリース。


「ようこそ、アーリヤ」


耳に響く声は、先ほどのものと同じだった。だが、嘲笑が混じっている。


「なっ……! あなたが、あの声の主……?」


背筋に、冷たいものが走った。


「ザビールに囚われ、鞭で生活を刻まれてきたのだろう? 私は知っている。お前の恐れも、怒りも、願いも」


「……助けてくれるの?」


「無論だとも。お前が望めば、お前の仲間も、あの忌まわしい館から解き放ってやろう」


どこかで、さっきの囁きが重なる。私たちも閉じ込められている、と。アーリヤはぎゅっと目を閉じ、ライラの手を思い浮かべた。乾いた指先の温度。笑い声。シーツの影の約束。


「お願い。私と、皆を自由にして……」


魔王は、笑った。美しく、酷薄に。


「哀れな娘」


その声は、囁くような女の声から、地の底から響くような低い男の声へと変わった。炎が渦を巻き、アーリヤの身体を覆う。必死に抗うが、全身が灼熱に絡め取られ、意識が溶けていく。


「なっ……やめろ……私の身体を勝手に……!」


その叫びは、炎にかき消された。


---


「ぎゃあああっ! やめてくれえええっ!」


「ひっ、こっちにも炎が!」


「熱い! 熱いよおっ!」


アーリヤ《イブリース》により、館中が一瞬にして火の海となった。窓という窓から炎が吹き、柱は溶け、瓦は空に舞い上がって燃え尽きる。炎で焼かれる貴族たちの悲鳴がこだまし、庭の噴水の水は一瞬で白い蒸気に変わり、石畳は飴のようにぐにゃりと歪んだ。


「た、助けて……っ」


誰かが跪いて祈る。天上神の名を呼んだのかもしれない。だが炎は、神の名に用はない。


アーリヤ《イブリース》はほんの少し首を傾げ、軽く息を吐いた。その吐息に触れた空気が、祈りごと燃え尽きる。この館の当主、マリク・ザビールの私室の扉も、金細工も、金庫も、同じだった。欲と恐怖の臭いだけを残して、すべては灰になった。


「はあっ……はっ……。アーリヤ!? どこなの!?」


ライラが叫び、必死に走る。裏部屋に奴隷たちを隠していたのが、皮肉にも幸いした。そこは使用人だけが知る物置列で、壁の奥に奴隷や禁輸品の搬入用の隠し回廊が通っている。見張りたちが部屋の外で次々とイブリースの炎に巻き込まれる中、彼らは隙をついてそこから館を脱出していたのだ。


「あの炎じゃもう助からないよ。逃げよう、ライラ!」


他の奴隷たちがライラを止めようとするも、ライラはそれを振り切り、再び館の方へと駆け出した。


イブリースの炎は館だけでは収まらず、次第に街中を呑み込んでいった。空は炎で赤く染まり、建物は無残に崩れ落ち、街じゅうから悲鳴が聞こえる……カルデア・ザフラーンの街は、正に地獄絵図と化していた。


「アーリヤっ! どこにいるの、アーリヤ!」


ライラはアーリヤを探し、崩れた館を走り回る。熱が足元から突き上がり、壁が赤く透ける。息ができない。目が痛い、でも走る。階段は炎で塞がれ、別の回廊は崩れ落ちた瓦礫で満ちていた。


「……あ、アーリヤ……?」


かつて館の応接間だった場所に、アーリヤは佇んでいた。ライラの問いかけに答えるように、アーリヤは振り向く。


――だがその瞳は赤黒く濁り、炎の形の虹彩が浮かび、唇が歪んだ笑みを作る。もう彼女ではなかった。炎が爆ぜ、館は崩れ落ちる。既にザビール家の者たちは、誰一人として生きていなかった。


「いやあああああッ!」


ライラは、思わず悲鳴をあげた。街全体が炎に呑まれ、夜空を真紅に染め上げていく。有無を言わせず、イブリースの炎が彼女を包み込もうとする――その時だった。


「こっち!」


誰かの声が炎を切り裂くように響いた。次の瞬間、世界が捻れた。廊下が横に曲がり、床が布のように波打ち、炎が遠ざかる。


「っ!?」


「ふう……危なかったね」


にこやかな声。見上げれば、目の前に立っていたのは、黒髪に緑と金色の服を着た、真紅の瞳の少年だった。少年の後ろには怯えた老人、男女、子供たち……そして自分と同じく館で酷使されていた奴隷たちがいた。


「もう少し遅ければ、君もあの炎に飲まれてるところだったよ」


ライラは、震える声で問う。


「……アーリヤは……アーリヤはどうなっちゃったの……!?」


「それは……」


少年は口ごもり、静かに視線を伏せた。


紅蓮に沈む街を背に、ライラは涙をこらえきれず叫んだ。


「アーリヤああああああッ!」


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