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第2話 奇病の異変


「お嬢さん、よく眠れたかい」


朝食の席で、宿の主人がパンを配りながら声をかけてきた。ミツキが頷くと、主人はふと思い出したように付け加えた。


「そういえば、今朝早く、隣の家の子が熱を出したらしくてね。この時期にしちゃ、随分と急な話だ」


軽い世間話のつもりだったのだろう。主人はすぐに次の客のもとへ移っていく。だがミツキの箸は、パンの欠片を摘まんだまま、宙で止まっていた。昨日の診療所。似たような症状の子。偶然、で片付けていいものかどうか、判断がつかない。


食事を終える頃には、その引っかかりが無視できない大きさになっていて、気づけばミツキは市場の方角へ歩き出していた。


露店を覗いていると、店主たちが顔を寄せ合って話し込んでいるのが目に入った。


「聞いたか、東の街道沿いで、隊商の連中が妙な咳をしてたって話」


「そういえば、あの一団がこの街に立ち寄った次の日から、様子がおかしい子が出始めたんだよな……」


「まさか、あの荷にでも何か……」


声を潜めた噂話は、そこで途切れた。ミツキは聞こえないふりをしながら、内心で眉をひそめる。東の隊商。関係あるのかないのか、今の自分には確かめようもない。それでもその一言だけが、耳にこびりついて離れなかった。


そのまま診療所へ向かう道すがら、広場の隅に、黒く焦げた木の柱が何本も積み上げられているのが目に入った。取り壊された跡らしく、周りにはまだ灰がうっすらと残っている。


近くを通りかかった女が二人、声を潜めて話していた。


「先月も、隣街で一人火にかけられたそうよ。魔法を使ってるのがバレたとかで」


「ああ恐ろしい。魔女なんて、どこに潜んでいるか分かったもんじゃないわね」


足が、止まった。


魔法を使っただけで、燃やされる。

――翁が言っていたことは、比喩でも誇張でもなく、そのままの意味だったのだ。喉の奥が、急に渇いた気がした。


遠くに、診療所の白い壁が見えてくる。だが、昨日とは何かが違った。壁の前に、人だかりができている。最初は遠目にただの人の塊にしか見えなかったそれが、近づくにつれて、輪郭をはっきりさせていった。


杖をついた老人。青ざめた顔で子どもを抱く母親。ぐったりとその場に座り込む者。誰もが苦しげに咳き込み、うわ言のように何かを呟いていた。


「……水が、苦い……」


「……底から、誰かが呼んでる……」


ミツキは列に沿って視線を走らせた。誰か、見覚えのある顔がいないか。昨日、あの威勢のいい声で果物を売っていた少年の姿を、無意識に探していた。


(……いない、か。それとも、もう診てもらった後なのかな)


見つからないことに、少しだけ安堵する。だが、列の長さを見る限り、この街で何かとんでもないことが起き始めているのは間違いなかった。


ミツキは列の隙間から診療所の中を覗き込んだ。中では、あの少女が休む間もなく走り回っている。棚の薬瓶はほとんどが空になっているのが、外からでも見て取れた。


「誰か、水を……お願い、水だけでも……!」


列の奥から、掠れた声が聞こえた。彼女が水瓶を傾けるが、出てくるのはわずかな滴だけだ。舌打ちを堪えるように唇を噛み、空になった瓶を握りしめていた。


(あ……水!)


思いついた瞬間、もう足が動いていた。近くに井戸があったはずだ。


ミツキは井戸を探し当てると、水を汲めるだけ汲んで木桶に注いだ。腕がすぐにぱんぱんになったが、構わず診療所まで運ぶ。


「はい! これでいい?」


扉を開けて声を上げると、彼女が驚いた顔で振り返った。


「お、お水!? そんな重いものを……」


「まあ、腕はプルプルですけど。筋トレだと思えば平気です!」


肩で息をしながら笑ってみせると、張り詰めていた診療所の空気が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


「どうして、こんなことまでしてくれるの?」


問われて、ミツキは少し考えてから答えた。


「だって……困ってる顔してましたから」


それ以上の理由は、自分でもうまく言葉にできなかった。ただ、目の前で苦しんでいる人を放っておくという選択肢が、最初からなかっただけだ。


彼女は、何かに気づいたような顔で少しの間ミツキを見つめていたが、やがて小さく頭を下げた。


「……ありがとう」


その一言に、ミツキの胸の奥が、また小さく疼いた。


(この子、絶対に無理してる)


薬棚も水も底をつきかけているのに、それでも一人で列の全員を診ようとしている。誰かに助けを求めることすら、この子はきっと苦手なのだろう。


――――


その日の夜、宿の寝台に横になっても、ミツキはなかなか寝つけなかった。目を閉じるたびに、疲れきったあの少女の横顔がちらついて離れない。


(あの子、今日もまだ起きてるのかな)


気になって、ミツキは寝台を抜け出し、窓辺に腰掛けた。診療所の方角に目を凝らすと、案の定、窓に灯りが一つだけ残っているのが見えた。他の灯りはすべて消え、あの部屋だけが、ぽつりと夜に浮かんでいる。


(……こんな時間まで? まだ診てるってこと?)


さすがに休んだ方がいいのではないかと、ミツキは柄にもなく心配になった。


胸騒ぎに突き動かされ、ミツキは宿を抜け出し、診療所の見える路地まで足を運んだ。物陰から窓の様子をうかがうと、閉められた窓のカーテン越しに、淡い緑の光がゆらりと揺れているのが見えた。


(あれは……)


魔法だ。それも、ただの心得程度の技ではない。夜更けに、こっそりと。誰かを救おうとしているのだと、ミツキにはすぐに分かった。それが誰なのかまでは、すりガラス越しでは窺い知れなかったが、こんな時間まで、人目を忍んでまで使うほどだ。きっと、それだけ差し迫った容体の患者なのだろう。


その時、すぐ近くの茂みが不自然に揺れた。ミツキが視線を向けると、一人の人影が診療所の窓を覗き込み、次の瞬間、弾かれたように走り去っていくのが見えた。


(……もしかして、見られた?)


あの人影が何を見たのかは、考えるまでもなかった。

この街で魔法を使っているところを誰かに見られる。それが何を意味するか、ここ数日の光景を見てきたミツキには、痛いほど分かっていた。


嫌な予感が背筋を這い上がる。ミツキは追いかけようか迷ったが、その人影はもう闇に紛れて見えなくなっていた。


(まずいよ、これ……どうしよう)


このまま黙って見ているだけでいいのか、それとも今すぐ診療所に駆け込んで警告すべきか。迷ったのは、ほんの数秒だった。


(……行かなきゃ……)


ミツキは意を決して、診療所の扉を叩いた。


しばらくして、扉がわずかに開いた。隙間から覗いたのは、あの少女の疲れきった顔だった。


「こんな時間に……何か、急病――」


言いかけて、少女の目が見開かれた。


「あ……貴方は昼間の。水を、運んでくれた……」


「うん、そう。自己紹介がまだだったね、私ミツキっていうの」


「こんな夜更けに、どうして……」


戸惑う様子を見せながらも、少女はミツキを中へ招き入れた。診療所の中には、まだ夜更けの治療の名残なのか、微かに緑がかった魔力の匂いが漂っている。灯りが一つだけ点いた薄暗い部屋で、少女は椅子を勧めることもなく、警戒したような目でミツキを見た。


「時間もないし、単刀直入に言うね」


ミツキは相手の目をまっすぐに見て言った。


「今すぐこの街を出た方がいい。あなたが夜中にこっそり"治癒"してるところ、誰かに見られてる。多分、密告されるよ。……貴方、魔女なんでしょう?」


少女の顔から、みるみる血の気が引いていった。


「……知って、いたんですか」


「丁度窓の外を通りかかったからね。追いかけようとしたけど、間に合わなかった」


少女は唇を噛み、じっと床の一点を見つめた。長い沈黙の後、絞り出すように呟く。


「……いつかは、こうなると思っていました」


「だったら」


ミツキは一歩詰め寄った。


「私と一緒に出よう。何も持たなくていいから、今すぐ――」


「できません」


短く、けれどきっぱりとした声が遮った。


「今、あの列に並んでいる人たちを置いて、私だけ逃げるなんて……そんなこと、できません」


「でも、このままじゃ、火炙りにされちゃうよ?」


「分かっています。分かった上で、ここに残ります」


少女は震える手を胸の前で握りしめながら、それでも視線を逸らさなかった。


「私は治癒師です。目の前で苦しんでいる人を見捨てて、自分だけ助かるような真似は……できないんです」


「……そんな、でもっ!」


思わず声を荒らげたミツキに、少女はびくりと肩を震わせた。それでも、頷くことはなかった。


「……あなたの言うことは、正しいと思います。頭では、分かっているんです。それでも」


少女は自分の両手を見下ろした。


「この手は、人を治し救うためにあるんです。逃げてしまったらあの日、私が魔女になった意味も……あの時のベルゼブブ様との契約も……」


「……」


ミツキは言葉に詰まった。目の前の頑なさに、それ以上強く出られなかった。押し付けようとすればするほど、彼女の何か大切な部分を壊してしまいそうな気がした。


「……分かった。もう、無理には言わない」


そう答えるのが精一杯だった。ミツキが肩を落とすと、少女はふと表情を和らげ、ミツキに向き直った。


「……こんな時に、まだ名乗ってもいませんでしたね。私、エリシェヴァといいます」


「……エリシェヴァ」


その名前を、ミツキは確かめるように口の中で繰り返した。


「……分かった。今夜は、これ以上は言わない。でも、危なくなったら――絶対に、逃げてよね」


「……ええ。ありがとう、ミツキさん」


エリシェヴァの微かな笑みに、ミツキは何も返せなかった。頷くことしかできないまま、後ろ髪を引かれる思いで診療所を後にする。


宿への帰り道、夜風が妙に冷たく感じられた。


(本当に……大丈夫だと良いのだけれど……)


ミツキは診療所の灯りを、もう一度だけ振り返る。部屋はまだ明るいままだった。

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