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第1話 診療所にて


──鐘が鳴っていた。それは祈りを告げる鐘ではなく、死を告げる鐘だった。


どうして、こんなことになってしまったのだろう。背後で縛られた手首の痛みに耐えながら、エリシェヴァは胸の内で問いかけた。つい数日前まで、彼女は小さな診療所で人々を救おうとしていたはずだった。病に苦しむ者を癒し、飢えた子どもに手を差し伸べる。ただ、それだけのことだった。


それなのに今、自分は火刑台の上に立たされている。熱を帯びた風が金髪を揺らし、薄れゆく意識の中で、エリシェヴァの脳裏に「あの日」の光景がよみがえった。


 ——数日前





石畳を踏みしめるたびに、祈りの声が耳に流れ込んでくる。


 黒いマントの裾を翻しながら、ミツキは石畳の大通りを進んでいく。マントの下からのぞく赤いドレスは、旅の埃で裾が汚れていたが、それでもこの陰鬱な街並みの中では、やけに鮮やかに映えて見えた。黒髪に挿した紅いツバキの髪飾りが、歩くたびにわずかに揺れる。


  聖レクス市に足を踏み入れてから、ミツキはまだ数分も歩いていなかった。それなのに、これまで通ってきたどの街よりも、この街の空気は濃かった。


(翁は「シギルを持つ魔女がいるはずだ」としか言ってなかったけど……)


夢の中で聞いた声を思い出す。行き先も、探すべきものの正体も、翁はいつも最低限のことしか教えてくれない。頼りない道しるべだが、それでもミツキにとっては数少ない指針だった。


(……まあ、いいや。とりあえず、この街がどんな所か見てみよう)


考えても仕方のないことは一旦置いておいて、ミツキは物珍しさに任せて周囲を見回した。

大通りの先、広場の中央に、剣を掲げた男の巨大な石像がそびえていた。その足元に、大勢の人々が集まっている。


「昔々、この街は魔王アスモデウスに支配されておった。女を狂わせ、互いに争わせる地獄じゃったそうな。それをお救いくださったのが、我らが英雄アダムス様──」


石像の前で語る老人の言葉に、周りの子どもたちが目を輝かせる。


「スゲー!」


「さすがアダムス様!」


(……アダムスか)


その名前を耳にした瞬間、ミツキの胸の奥で何かが小さく引っかかった。教皇アダムス。この世界の教会組織の頂点に立ち、大陸の大半の国々を信仰の名のもとに従える存在。

 この街を歩くほどに、その名前が重みを増していくような気がした。


広場を離れ、教えられた通りの道を辿って、ミツキはその日の宿を探すことにした。


――――


「一部屋、お願いします」


宿の扉をくぐると、恰幅の良い主人が愛想よく出迎えてくれた。だが、旅の目的を尋ねられて「特にないです、色々見て回ってるだけで」と答えた瞬間、主人の眉がわずかに動いた。


「へえ、物好きなお嬢さんだ。……ま、今のご時世、あてもなく旅する人間なんて珍しいがね」


言葉の端に、微かな警戒がにじんでいた。ミツキはそれに気づかないふりをして、案内された部屋へと荷物を下ろした。


夕食の席は、食堂を兼ねた広間だった。数人の宿泊客が、静かに食事を摂っている。隣のテーブルでは、年配の男が連れの若者に何やら言い聞かせていた。


「いいか、この街に来たら、まず教会に顔を出すんだ。祈りを怠るなんて、絶対にするんじゃないぞ」


「分かってるよ、父さん。それより、そのアスモデウスって魔王の話、本当なのか? 街を女を狂わせる地獄に変えたって」


若者の問いに、年配の男の顔から一瞬で表情が消えた。


「……その名前を、軽々しく口にするんじゃない」


「え……」


「うちの婆さんが、まだ幼い時分に聞かされた話だそうだ。その婆さんが、死ぬ間際まで魘されていたよ。もう五百年も前の出来事だっていうのに、消えずに語り継がれてるんだ。……それだけの傷を、この街は負ったんだよ」


若者は気圧されたように黙り込んだ。


その様子を眺めながら、ミツキは黙々とスープを口に運んでいた。


(……みんな500年前の出来事を怖がってるみたい。そういえば翁が言ってたっけ)


――五百年前、魔界の魔王たちが人間界へと雪崩れ込み、多くの街や村が焼かれた。その時、教皇アダムスと教会の者たちが、天上神から授かった力で立ち向かい、長い戦の末に勝利を収めたのだと。


(あの話、本当だったんだ)


翁の声は、あの時どこか他人事のような響きだった。だが目の前の親子を見ていると、それが遠い昔話ではなく、今もこの街の骨の髄まで染み込んだ傷なのだと分かる。


(アスモデウスっていうのも、多分その時侵攻してきた魔王の一人なんだろうな)


年配の男の声は、最後まで低いままだった。婆さんの話をする時の、あの震え方。作り話をする人間の声ではなかった。


スプーンを持つ手を止め、ミツキはもう一度、店内をぐるりと見渡す。石像の前で祈っていた老人も、この親子も、街を歩いていた誰もが、同じ震えを抱えているのかもしれない。


「お嬢さんは、どこの生まれだい?」


不意に話しかけられ、ミツキは一瞬言葉に詰まった。


「え、あ……ええと、ずっと遠くの――」


答えかけて、口をつぐむ。自分の生まれた場所を、この世界の言葉でどう説明すればいいのか、とっさに思いつかなかった。


「……遠く、としか言いようがなくて。すみません、変な言い方で」


誤魔化すように笑うと、宿の主人は特に気にする様子もなく「そうかい」とだけ返して、他の客の元へ戻っていった。


(危なかった……)


胸を撫で下ろしながら、ミツキは残りのスープを黙々と平らげた。


その夜、寝台に横になっても、なかなか寝つけなかった。天井を見上げながら、今日一日で見聞きしたものを、頭の中で整理する。


熱心な祈り。魔王への根深い恐怖。そして、その両方を作り出した、教皇アダムスという存在。


(この街のどこかに、シギルを持つ魔女がいる……はず、なんだけど)


手がかりは何もない。ミツキは天井を見つめながら、今日出会った人々の顔を思い返した。


夕食の席で聞いた、あの年配の男の強張った横顔。五百年も前の傷を、今も自分のことのように語っていた。街を歩く人々の祈りも、あの熱心さも、ただの盲信ではなく、本当に大切な何かを守ろうとしているように見えた。

そう思うと、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。ただ、この街のどこかにいるという「シギルを持つ魔女」が、今この瞬間もどこかで、同じように誰かの重みを背負っているのかもしれないと思うと、早く見つけてあげたいという気持ちが強くなった。


そう自分に言い聞かせながら、ミツキはやがて浅い眠りに落ちていった。


――――


翌朝、市場を歩いていると、店主たちの立ち話が耳に入った。


「聞いたかい、あの診療所の話。あの子、どんなひどい傷でも、あっという間に治しちまうんだって」


「まさか、薬草だけでそんな。……眉唾じゃないの」


(薬草だけで、あっという間に治す?)


その一言に、ミツキの中で何かが引っかかった。翁の言うシギルを持つ魔女――強い契約の力を持つ者は、その痕跡を完全には隠しきれないと聞いている。もしかしたら。


教えてもらった通りに歩いていくと、こぢんまりとした診療所が見えてきた。


(よし、確かめよう)


深呼吸を一つしてから、ミツキは扉を叩いた。


「熱があって……少し、ふらふらして」


出迎えてくれたのは、金髪の少女だった。柔らかな物腰の奥に、常に何かを警戒しているような、張り詰めた圧を感じさせる人だった。


椅子に座らされ、手首を取られる。脈を確かめられているあいだ、ミツキは意識を研ぎ澄ませていた。指先の触れた場所から、翁に授かった感覚が、わずかな魔力の残滓を拾い上げる。


(これ……)


ただの治癒の心得を持つ薬師の手ではない。もっと深く、もっと根の張った力の気配だった。


(……この人だ)


迷いのない実感が、一瞬で胸に落ちてきた。同時に、脈を数えていた彼女の指が、ふとその動きを止めた。眉がわずかに寄り、視線がミツキの顔から手首へ、手首から顔へと往復する。何かがおかしいと、気づいたような顔だった。


(あ……バレる)


「……体調は悪くないと思いますよ。少し休めば大丈夫です」


静かな、けれど確信のこもった声だった。


「え、バレました? やっぱり隠すの、下手なんですよね、私」


とっさに苦笑いでごまかしながらも、ミツキの内心は別のことでいっぱいだった。


(この人、絶対にネファスの魔女だ)


「……では、なぜ仮病など……冷やかしですか?」


警戒を強めた声に、ミツキは慌てて首を振った。


「ち、違います! ここ、街で評判の診療所だって聞いたから。ちょっと見てみたかったんです。その……安心できる場所かなって」


半分は本当だった。もう半分――この人の力の正体を確かめたかったという理由は、まだ口にできなかった。


差し出された蜂蜜湯を受け取り、一口飲む。


「甘い……!」


素直な感想がこぼれた瞬間、ふと胸の奥に小さな痛みが走った。誰かにこんな風に、何気なく優しくされたのは、いつ以来だろう。その痛みを誰にも気づかれないよう、ミツキはすぐに笑顔を作り直した。


「また、来てもいいですか?」


「え?」


「旅って孤独ですから。ここにいると、少し落ち着く気がして」


「……好きにすればいいです」


素っ気ない返事だったが、拒絶の色はなかった。ミツキは頭を下げ、代金を払って診療所を後にした。


扉を閉め、路地を少し歩いたところで、ミツキは足を止め、小さく息を吐いた。


(見つけた。あとは、どうやって近づくか)


契約したこと自体を、誰にも知られたくないみたいだった。あの目の奥にあった警戒は、簡単には解けそうにない。


(……それにしても、あの子)


診療所いっぱいに満ちていた薬草の匂いや、几帳面に整えられた棚を思い出す。誰にも頼らず、一人であの場所を守り続けてきたのだろう。ネファスの魔女だからとか、翁が探している相手だからとか、そういう理由を抜きにしても、少しだけ、あの子のことが気にかかった。


(明日も、様子を見に行こう)


そう決めて、ミツキは市場の喧騒へと足を進めた。東の空には、まだ気づいていない不穏な影が、ゆっくりと近づいてきていることも知らずに。 

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