独り
【五月一日 十七時】
私は四時間近くピアノを弾き続けていた。不安と恐怖をぶつけただけの音、その音は弾いている私自身が一番汚いと自覚している。
ぶつかり合うバランスを失った一つ一つの音。不協和音と呼ぶに相応しいだけの音。ピアノの音は一番勝紀が嫌がりそうなものなのに、一度も文句を言われたことはない。私がこんな風に雑音を弾き続けても、これは勝紀の許容範囲なのだろうか。私自身でも不快に感じる音なのに、勝紀の音楽家としての何かがそれを許すのかもしれない。
「やっぱりやじゃ……どして私なん……」
私はピアノの鍵盤を全ての指で叩いた。ジャーンと調和の取れていない音が響く。
こんなことでしか自分の思いを吐き出せない自分が嫌になる。ちゃんと拒否出来ない自分が嫌になる。それでいつも自分の首を絞めて、誰にも言えずただピアノに投げ捨てる。それでどうにもなる訳でもなく、ただ時は流れていく。嫌がらせのように。
私は、鍵盤蓋に自分への怒りをぶつけた。ガンッと音を立てて、蓋は閉まる。物に当たってもどうしようもないことくらい理解していた。
窓際にあるベットに私は飛び込む。枕で顔を覆い、叫んでみる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
私の叫び声は枕に吸収されて消えていく。私の脳裏に次から次へと浮かぶのは人々の顔。私のCDを買ってくれた人、私の仕事を手伝ってくれる人、大学の先生、高校の先生、クラスメイト、友達、そして翔太。皆が私を蔑み嗤う。私を指差して、馬鹿にする。
全部私の妄想、だけどそれがいつか現実になる日が来るのではないか、いや来るんだと震える。
「夢だったらいいのに……」
思わず呟いてしまった。今この時だけじゃない、歩んできた人生全てが夢だったら良かった。まだ私はこの世に生まれ落ちる前の魂で、来世について学んでいる所……目が覚めたら、真っ白な空間が広がっていて、温かい場所に帰る。それを望んでも望めない。だって現実だから。もう選んでしまったものは戻ることが出来ないから。
「行きたくない……」
次に思ったのはそれだった。
行きたくない、それは迫りくる運命の時に私が正気でいられる自信がないから怖い。外でそんな姿を晒したくない。本当は寂しいし、翔太と過ごせる時間だから行きたい。だけど心が重い。私には出来ない。お姉ちゃんの普段の通り過ぎる表情も見たくない。
どうして私だけがこんな目に、どうして私だけが苦しむの、どうして私に全て押し付けるの。
言えない、伝わらない不満が溢れ出る。断る勇気があれば、断ることが出来たら、今更もう遅い。お姉ちゃんのあの目は本気だ、嘘じゃない。
でも自分で自分に疑問が残っていることがある。しかし、それを考えれば自分が恐ろしくなる。だから考えるのを止める。
ボーンボーン、と今まで掻き消されていた音が響いた。
「おーい! 春紀! おるんじゃろ? なんしとん、はよ出て来いよ~!」
翔太がそれと同時に部屋のドアを叩く。
「行かん!」
私はドアの向こうの翔太に聞こえるように強く叫んだ。
「は!?」
「行かん!」
「なんでや!?」
ガチャガチャと鍵の音が響く。翔太が部屋を開けようとしたんだろう。
「おい、開けろよ!」
「いいけぇ二人で行ってきんさいや!」
「はぁ!? 何で急に!」
「食欲なくなったけぇ、気分悪いし。じゃけ、もうほっといて!」
私は毛布を被る。
「ヤベェのでも食ったん?」
翔太は心配そうにそう問いかけてきた。
止めて、止めてよ、そんなに優しくしてこないでよ。
「ま~体調不良ならしょーがないかなぁ。何かあったらすぐ電話するなりしろよ! じゃあな!」
翔太の去っていく足音が聞こえた。途端に涙が溢れ出る。心の奥底の嘆き、それを独り吐き出した。




