睡眠薬
【五月一日 二十一時】
「あ、春紀。おったん? おったんじゃったらどうしてご飯食べに来んのん。おらんと思って用意しとらんよ」
お母さんは食器を洗いながらそう言った。
「ごめんなさい……でもお腹空いとらんけ」
「あっそう、ならいいわ」
いいんだ……と少し悲しい気持ちになる。無関心というか、どこか距離を感じるのがお母さんだ。幼い頃は、私が嫌いなんじゃないかと悩んだりもした。
今は不器用な人だと分かっているからそう思うことはないが。
「お母さん」
「何?」
鬱陶しそうにお母さんは視線だけをこちらに向ける。
「私も洗い物手伝おうか?」
「いい。それよりお風呂洗ってきて」
「……分かった」
今この家に優しくしてくれる人なんているはずがない。私のちょっとした甘えは一瞬にして玉砕された。
***
【同日 同時刻】
「は~」
浴槽の中を洗うのに、しゃがんだような態勢でやるのはかなり疲れる。まだ二十三歳なのに腰に来て痛い。さらに、人が一人暮らせそうなほどの広さのお風呂場で、まだ床の掃除が残っていると思うと心がしんどい。昔は広くて自慢の場所だったが、広ければいいってもんではない。
六十代の母は、いつもこれを掃除しているのだ。もっと楽にしてやりたいけど、どうしたらいいのだろう。
「真っ白……カビとかも生えとらん」
壁と浴槽の隙間とか普通は茶色いカビがあったりもする。現在一人暮らし中の私の家のお風呂場もカビがちょこちょことある。それなのにこのお風呂場には見当たらない。何か細工を施しているのだろうか。
そんなことを考えながら、浴槽を専用のスポンジでゴシゴシ洗っていた時だった。
「あー食った食った!」
玄関の開く音と同時に翔太の明るい声が聞こえた。
「とっても美味しかったわね!」
「ですね~! てかあいつもう大丈夫なんかなぁ……」
「そうねぇ折角翔太君がいるのにこんなんて、何かあるとしか思えんもん……やっ!」
ドサッと少し重い物が落ちる音がした。私は手を止めてお風呂場から出る。そして、洗面所のドアを開けて顔だけ出してみた。
すると、床にはお姉ちゃんの黒い鞄と茶色の小瓶が落ちていた。
「これ……睡眠薬っすか? 寝れないんすか?」
翔太が小瓶を拾い、マジマジと見ながら言った。
「あー、うん。不眠症なんよ」
「へー俺も貰っていいすか? 実は最近俺も寝れなくて……」
「別にいいけど……はい」
お姉ちゃんは翔太から睡眠薬を受け取ると、蓋を開けて何粒かを翔太に渡した。そして、落ちていた鞄を拾ってその中に瓶を入れた。
「お帰り、二人共」
とりあえずこのままでいるのもあれなので、私は二人に声をかけた。
「あれ、思ったより元気そうじゃんか」
翔太はニコッと笑った。
「食欲がないだけじゃけぇ」
「えーじゃ、飯食っとらんのん」
「うん」
「この子にあ~んして食べさせてあげてや」
「お姉ちゃん、本当にそういうの止めてや」
「ちょっと春紀、あんた掃除終わったん?」
お母さんが手を洗いながら、キッチンから現れた。その言葉で体が冷えていく。やると言ったことをやっていない時、お母さんは鬼へと変わる。今も徐々に角が生えてきているみたいだ。
「もう少し!」
私は顔を引っ込めて、慌ててお風呂場に戻った。




