エピローグ『想いの力』
カリクが目を覚ましてから一週間。ようやく帰宅が許される程度になり、サリア、マリー、トルマと共に、キュールへと帰ることになった。ニックの手配した車に乗り、西門までやってきた。そこには、首都に残る面子がいた。車を止めてもらい、挨拶を交わす。他とも会話していたが、カリクにかけられた言葉は、
「また、しばらくお別れだ。今月中に、一回は帰れるかもしれないが、いかんせん移行時期になるから厳しいと思う。母さんを頼むぞ、カリク」
「じゃあな、カリク君。俺っちは俺っちなりに頑張るから、そっちも頑張れよー」
「なんていうか、色々悪かったな。でも、軍王に勝ったとはいえ、俺はお前に勝ってるから、俺が暫定一位な。リベンジは歓迎だぜ」
「正直、ここまでとは思っていなかった。おかげで、私は今ここにいられる。礼を言う。ありがとう。ただし、サリアを泣かせたら、容赦しないぞ」
だいたいこんな感じだった。カリクは、肩をすくめたり、言い返したりと、個別に応えた。
「じゃあ、また会いましょうね。本当にありがとうございました!」
最後にサリアがそう伝えて、カリクたちは、首都組と別れた。
どんどん小さくなっていくカリクたちの乗る車を、門外に出て見送っていると、ガヌが口を開いた。
「いいんですか、ニック少将。自分の目の届く範囲にご家族を置かないで。軍王はもういないですから、人質にされる心配ももうないでしょうに」
「……いいのさ。首都にいてほしいっていうのはあるんだが、サリアの能力は、あまり広めたくないんだ。今回の一件でかなり流布しちまうだろうが、それでもこれ以上知られるのは避けたいのさ。それに、一緒にいることはすべてじゃない。家族のために、できることをやるだけだ」
彼の問いに、ニックは淀みなく答えた。強い信念が、心にある。
「家族ね」
ガヌは、唯一の肉親である弟のレインへ目をやった。ジーニアスの事後処理への協力を申し出たため、首都に残ったのである。
「なんだよ、兄貴」
「いや、なんでもない」
まだ完全に関係が回復したわけではないため、ぎこちないやり取りになる。
「……まだ、完全には心は許し切れてないけど、たぶんまた兄弟になれると思うぜ。今度は、裏切らないでくれよ、兄貴」
すると、レインが淡白に言って、兄の脇腹を叩いた。態度以上に、そこには想いが詰まっていた。
「ああ。二度は間違えない」
受け取ったガヌは、大きくうなずいた。苦しい思いは、もうさせない。
「……なら、もう一度だけ、信じてやるよ、兄貴」
「おう」
そこにいたのは、確かに“兄弟”だった。
「それにしても……」
ポツリと、シルラが口を開く。
「ん、どうかしたのか、シルラ」
尋ねたのは、ガヌだった。シルラは、顎に手を当てながら、答える。
「サリアは、どうしてカリクの危険を察知できたのだろう。“力”を持っているのは、サリアの方なのに」
彼女が引っかかっていたのは、そこだった。サリアから、カリクが瀕死に陥ったとき、彼の声が聞こえたという話を聞いていたのである。
「なんだ。そんなことか。さして難しいことじゃない」
軽く言ってみせたのは、ニックである。穏やかな表情で、続ける。
「想いさ。互いに互いを想い合った結果だろ。“力”なんてなくても、本当は声は届くのさ。誰かを想う声はな」
頭に、カリクとサリアの姿が映し出される。仲良く、笑いあっていた。続けて、マリーが浮かぶ。彼女への言葉が届いている自信が、ニックにはあった。カリクたちにも、その関係が当てはまるに違いない。
「さてと、そろそろ戻らないとな。これからが、本当の試練だ。ついてくる自信はあるか」
話題を移し、三人の方へと振り返って問いかける。。覚悟を、問うていた。
「あるよ。絶対に、俺っちは折れない」
「もちろん。やり遂げてみせますよ」
「私もです。この二人に、後れをとるわけにもいきませんしね」
すると三人は、三者三様に強い意志を見せた。満足し、唇の端を持ち上げる。
「いい返事だ。しっかり、やり遂げてみせろよ」
「「「はっ!」」」
揃って、敬礼をした。
軍を変えるため、ニックは彼らとともに新たな歩みを始める。
門前でカリクを見送ったのち、シルラはガヌに連れられ、基地内の誰もいない訓練場にいた。
「なあ、シルラ」
「なんだ。さっき、ニック少将に意気込みを問われたばかりだろう。息抜きをしている場合ではない」
彼の意図を察しながら、わざと厳しい言葉を浴びせる。それが、いつものことだから。
「分かってるよ。だけど、今だけは見逃してくれ。すぐに終わる」
彼は、苦笑していた。シルラの性格は、よく熟知されている。ずっと、意識し合っていたためである。
「お前、俺と初めて会ったときのこと、覚えてるか」
「……ああ、覚えている。ずいぶんと騒がしくて、言ってることは馬鹿馬鹿しいことばかり。第一印象は最悪だったな」
遠慮なく、当時のことを思い出して応える。心音が、知らぬ間に身体全体に伝わり始めていた。
「奇遇だな。俺も、真面目で融通のきかない、お節介な女だと思ってたから、印象は悪かった」
ガヌも、似たようなことを返してくる。互いに、第一印象は評価が悪かった。
今でも、記憶ははっきりしている。彼と最初に話したのは、この訓練場だった。同じ班になったのである。当初は性格が合わず、いがみ合っていた。
「まあ、そうだろうな。あれから、どれだけ辛辣なことを言われたのか、数えだしたらきりがねーや」
だが、今だにこうして共にいる。嫌ならば、離れればいいのに。
「でも、変に弱いところがあって、放っておけなかったんだよな。すぐヘコむし」
「貴様は逆に、何があっても元気だったな。私のミスを肩代わりしたときは何事かと思ったぞ」
士官学校時代に、訓練中にシルラがへまをしたとき、彼は自分のせいだと主張したことがあった。教官に叱られる彼の背中を見ていたシルラは、まず唖然とし、気づけば彼の隣にいって、教官へ頭を下げていた。
「それなのに、お前は馬鹿正直に本当のこと言っちまってさ。結局二人で大目玉だ。あれは恥ずかしかったね」
ガヌは、懐かしそうに目を細め、訓練場を見渡す。シルラからは、横顔が見えていた。
「俺はな、シルラ。あのあたりから、ずっと言いたいことがあったんだ。事情があって、言えなかったけどな」
「だろうな。いつもは、何も悩みなどなさそうに振る舞っているくせに、貴様はいつも影を背負っていた。この私とすら、一線を引くほどのな」
だから、こちらから近寄ることもできなかった。あちらが、離れていってしまうから。踏み込むことも、できなかった。
「的確なこった。その通りだ。俺は、幸せに“なっちゃいけなかった”からな」
「……レインか」
彼の弟の名を上げる。幸せを拒んでいた理由は、それしかなかった。
「ああ。あいつが、ジーニアスで非人道的な実験に協力させられてるのに、俺が幸せになるなんて、考えられなかったんだ。だから、深くは関わらないようにした。後々、迷惑かけるのも嫌だったからな」
境遇の差による罪悪感から、彼は幸せを拒んでいたのだ。
「なるほど。お前らしい」
シルラは肩をすくめた。軽い態度に反して、責任感の強い彼らしい考え方であった。
「けど、あいつは俺を許してくれた。だから、もう迷う必要もないのさ」
そう言って、彼はこちらを向いてきた。苦悩から解き放たれた不敵な笑みを浮かべていた。全身が、ゾクリと冷える。恐怖ではなく、心地よい感覚だった。
「シルラ。信念が揺らぐほどに、お前が好きだ。一緒に歩いていきたいと思ってる。今までも、これからも」
余計なものがない、シンプルな言葉だった。心の奥深くに、染み入ってくる。余韻に浸るかのように、目を閉じた。彼が自分を待っていることを知りつつ、黙り込む。
「……お前は、どうなんだ、シルラ。答えは、今でなくてもいいんだが」
それに耐えかねて出た彼の言葉に、ため息をついた。言わなくても、分かるだろうと。目を開け、彼へ近づいていく。
そのまま、彼に抱きついた。
「シ、シルラさん……?」
いきなりのことに、戸惑っていた。彼の鼓動を、そして匂いを感じながら、また息を吐く。
「これが私の答えだ。まだ足りないか、ガヌ」
呆れ気味に言った。背中に回した腕の力を強める。ガヌは、長く言葉を失っていたが、
「いや、充分だ。ありがとう」
言葉と共に、抱きしめ返してきた。彼の腕が、背中に回される。今まで越えることのできなかった一線を、越えていた。
ずっと、想い続けてきた存在が、手中にある。超えられなかった壁の、内側にいる。その事実が、ただ嬉しかった。
「悪かったな、シルラ」
「言うな。しばらく黙っていろ。それだけでいい」
「……分かった」
戦いが終わったこれからが大変だろうというのは重々承知していたが、何も不安はなかった。歩みたい人間と、共に歩んでいけるから。
二人だけがいる訓練場は、静かな時を与え続ける。ほんのわずかながらも、濃く優しい時間を。
カリクたちは、三日間かけて、ようやくキュールへと帰ってきた。故郷たる街は、出る前より空気が少し浮わついている。軍王が討たれたという話が、すでに伝わっているらしい。今乗っているのが軍用車だったら、囲まれていたかもしれないが、ニックの計らいで一般車だったため、誰からも気に留められる様子はなかった。
街並みを横目に、サリアが言葉を漏らす。
「なんだか、久しぶりに感じるな。そんなにたいした期間離れてたわけじゃないのに、一年ぶりくらいの気分」
「まあ、色々あったからな。そんな気持ちになるのもしょうがないさ。俺も、似たような気分だし」
カリクも同調した。町を離れてから、あまりにも色々なことがあったのだから、無理もない。
「そういえば、お母さんたちはどうしてますか? 来なかった理由は想像できるからいいんですけど、元気にしてますか」
サリアが目線を落としながら、マリーとトルマに対して尋ねた。両親から嫌われていることを自覚しつつも、彼女は文句一つ口にしたことがなかった。
「元気にしてるだろうさ。厄介な奴がいなくなったとでも思ってるだろ。胸くそ悪い」
彼女に代わって、カリクが悪態をつく。彼女の両親のことは、かなり昔から嫌っていた。
「カリク、そう悪く言わないで。私のこと、育ててくれた人たちなの」
サリアから、穏やかにたしなめられる。腕組みをして、シートにもたれた。マリーとトルマが答えるだろうと、彼らへ目をやったのだが、なぜか黙り込んでいた。
「マリーさん?」
予想外の反応に、サリアは不安げに眉を下げた。保護者二人が、意味ありげな表情を浮かべていたのである。
「……何かあったのか」
カリクが尋ねると、二人は目を合わせた。それから、マリーがゆっくりと口を開く。
「……ええ。カリクがキュールを出てからしばらくして、行方不明になったの。家の鍵がかかっていなかったから、旅行というのはありえないわ」
「行方不明……?」
サリアの顔が一気に青ざめた。
「軍にでも連れていかれたか」
対照的にカリクは、軽い口調だった。どうなっていようと、構いはしなかった。
「分からない。何も情報がないから」
マリーは首を横に振った。続けてカリクは、軍の内情に詳しいであろうトルマへ目線を移す。
「わしを見られても、何も答えられん。ニックも知らんと言っておったしの」
しかし、彼も肩をすくめただけだった。本当に、何も分からないらしい。
「そんな……」
サリアは、そう言ったきり、うつむいて黙り込んだ。彼女の様子を心配しつつ、カリクは他の二人に尋ねる。
「サリアの家に、何も残されてなかったのか?」
「……何もなかった」
かすかに間を空け、トルマが絞り出すように答えた。本当かどうか怪しんだものの、
「そうか」
追及はしなかった。
「そういえば、そしたらサリアは家に一人ってことか?」
ふと頭に浮かんだ、別の疑問を口にした。家に一人というのは、やや不安があった。
「いいえ。女の子が一人暮らしっていうのも心配だから、うちに来てもらうことにしたわ」
「ふーん。うちにね」
あっさりとしたマリーの言葉を、一瞬、簡単に受け入れかけて、すぐにおかしなことに気づく。
「えっ、うちに?」
「そう、うちに」
その意味をもう一度、脳内で噛み砕く。完全に理解したとき、
「はあああああ!?」
さすがのカリクも、大声を上げた。
「だって、ご飯や家事のこともあるのよ。サリアちゃんはまだ学生だし、そんなに無理はさせられないわ。そしたら、うちに来てもらうのが一番いいじゃない」
驚くカリクに対し、マリーは当然と言わんばかりにあっさりとしていた。サリアも、ポカンとしている。
「ちょっと待て。なんでそんなこと勝手に決めてるんだ」
「勝手にって言われても、私はあなたたちの保護者だもの。最善策を実行する義務があるわ」
反論にも、マリーはまったく揺るがない。矛先をトルマへ向ける。
「おい、じいちゃん。あんたも保護者だろ。なんとか言ってくれよ」
「わしからは何もないわい。お前らのことに関してはは、マリーを信頼しとるからの。それに、サリアと住むのは嫌か?」
「んなっ……」
彼の返しに、カリクは言葉を詰まらせた。話を振る相手を間違えたと、心の平静を保ち直して、攻め方を変える。
「けど、サリアの意見が一番大事だろ。それを訊かないで決定するのは、よくないと思うぞ」
「それは確かにそうね。サリアちゃん、うちで暮らすのは、嫌?」
マリーは、すぐさま本人に確認した。少し、戸惑う様子を見せてから、サリアは答える。
「皆さんがよければ、私は全然構わないです」
了承だった。彼女がいいのなら、もうカリクに反対する理由はなかった。
「……分かった。母さんの提案どおりでいいよ。俺も構わないしな」
「はい、決定ね」
マリーは、優しい口調とともに、目尻を下げた。最初から、まとまることが分かっていたようだった。
「それにしても、お母さんたちはどこに行ってしまったんでしょう……」
サリアの言葉で、明るくなっていた空気が冷める。明るくしろと言う方が、無理な話だった。彼女は、優しいのだ。
「……見つかるわ、きっと」
「マリーさん……。ありがとうございます」
そう言うのが、精一杯だった。
家に戻ったカリクは、荷物を置くと、サリアの元へ向かった。彼女は、マリーに二階の空き部屋へ案内されていた。今は、半ば物置にされている。
「ここは、余ってた部屋なのよ。今日は一回私と同じ部屋で寝てもらって、明日空けるわ」
「分かりました。明日、私も手伝いますね」
「ありがとう。とりあえず、今日はよく休んで、荷物を取りに行くのも明日にするといいわ」
「はい。そうさせてもらいますね」
二人が部屋を離れようとしたところで、
「サリア」
カリクはサリアを捕まえた。
「カリク。どうかした?」
振り向いた彼女は、わずかに首をかしげた。長い黒髪が、揺れる。
「疲れてるところ悪いんだが、ちょっとついてきてくれるか」
「……どこまで?」
尋ねてきた彼女の表情は、少しいたずらっぽかった。
「いつものところだ」
ぶっきらぼうに答えた。隣で穏やかに微笑む母親も煩わしい。
「ほら、行くぞサリア」
だが、そこで目線を気にかけはしない。もう、周囲を気にするのはやめようと誓っていた。サリアを、一人にしないために。だから、彼女の手をとった。
「……うん」
彼女は、少し驚いた様子を見せたものの、すぐに頬を緩ませた。こちらが引っ張ってやると、逆らわずについてきた。一緒に、外へと向かう。
助け出した少女の小さな手の温もりが、確かにカリクの手の中にあった。
カリクとサリアが去った後、マリーは居間へと足を運んだ。二人のことは微笑ましかったが、ある件のことが頭にあり、心から喜ぶことができなかった。
居間では、トルマがテーブルに置いたお茶を前に、腕を組んで黙り込んでいた。
「お義父さん。あのことは、サリアちゃんには……?」
向かい側に腰掛けながら、尋ねる。トルマは、一度唸ってから、口を開いた。
「話すべき、じゃろうな。早いうちに。警察から聞くよりは、わしらから話しておいた方がいい。それに、あの子は察しがいい。すでに、わしらが何かを隠していることには、感づいているじゃろうしな。カリクも嗅ぎ取ってるじゃろ」
口調は、重々しい。サリアの義理の両親が消えたのは本当だが、それ以上の事実がある。
「サリアの両親は、おそらく生きておらん。あれだけ、大量の“血痕”を見ている身としては、そう言わざるを得んわい」
サリアの家のリビングが、血で真っ赤に彩られていたのだ。警察の現場検証もすでに終わっている。サリアのことは、旅行中ということで誤魔化したのだが、ほどなく彼女にも警察からの問いかけがくるだろう。首都にいたのは事実なので、ガヌとシルラがいれば、疑いが向くことはない。だが、サリアが受ける精神的なショックは、計れない。
「おまけに、荒らされているのに金目のものは手つかずとなると、目当てはサリアだった可能性が高い。何か手に入れられたのかどうかは、分からんが」
目を閉じ、唇を結んで考え込む。いったい、どんな目的を持っていたのか。
「軍王の仕業ということはないんでしょうか。サリアちゃんが関わっているのなら、そういうこともありえるんじゃないでしょうか」
マリーが、一つ推測を挙げる。だが、トルマは否定的だった。
「いや、それはないとわしは思う。奴にとって大事だったのは、サリアの力じゃ。あの両親が義理だと知っておったようじゃし、殺す必要性がない」
真っ当な意見だった。それに、もし何かしらの行動を嫌がったのなら、マリーたちに何も起きなかったのは不自然である。
「なら、誰が……」
「分からん。ただ、軍王以外の何者かがいると考えておいた方が、無難じゃろうな」
トルマが結論を言うと、沈黙が訪れた。重くのしかかる。大きな脅威は越えたというのに、今度は謎の脅威が現れたのかもしれないのだ。
「せめて……」
マリーが、絞り出すように声を発した。トルマが目を開けて、こちらを見てくる。
「せめて、今だけは幸せな時間を過ごさせてあげたいですね」
「そこは、わしらが心配するところじゃないのう。あの子にとっては、カリクが一緒にいてくれることが、一番の支えになるはずじゃ」
眼前の義父は、口元を少しだけ緩めた。マリーも釣られる。
「そうですね。カリクも、今回の事件で、心構えを改めたみたいですし、あの子たちなら、きっと……」
どんなことがあっても、乗り越えられる。そう信じられることが、救いだった。
心の底にこれからの不安を抱えながらも、今は忘れてカリクはサリアの手を引いていた。外は、夕日の橙色に包まれている。親子連れや小さい子どもたちとすれ違いながら、噴水のある広場へとたどり着いた。暗くなり始めているので、人の姿はまばらだった。水しぶきの上がる噴水の前で、カリクは足を止めた。サリアも、それにならう。手を握り替えて、カリクは振り返った。
「サリア」
「何?」
そこには、綺麗な黒髪を持った、穏やかな笑みの幼なじみが立っていた。彼女の瞳が、唇が、声が、雰囲気が、心を捕らえて放してくれない。先走る想いを抑え、真っ先に言わなければならないことを口にした。
「今まで、悪かった。本当は、そばにいてやるべきだったのに。嫌な思いさせて、すまない」
視線を斜め下へ放る。まともに、彼女を見られなかった。自分がしたことの残酷さを考えると、どれだけ謝っても、足りないくらいなのだ。どんな反応がきても、受け入れるつもりだった。
だが、
「そんなの別にいいよ」
返ってきたのは、至極穏やかな声だった。
「カリクらしいとは思うけど、ね。私が欲しい言葉は、そういうのじゃないよ」
加えて、そんな要求をされた。顔を上げて彼女を見ると、変わらぬ微笑を湛えていた。謝罪ではなく、自分から言って欲しいという言葉。すぐに思いついたし、それに違いないという自信もあったが、ためらいが喉を開かせてくれなかった。
彼女は、何も言わずに待っていた。カリクは、喉で止まっている言葉をどうにか引っ張り上げる。
「俺が言いたいことで、合ってるよな」
大切なことは、まだ深く沈んでいるので、まずそんな問いから入る。ほぼ言っているに等しいのだが、直接口にするのは別物なのだ。
「合ってると思うけど、確かめたいならちゃんと言葉にしないと分からないよ。大変だと思うけど、ね」
カリクの苦労を察して、彼女が気遣いを見せてくる。ただ、この場で必ず話させるという意志が底にあった。
「大変なんてもんじゃないんだがな……」
頭をかき、一息入れた。気合いを入れ直し、伝えるべき想いを絞り出す。
「俺はずっとサリアと一緒にいた。小さい頃からずっとだ。誰よりも、理解してる自信がある」
一度、切った。そこで間が生まれたものの、サリアは何も言わない。静かに耳を傾けている。
「高校に上がったあたりからは、あまり一緒にいなくなったが、嫌いになったからじゃない。ただ、周りの目が気になったんだ。誰が見てても、関係ないのに。そのせいで、寂しい思いをさせてたと思う。だから、サリアが攫われたとき、すごく今までの態度を後悔した。周りを気にして、自分の中の一番大事な感情を、隠しちまったんだからな」
気持ち、彼女との距離を詰める。喉で止まっていた想いは、今やむしろ止まらなくなっていた。
「サリア」
「……はい」
名前を呼ぶと、黙っていたサリアが、応えてくれた。高ぶった感情を、言葉に乗せて、伝える。
「親父や母さんよりも誰よりも、君が好きだ。もう、放れない。放しもしない。ずっと一緒だ。今までも、これからも」
余すことなく、思いの丈をぶつけた。唇を結び、目の前の幼なじみを見つめる。他の何よりも大切な、かけがいのない異性を。本当に、世界に等しい人間を相手にしたくらい、大事で大事で堪らない存在だった。
サリアは、自身の心へカリクの言葉を染み込ませているかのように、目を閉じ、穏やかな表情で黙っていた。やがて、まぶたをゆっくりと持ち上げ、カリクへと微笑んできた。心へと、言葉が飛び込んでくる。
『私も同じだよ、カリク』
瞬間、彼女を強引に抱き寄せた。耳元で囁く。
「“力”じゃなくて、ちゃんと、“声”で、聞かせてくれ」
「……えっ」
驚きと恥じらいの混じった声が漏れる。
「言わないとダメ?」
「ああ。言ってくれないと放さない」
言っても放さないくせに、というつぶやきが聞こえたが、譲歩する気はなかった。やがて、小さな声で、でもはっきりとした言葉が聞こえた。
「好きだよ、カリク」
彼女をさらに強く抱きしめる。これから起きるかもしれない悪い予感はすべて忘れ、幸せを噛み締めた。
必ず守り通す。どれだけ、手を汚してでも。幸せの代償を払うことに、抵抗はなかった。
−完−