懐中時計
執務室。
透き通った陽光が窓ガラスをすり抜け、赤い絨毯を朝の色で染めている。
新しい朝を迎えても、溜まった仕事が消えるわけではない。
目を覚まして一通りの準備を終えると、アーシュはすぐさま仕事に取り掛かった。
だが体は正直だ。
いつの間にか、思考が明後日の方向へと行ってしまう。
外で鳴く鳥達の囀りが爽やかだ。
あまりもの仕事量に現実逃避をしていると、ドアをノックする音が響いた。
「失礼いたします」
マルグリート女史だ。
「お呼びとのことですが」
「今日は公爵夫人である、ローレリア・ブレヒド様に用事があってね」
僅かにキレイな眉を動かすも、彼女はいつも通りの取り澄ました表情へと戻った。
ローレリア・ブレヒド。
それはマルグリート女史の本名。
この名を彼が口にすると状況は一つしかない。
理解してくれたようだ。
例の話であると。
「手駒が揃ったからね、少し予定が早めることにしたんだ」
脳裏に移っているのは、紅い花とアルカナと呼ばれる生物兵器たち。
あれらのおかげで、3年掛けるハズだった予定を前倒しできることになった。
「ブレヒド公には、罪悪感を苦に死んでもらう予定だけど問題は無いかな?」
死の予言とも取れるセリフ。
しかし目の前の少年が、予言のような神秘を口走る事はない事はよく理解している。
すなわちコレは──。
「ええ。こちらは明日だと仰られても動けます」
彼女の準備は既に整っている。
明日でも動けるというのは比喩でも何でもない。
それは貴族として受けた高い教養と、娘を守ろうとする母の執念によるものか。
事実、彼女の準備はすでに整っている。
「ブレヒド公を愛しているって言ったら困って「今日はユーモアのレッスンを中心としましょう」……そう」
どうやら、この冗談は心底お気に召さなかったようだ。
途方もなく冷たい視線が向けられている。
これは半端な嫌い方ではない。
深く追求しない方がよさそうだ。
そのように考え、先程までの会話を無いものとした。
「する事は前に話したのと同じだけど、決行のタイミングは来年に変更させてもらうよ」
再び言い直すとマルグリート──いや、ローレリア・ブレヒドは頷いた。
先程まであった冗談の色が2人の目にはない。
理解しているのだ。
その計画に、大きなリスクが伴うことを。
だが意思の揺らぎはない。
アーシュは手札の強力さを根拠に、ローレリアは生粋の貴族としての矜持を根拠に。
これから訪れる未来を見据えている。
運命の歯車は動きだした。
これまでよりも大きな音を立てて。
国全体を巻き込みながら。
もはや止まることはない。
「では、私は失礼させて頂きます。レッスンを変更するための準備がありますので」
どうやら、先程の話は無かったことにしてもらえなかったようだ。
仕方がない。
苦笑いを浮かべながらも、マルグリート女史を見送ることにした。
ドアの閉まる音と共に、部屋に静寂が訪れる。
彼女が来るまで聞こえていた小鳥の囀りもない。
なんとなく耳に寂しさを感じる。
仕事を再開すれば、じきに忘れるだろう。
だがサボりたいという思いが、その行動を阻害する。
雑念に振り回されながら、僅かな時間を過ごしたところで思い出す。
机の引き出しに仕舞まったままの懐中時計に。
これだけサボったのだ。
もう少しだけ時間を盗ませてもらおう。
そのように考え、懐中時計をイジりだした。
今日は調子がいい。
調整は数分とかからずに終わった。
他の部分も間違いがないか確認する。
大丈夫なようだ。
懐中時計に魔力を込めると、オルゴールのような音色が響き始めた。
これまでとは違う。
記憶の中にある音程を完全に再現していた。
ようやく完成したのだ。
自らの作品をしばらく聞いてみる。
これ以上の完成はない程の出来。
だが、アーシュが浮かべたのは苦笑。
響いているのは、間違いなく記憶の中にあるのと同じ。
それでも満足のいく結果ではなかった。
もう少し感情が揺さぶられると思っていたんだけどね──。
机の上に置かれた懐中時計。
金属が机に触れた時に発した乾いた音。
それが主の心情を表しているかのように感じられた。
机の上で懐中時計が歌い続けている。
もう期待はしていない。
だが未練はある。
アーシュは記憶を重ねていた。
懐中時計のリズムに、今よりも更に幼かった頃の思い出を。
音程はこれで間違いはない。
だが、やはり何も感じない。
過度に期待をし過ぎたようだ。
そのように再度の事実を確認を終えると、今度は未練すら消えた。
窓から外を眺める。
まだ懐中時計の音色は響き続けている。
だが、もう彼の心に届くことはない。
人並みの感情を味わおうと思った。
だがやはり自分は薄情なようだ。
再現したのは、行方をくらませた母に聞かされた子守唄。
少しは、心が揺らぐと思ったのだが。
椅子に深くもたれて思い返すのは、興味を持ったキッカケ。
ブレヒド母娘が視線を交えたときの、温かな瞳が気になった。
次にリフレだ。
親を思い出すとき。
悲しそうではあったが、同時に幸せそうでもあった。
いずれも自分には無いもの。
だからこそ興味があったのだが。
暇潰しで終わってしまった。
──まあ、いいか。
それ以上は、特に思う事もない。
視線を向けた窓の外には、相変わらず荒野が続いている。
1年前には、ブレヒド公爵夫人の葬列がどこまでも続いていた。
だが、今は朝日に照らされた荒野が続くのみ。
この土地に意味を見出す者などいない──アーシュ以外は。
彼は見ている。
荒野から続く大地を。
この領を弄んだ者たちの終わりを。
窓に目を向けるアーシュには、普段と違う美しさがある。
まるで一枚の芸術作品を見ているかのような美しさが。
それを音色で飾る計中時計。
主の関心を失おうとも歌い続けている。
だが、もう主の関心が戻る事はない。
母の子守唄を模した音色であっても、彼の心に届くことはない。
それこそが証。
外道に落ちようとも引き止められる者などいないのだという証左。
否、彼は引き止める者がいようとも、必要であれば外道を歩んだかもしれない。
だがそれは”もしも”の話。
あったかもしれない過去を語る事など、白昼夢に踊らされるのと同じ。
だから目の前の事実に目を向けよう。
彼は変わらない。
敵対者の末路も変わらない。
この国の未来とて──。
しばらく窓の外を眺めた後、アーシュは溜め息を一つ吐いた。
息抜きは十分だ。
再び始まるのは溜まった書類との格闘。
現実逃避したい気持ちはあるが止むを得ない。
頭を切り変えペンを手に取る。
一枚の書類と向き合ってペンを動かし始める。
事務仕事とは、しばらく続ければ余計な事を考えなくなるものだ。
作業ペースを徐々に早めていき、8枚目の書類にサインを記入しようとしたときの事であった。
部屋から、色が一つ抜け落ちるのに気付く。
先程とは部屋の雰囲気が変わった。
物足りないというべきか。
理由は、懐中時計が歌うのを止めただけ。
この事は彼とて分かっている。
だが再び懐中時計に関心を寄せる事はなかった。
仕事の手を動かし続ける。
そのまま時間が過ぎていき、太陽の色が変わった頃。
昼食の時間になって、ようやく懐中時計のことを思い出す。
だが、やはり彼の情が戻る事はない。
再び歌わせることもなく、机の引き出しへと片付けた。
もう彼が懐中時計に歌わせることはないだろう。
それは必要の無いものなのだから。
これで第2部は完結です。
お読み頂きありがとうございましたm(_ _ )m
※後日、エピローグとして第3部に関わる話を投稿するかもしれません。




