8.華麗なる噂話
ローリー・ハートに関する噂はあとを立たない。それはほとんどが非現実的な妄想のようなものであったが、噂を真に受ける者は多くいる。そのせいで本人はときどき苦労しているが、全ては自業自得であるとマシューは思っている。
ローリーが十七歳の頃。ローリーの卒業祝いのために、王妃の弟夫婦がアンタレス国にやってきた。弟夫婦には三歳の娘がおり、彼らの話によると彼女はローリーの肖像画をたいそう気に入っており、彼と一緒にボール遊びをすることをずっと夢見てきたらしい。
だが実際にローリーと対面すると彼女は憧れの従兄と目を合わせず口もきかず、マシューとしかボール遊びをしなかった。ローリーは傷ついていたが彼女は照れているだけだった。
少女は王妃にこっそり打ち明けた。あのね、しってる? ローリー殿下はお花の妖精とお話できるのよ、と。それは、ローリーに憧れる妹をからかおうと彼女の兄たちが吹き込んだ嘘であった。王妃は彼女の純粋さに心打たれた。マシューも正直、可愛いと思った。
王妃はローリーに、あの子にお花の妖精とお話ししてるところを見せてあげたら、と提案した。ローリーは乗り気だった。これ以上あの子をからかうのはやめなさいと苦言を呈したのは当時のアンタレス国王だけだった。
ローリーは少女が近くを通りかかるタイミングを見計らって、廊下の暗がりで月明かりに照らされながらバラの花と会話するふりをしてみせた。彼女の夢を壊したくなかったのか、ただふざけていたのか、絶対に後者だが、それは迫真の演技であった。作戦に協力していた彼女の両親や兄たちまで、自分たちが作り出した出任せを信じてしまうくらいの。
数ヵ月後、彼らの祖国でローリーに関する噂が広まることとなる。言うまでもなくそれはバラと会話できるという噂である。その噂に尾ひれ背びれが付き各国に広まった。思えばあれがローリーに関する意味不明な噂が定期的に発生する引き金だった。
ローリー二十二歳。バラの花を浮かべた湯に浸かり身を清め、バラの花を詰めた枕で眠っているという噂が王都に広まる。
この噂を知ったローリーはしばらく話すことが困難になるほど笑い転げていた。そして国民の期待には応えねばとそれらを実践しようとした。しかし湯に浸かる習慣のなかったローリーはバラ風呂を一度で断念し、バラ枕も寝心地が最悪だったとかで一度でお役御免となった。おまけにそのとき使った花びらを使用人がこっそり町に持って下り高値で売りさばき、この噂話は王都を揺るがす大事件に発展した。売る方も売る方だが買う方も買う方だ。とにかくローリーの気まぐれでたくさんの人間が迷惑をこうむった。
ところでローリーの噂話にはバラの花が絡んだものが多い。そのせいかバラの花、特に赤いバラの花は、世間では彼のシンボルのようになってしまっている。本人もそれを意識していて、執務室や謁見室や寝室にバラを多く飾るよう命じたりしている。マシューはローリーの幼馴染として断言できるのだが、奴はバラの花になど興味はない。しかし自分の噂話を聞くのは大好きだ。それがぶっ飛んだ内容であればあるほどいい。そしてなぜかその噂を実現しようとたゆまぬ努力をする。ここまで説明すればほとんどの人間は感づくと思う。ローリーの人生に起こっている困難のほとんどは奴が自分でまいた種である。
ローリー二十六歳。ウインクで敵を殺せるという噂が外国に広まる。
数ある噂の中でもこれはローリーの大のお気に入りである。彼はその噂をあまりにも気に入り、ウインクで敵を殺すゲームを生み出した。
まず、くじ引きで親を決める。親が誰なのかは親自身しか知らない。親はターゲットを選び出し、ターゲットと目があった瞬間にウインクする。ウインクされた人間は死ぬ。本当に死ぬわけにはいかないので胸に赤いポケットチーフをさす。こうして親はどんどん敵を殺していき、ゲームに参加しているメンバーを全員撲滅すれば親の勝利である。
メンバーが死から逃れる方法はたったひとつ。親を見つけて、そいつに先にウインクをかますことである。その瞬間親は死に、親を殺した人間は親の座を奪うことができる。親を間違えたら自滅する。
一時期ローリーはこのゲームにはまりにはまった。彼は仕事で忙しい自分の護衛たちを誘って、連日ウインクゲームを行っていた。なぜだか知らないが、ゲームの存在を知られてはならないという暗黙の了解があったので、ウインクをし、ウインクを食らい、敗者の証として赤いポケットチーフをさすという一連の動作を彼らは無表情、無反応で行っていた。知らぬ間に胸ポケットに赤いハンカチをさしている人間が増えていくという現象に怯える者は多く、それは何かの予兆か、暗号ではないかという議論があちこちで交わされることとなった。ちなみにマシューもゲームに誘われたが、丁重に断った。後悔したことは一度もない。
ローリー三十歳。幼い頃に記した公約ノートなるものが存在するらしい、という噂が社交界に広まる。これはマシューを笑わせてくれた唯一の噂話である。
なぜなら公約ノートの存在はローリーにとって、赤面ものの黒歴史であるからだ。彼はあのノートを燃やして証拠隠滅してしまいたいと心底願っているだろう。しかしそれは出来ない。公約ノートは今、マシューが保管していて、奴はそれに手を出すことができないからだ。
あれは十四歳のころ。理由は忘れたが、マシューはローリーにひどく腹を立てていた。しかしあの頃はまだものをよく知らず、ローリーのことは敬わなければならないのだと勘違いしていたので、本人に怒りをぶつけることができなかった。
だからマシューはローリーの公約ノートを盗んだ。弁解をするなら、盗んだことを本人に指摘されればすぐに謝って返すつもりだった。しかしなぜかローリーは気づいていないふりをした。物をなくせばいつも「どうしようマシュー」と泣きついてきたくせにあのときは騒ぎすらしなかった。彼なりのプライドがあったのか、結局二人とも引っ込みがつかずにノートの存在は闇に葬られた。より丁寧に言うならマシューの家の引き出しに葬られた。
いざというときのためにあのノートは長く保管しておこうとマシューは考えている。ローリーは賢いので凡人であるマシューがそれを上回るためにはこういう小道具が必要だ。いつかのときみたいに奴が乱心して自滅しようとしたときなどに、ノートの存在をちらつかせて操ろうと企んでいる。当時この方法を思いつかなかったことが悔やまれる。
ローリー三十七歳。新種の吸血鬼だという噂が護衛たちの間で広まる。これは二年前に地方で広まった噂の使い回しである。前回は"新種の"が省かれていた。なぜ今回は新種かというと、護衛たちはローリーが太陽の光に当たっても平気なことを知っているからである。
ある晴れた日の午後、ローリーは窓辺に腰掛け、手鏡で自分の顔を熱心に見つめていた。
「何してるんですか。自分に見とれてるんですか」
昼食を終えて執務室に戻ったマシューは、その光景に触れないわけにもいかず、尋ねた。
今日は先方の都合で予定がひとつ潰れてしまい、本当に珍しいことに、丸一日仕事がなかった。まあ作ろうと思えばいくらでも湧いてくるけれども、あえて忙しくする必要もないだろうということで、今日一日は静かに過ごそうとローリーが決めたのである。
マシューは久々に王宮の食堂でゆっくりと昼食をとった。そして戻ってきたらいきなりこの鬱陶しい景色が目に飛び込んできた。ああ鬱陶しい。あの、ぜひ何があったか尋ねてくださいと言わんばかりの横顔が鬱陶しい。鬱陶しい顔がゆっくりとこちらを向いた。
「いや、私も歳をとったなと思ってなぁ。ほら見ろ、鼻の頭にしみが」
「今朝寝ぼけて机の上にインクをぶちまけて顔面から突っ込んだことをお忘れですか」
マシューの言葉にローリーは目を瞬く。
マシューの何倍も主君に忠実な護衛の一人が、さっとハンカチを取り出してローリーの鼻の頭を拭った。再び鏡を覗き込んだローリーは「あれ……」と小さく呟いたあと、手鏡を護衛の一人に返した。それから椅子に腰掛け、ため息をつく。
「今まで必死に働いてきたけど、やっとひと息つけたと思ったら私ももうおじさんか」
しみじみとしたローリーの言葉を聞いて、部屋に控えている護衛たちはもの言いたげな顔で視線を交わし合った。彼らはローリーを新種の吸血鬼と疑っているので、彼の言葉に思うところがあるのだろう。しかし彼らはできた人間なので、主君の言葉を否定したりしない。ローリーに意見を求められて初めて「いえいえ、陛下はまだまだお若いですよ」などと言ったりするのである。
マシューは彼らみたいに優しくないので面倒な会話には応じない。しかしローリーの歳のとり方について、興味を持っていないというとそれは嘘になる。
正直、三十代のうちはまだ騒ぐほどではないと思う。恐ろしいのは四十代以降である。マシューはこれから先、何年かごとにローリーの吸血鬼疑惑が巻き起こり、その噂は年々大きくなっていくだろうと予想している。
マシューは密かにこう考えている。ローリーは吸血鬼ではなく、悪魔であると。十年前にこの結論にたどり着き、全て合点がいった。
子どもの頃は天使、祝福された子などと言われ、王位を継いでからは英雄、天からの贈り物、神の化身などと、考えつく限りのあらゆる尊いものに例えられてきたローリー。白状するとマシューも、彼には神がかったものがあると思っていた。存在自体が卑怯の極みだし、羨ましいと、何度も思った。
しかしあるときふと気づく。こいつは神様に愛されているのではなく、悪魔に愛されているのではないかと。聖なる者にしては、身近な人間が(特にマシューが)迷惑を被りすぎている。
そう、これは多分呪いだ。何か大きな益を与える代わりに、代償を払わせるのが悪の常。この国は平和を得る代わりに、ローリーという呪いを抱えてしまっているのだ。
ローリーの意味不明な噂に国民が振り回されるのは何故か。呪いである。ローリーの婚約者が次々と困難に見舞われるのは何故か。呪いである。あの美貌は? 呪いである。あの能力の高さも呪いである。国の平和のためには正しく機能するがその他のことにはむしろマイナスなローリーの特徴の全ては呪いである。
「暇だなぁ」
悪魔は暇を持て余していた。働き者の悪魔なので暇のつぶし方を知らないらしい。
「ほらマシュー、攻撃、攻撃」
執務室の扉の側に控えているマシューに向かって、ローリーがぱちぱちとウインクしてきた。ウザい。このウザさも呪いだ。
「この仕事、辞めてもいいですか」
「ごめん、ほんとごめん、謝るから……」
平謝りしたローリーはその後護衛たちにもいくつか呪いをかけたあと、暇つぶしに軍学校に顔を出すことを決めた。執務室に護衛たちを残し、国王が突然軍学校に押しかけてきたせいで慌てる教師たちにも呪いをかけ、新任の教師がいるという情報を手に入れた。しかも軍学校では珍しい女教師だという。ローリーはさっそく、彼女が授業をしているという教室へと向かう。
「いいなぁ。俺も新任の先生の授業受けたいなぁ」
「絶対にやめて下さいね」
「冗談だよ」
「冗談に聞こえない」
教室の前にたどり着く。常識で考えて国王が突然教室に現れるなんて、新任の教師はたまったものじゃないだろう。子どもたちは多分きょとんとするだけだろうが大人はだめだ。確実にパニックになる。
しかしマシューにそれを止める術はない。これは呪いなのだ。だから仕方ない。そんなことを考えながら、マシューは教室の扉を叩く。返事を待って、扉を開く。扉を開いた先にいた女性は、こちらを不思議そうな顔で見たあと、目を見開く。さぁここからはローリーの仕事だ。マシューは何がどうなろうが知ったことじゃない。
しかし待てど暮せど、ローリーが声を発しない。隣を見ると、ぽかんとあっけに取られている友の姿。マシューは、再び教室内に視線を向ける。それから、思わず声を上げた。
「あ」
そうだ。生物学の、女の先生といったら、あの先生だ。雰囲気も髪型も変わってしまっているが、面影がある。間違いない。
「お久しぶりです、先生」
すかさず声をかける。これは嬉しい再会だ。
そこでマシューははっとした。再び隣に目をやる。そこには、彼が王位を継いでからはついぞ見ることができなかった、輝くような瞳があった。そのまなざしが誰に向けられているかなど、確認するまでもない。
マシューは、突然の国王の登場に硬直している教師に向けて、呟いた。
「ああ、先生、お気の毒に……」
呪いの被害者が、またひとり。