雨空と君(2)
「・・・何なんだ、あの女」
季節的な問題か。
それとも精神的な問題か。
どちらにせよ、せめてお礼くらい言えってんだ。
繋はため息混じりに自分のお人好しを後悔した。
もう2度と人助けなどしない。と、自分の中で深い誓いを立てた。
その五分後。電車の中で老人の荷物持ちをしてしまい、自分の性格はおそらく直らないものなんだな。と再認識することになる。
※※※
MISAWA文具カンパニー。
それが黒崎繋の務めている会社の名前だ。
会社に着くと繋にはいつも楽しみにしていることがある。
それは会社に備え付けられたバリスタでコーヒーを飲むこと。
そして事務員である南紗羅と挨拶を交わすことだ。
「おはようございます。黒崎さん。今日は早いんですね」
「おう、おはよう。南」
パソコンのキーボードを弾いていた手を止め、繋の元に振り返る南。
肩まである茶色のショートカットを揺らし、微笑ましくはにかむその姿を見ていると、「さぁ、今日も仕事を頑張るぞ」という気持ちになるのはおそらく俺だけではないだろう。
その証拠に南はこの会社一のアイドルというポジションを得ている。
会社の上司や後輩も彼女の美貌には一目置いており、皆南のことを慕っている。
だが、彼女がアイドルという異名を得ているのは何も可愛いからだけじゃない。
仕事も優秀。性格も完璧。しかもこれに関しては俺が思うだけだがスタイルも抜群ときている 。
長年この会社に腰を下ろしているお局でさえ、彼女の完璧さには嫉妬すら覚えないくらいだ。
しかし、不思議なことに彼氏はいない。
俺達に伝えていないだけかもしれないが、裏表のない彼女の性格だ。
おそらく本当に居ないのだろう。
まぁ、それに俺にとってもその方が好都合なんだけど。
「今日はまだ井上さんとかは来てないんだな」
井上とは繋の上司であり、会社で繋と一番親しい先輩でもある。
「はい。今日はいつも通り私が一番乗り。そして珍しいことに黒崎さんが二番乗りでした」
「珍しいことには余計だ。・・・と言いたいところだが、実際その通りだもんな」
俺はいつも出社時刻十分前には到着しているが、この会社の従業員は皆二十分前には到着していることが多く、俺はいつも肩身の狭い思いをしていた。
「家が遠いから仕方ないだろ。それに遅刻しているわけじゃないから罪悪感もない」
「まぁ、確かにそうですね。それにこうしてたまに朝早く来てくれた方が、喜びも増しますから」
立ち上がりバリスタに向かいコーヒーを入れながらこちらに背を向けて南は呟く。
繋はその言葉を聞き逃さない。
「・・・喜びが増すってのはどういう意味だ?」
「そこはご想像にお任せします」
・・・全く、こういうところがこの子の気を持たせるポイントなんだろう。
正直なところを言うと俺は南紗羅のことが好きだ。
どこが好きなのかと言われれば答えようがない。
少しキザかもしれないが、そう考えてしまうほどに俺は南のことが好きだからだ。
初めて南紗羅を好きと認識したのは南がこの会社に就職してきて三ヶ月が経った頃。
忘年会の帰りに南と一緒に帰っていると、南があることを俺に尋ねてきた。
『ーー先輩って、チョコ好きですか?』
別に甘いものが嫌いではなかったので俺は黙って頷いた。
すると南は「なら、良かった」と鞄から徐に板チョコを取り出したのだ。
包み紙も向かず、豪快に半分に割ると南は「おっきい方食べていいですか?」と一言。
これに対して俺は黙って頷く。
『じゃぁ、はい。どうぞ』
差し出された半分に割れたチョコを眺めながら俺はひとりでに笑ってしまった。
飲んだ後にラーメンやうどんをしめに食べるのなら分かるが、チョコってお前なぁ。
そんな俺の思惑など知ったことがないというように南は自分の分の板チョコを口にする。
それも上品に食べるのではなく、大口で頬張るように音を立てながら。
俺も彼女に続けて小さく一口。
正直大人になってからは板チョコなんてあまり食べたいと思わなかったが、こうして久しぶりに食べてみると意外と美味いもんだ。
隣を見ると南は嬉しそうに板チョコを食べ進めているみたいだった。
すると、俺の視線に気づいた南は頬を赤らめ食べかけの口元を左手で抑える。
『好きなんですよ。お酒飲んだ後に、こうやって食べるの・・・ちょっとはしたないですかね?』
口元にチョコをつけ上目遣いで見上げられたその時、俺は不覚にも可愛いと思ってしまった。
その日から俺は南のことを意識するようになった。
そして年月を重ねるほどに、俺の南に対する恋心は増していった。
もしかしたら南も俺の気持ちに気づいているかもしれない。
だが、お互いにそんな話題になることはない。
それに直接聞いて勘違いだった場合に気まずくなるし、そもそもそんな勇気を俺は持ち合わせてはいない。
その時、プルル。と南の机にある子機がなった。
慣れた手つきで受話器を取ると、少し高めの声で電話の対応に応ずる。
タイミングの悪い電話め。
一体相手は誰だ?
「黒崎さん、係長から至急黒曜製品にボールペンのサンプルを持って行って欲しいと言伝です。・・・朝早くから大変ですね」
あぁ、全くタイミングが悪いのは電話だけにしてくれ。
俺は片脇に鞄を抱え「全く、もう少しゆっくりさせてくれよ」とだけ淡白に言い残し、冷めた珈琲を一気に流し込む。
朝一から黒曜製品の爺さん達の顔なんぞ見たくはないが、ここで行かなければうちと黒曜製品のパイプが途切れちまう。
「頑張ってくださいね。黒崎さん」
後ろから聞こえてくる南の声に対し黒崎は後ろ手を振るい返事を返す。
まぁ、朝から南と会話出来たのだ。
これくらいのハプニングは多めにみてやろう。
気だるい気分で押したエレベーターのボタンは、ただカチカチと動いていた。
※※※
ガヤガヤと騒がしい食堂では様々な音が混じっていた。サラリーマンの会話。食堂の従業員の掛け声。この店一押しの唐揚げ定食が揚がる音。様々な音が混ざり合う中でも、俺の溜息は聞こえていた。
「ハァー・・・」
「おい、止めろ。黒崎。今日この食堂に来ただけで溜息6回目だぞ。たくっ、せっかくうまい飯を食いに来たのにこっちまで気が滅入る」
煮魚定食に舌鼓をしながら黒崎に箸を指す男。茶色い髪をワックスでオールバックに固め黒崎と同じスーツを着ている。
「はー、すみません。どうにも今日はあまり良いことがないもので。朝から営業で走らされたり、バカ社長の小言を聞かされたもので」
「まぁ、そりゃ分かるが。今は喜びの昼飯の時間だろう。ここで溜息が出るってことは、何か不満があるってことか?ほら、言ってみろ。後輩想いの先輩が悩みを聞いてやる」
「そうっすね、強いて言うなら・・・こうしてせっかくの楽しい昼飯をなんで南じゃなくて暑苦しい先輩と過ごさなきゃいけないのかっーーて、井上さん!それ俺の唐揚げ・・・」
「お前の気持ちはよーく分かった。今のは慰謝料としてもらっておく」
現在黒崎と喋っているのは井上智と言い、黒崎の上司だ。黒崎とは違い明るい性格で、部下の人望も厚い。もちろん仕事も出来るため女性からの人気も高い。そんな性格からしてか冷めた性格の黒崎を気に入っている。




