平忠盛
「清盛、戻っていたのか。そしてまた都で悪童か。お前はいずれこの私の跡を継ぐ平氏の嫡女。あまり目を汚してくれるなよ」
発せられた声は静かで、人を包み込むような温かいものだった。愛しみや悲しみ、慈しみなどが混じった男はどこか不思議な気配をしていて、現代日本ではまずいないようなそんな人だった。
「親父殿!また鳥羽の院ですか?それほどまでに院に、王家にそのきれいに整えた毛並みの良い尻尾を振るがお好きか!」
清盛は感情を爆発させたかのような激しい怒声で親父殿、と呼んだ男を非難する。彼女が親父殿、と呼ぶのだから眼前の男は平忠盛公か。武士として初めて殿上人になった、時の人。こんな人だったとは思わなかった。
「清盛。王家にお仕えすることが我ら武士の生きる意味。我らは王家の助けなくして存在することはできぬ。力持つものは畏れの対象。いずれ、将門公や純友公のように淘汰される。お前はそれを是として、それでも悪童を貫くか?」
忠盛公は諭すような口調で清に語りかける。しかし、それは彼女にとっては逆効果に他ならなかった。
「淘汰しようとするならば倒せばよいのです。向かい襲い来る羅刹をすべて!武士とは勝つことだと教えてくださったのは親父殿です。ならば、もし院が我らを淘汰しようとすれば院を潰せばよいではないですか!我ら武士こそが天下の実権を握ればよいのです!」
その言葉に忠盛公は片眉をあげて少し驚いてみせた。俺も驚いた。ここまで苛烈な発言をするとは思ってもみなかった。
「清盛!貴様何を言うとるかわかっとるのかぁ!その言葉が外に漏れ出てみろ!我ら平氏は院に潰されるぞ?貴様はまた平氏の一門を破局へと追い込むつもりか!恥を知れ!」
声を発したのは忠盛公ではなかった。その隣に控えていた無精髭を生やした武者だった。年は確実にさんじゅうは超えている。日焼けして赤くなった顔が今は一層赤くなっていた。
着ている服もどこかボロ臭い。隣にいる忠盛公とは雲泥の差だ。麻色のその着物は直垂、と呼ばれる極めて庶民的な服装だ。
「兄上もただ眉を細めるだけではこの阿呆は何も理解せんわ!まして部署の血を引かぬものが武士を名乗り、あまつさえ武士を説くなど不愉快極まりない!」
その武者はまるで清を自分の身体に突如として現れた膿であるかのように酷くバッシングした。その怒りには明らかな敵意と清に対する憎悪が含まれていて、教師が生徒を叱りつけるもの、部下が上司に仕事のミスを怒られるものとはわけが違った。強いていうなら、お前なんて生まれてこなければ良かったんだ、と言っているに近い。直接的な死ね、という言葉を使わないあたりがどこか人を不快にさせた。
「忠正。それは言わぬとかつての約定で決めただろう。それに清とていつかは……理解するやもしれん」
「甘い。兄上はこの阿呆に甘すぎる。この小娘が都でなんと揶揄されているか知っておるだろう!高平氏だ、悪童だ、と我らの名を貶める狼藉三昧。検非違使の者共からは毎度のごとく苦情が飛び交う。挙句今はなんだ?どこの馬の骨ともわからぬ怪しき装束の者共をこの御屋敷に招いたのですぞ!――貴様らはなんぞや?鬼か?それとも出雲の御国の天津人か?」
忠正、忠正。ああ!平忠正!平氏のご意見番!
確か保元の乱で斬首にされちゃう人だったっけ。歴史的側面から見ればただの面汚し。でも今実際に目の前にしてみればただただ平家を思う人だと理解できた。それでも清をここまで罵倒するのはやりすぎな気がしなくもないけれど。
そして何より怒りの矛先が俺と茜に向くのは予想外のことだった。
「えっと……お……わ、たしは、三条夕霧、と申します……。そして背中のは雨宮茜と言います。えー、本日はお日柄もよく……」
「三条?雨宮?なんともおかしな氏よ。装束も面妖な。一体何処より来たりや?」
静かな調子で忠盛公が出身地を聞いてくる。すぐに武蔵、と言うが忠盛公は眉を潜めただけだ。特に何を言うでもない。疑っているのか、信じているのかがわからなかった。
「清。鱸丸同様、お前のもとに下った家人よ。決してぞんざいな扱いはするなよ」
ただそれだけを言って忠盛公は奥へと引き下がってしまった。忠正もそれに追従した。
後に残された俺たちを漂う空気はずしりと重くなり、それが否応なしにその日の始まりを苦汁を飲むものに変えるのでは、と俺に予感させた。
「清。教えてくれ。なんでお前は親父さんと仲が悪いんだ?」
俺は知っている。でも、それはあくまでも俺が客観的視点から見た平清盛という人間の生涯だ。なんでそんなことを今聞いたのか、それは俺が知りたいからだ。知って、そして共有したい。ただ、それを求めるだけのことだ。
「じゃぁ、あんたもあたしに教えなさいよ。あんたらは何なのか、をね」
鋭い視線とともに清は言い放った。俺はノーとも言えずただ首を縦に振った。