河原否定
彼女は一人、桂川にいた。人気がなく、ここにいるのは自分にはまるで関わろうとしてこない世の中とは無縁の連中だ。心のおけない仲、というわけではないけれど自分について何も言ってこないだけ、彼女にとっては良き隣人たちであった。
水上には一つの波紋もなく、また魚が跳ねるといったこともない。周囲は静かでカラスの泣き声すら聞こえなかった。俗に、閑散としている、という状態だ。人はいるが誰も無闇矢鱈に話すということはしない。大抵が身振り手振りで伝えたいことを伝えるし、それにそれだけで意思疎通は事足りていた。時折バサリという着物などから水分を落とすために着物を振る人間はいたが、それも一瞬ですぐに沈黙が流れた。無音の境地だった。
それは今の彼女の心の中とは相反するものであり、事実として彼女の腹の中、心の中では白河法皇もびっくりなほどに血の川が氾濫し武狂い、その心の中で浮き沈みする相反する感情を飲み込んでは吐き出し、飲み込んでは吐き出しを繰り返していた。それはどこか終着点を求めているようでありながら、流れに逆らおうとはせずずっと浮き沈みを繰り返す。さらにその相反する感情の間を駆け巡るのは言霊という名の魚達だ。かれらは仕切に彼女の感情をかき乱し、その歯のない口をパクツカせながらこれまで彼女が聞いた言葉を復唱していた。
それが耳障りに彼女の心を鈍らせる。終着点に着かせてくれないのは氾濫する血の川もだが、この魚達の言葉も大いに左右していた。「どうして、自分の味方をしてくれない」「あたしに期待しないでよ」「父上は武士の魂を売った」「ヘラヘラ笑って……」「殿上人なんて……」「あんたは……」
「どうして、みんなあたしのことを『特別な人』として見るのさ。あたしはただ、……」
それは彼女の切実な願い。彼女は世の中が面白く、自由な世界であって欲しい、と願っている。しかし、それは彼女自身が『特別な人』であるのをやめたいというものが根底にあるのだ。面白く、自由な世界なら自分を『特別な人』として見る人はいないだろう。誰もが自分をただの人として扱ってくれる。友達とか仲間とかそういうくくりなんてなくしてただの人として。
「なのに……みんな。守るとか、期待しているとか、どうしてもっと頭の中をからっぽにして考えないのさ。そうやって難しく考えるから簡単なことがわからなくなるのよ。もう、やだ。父上も、夕霧も、鱸丸も、みんな、みんな。あたしに……」
「ああ、いたいた。こんなところで黄昏れていたか」
落ち込む彼女を無遠慮に男は覗く。男の表情はどこかスッキリしていて今は特に何も無↑あしいことを考えていないように彼女には見えた。
「あんた。……よくもあたしの前に顔出せたわね。何しに来たの?謝罪でもしに来たの?」
きつい目つきで彼女に睨まれても彼が動じることはない。むしろ鼻で笑うほどに彼女の目つきをバカにしていた。それが彼女には予想外で目を丸くして男の心の中を伺った。これまでそんな態度を見せたことはなかった。彼女には新鮮なことだった。
「謝罪なんてするわけないだろ。俺は何も悪いことはしていない。そもそも、だ。自分の主の暴走を諌めるのは臣下の務めってものだろ。それができなきゃ臣下じゃねぇ。ただのイエスマンだ」
「また未来語でごまかして。あんたさ、あたしの胸ぐらつかんだのよ?それは十分に悪いことなんじゃないの?」
「主が誰かを斬ろうとすれば臣下は止めるもんだろ?その時、主は無礼者と言うか?言わないだろ?なぜならそれが正しい行動だというのを知っているからだ。つまり、俺の行動は是とされて俺がお前に無礼をした、という事実は存在しなーい!」
あまりにも傲慢な物言いだ。しかし、彼女は不快に思うどころかむしろすっきりとした顔になっていた。それはまるで百年来の友人に会ったかのような心持ちで、彼女の血の川の氾濫を止める倒れた樹木のダムができたかのようだった。
「それとさ。お前この前期待するな、とか言ってただろ?期待するっていうのはさ。その人が信頼できるから期待するんだよ。それは名誉だろ?歴史を見れば、期待されなかったヤツが活躍した試しなんてないんだ。それは悪党にも言えることさ。道鏡だろうと、道長だろうと、彼らは特定の人物に期待されたからこそ権威を我が物にできたのさ。それと同じさ。期待されるのは力なんだ。その人がやってやろう、という意気を出すためのな。
それを向けられてるのにいらない、というのはかなりもったいないんじゃないか?期待は金じゃ買えない。例え禍ツ神と取引をしても期待は手に入れられない。まさにプライスレス!素晴らしいことなんだぜ」
「でも、それってやっぱりあたしを『特別な人』として扱ってるんじゃん。あたしはそうやって大切な置物みたいに扱われるのはいやだ」
暗く語る彼女だが、男は止まらない。すかさず次の言葉を放った。
「バカだなぁ。『特別な人』だから期待されるんじゃないんだよ。期待されるに値する人だから期待されるんだよ。そもそも『特別な人』っていうのはなんだ?神様の子供か?お前がそんなヤツなわけないだろ。
確かに俺の知っている歴史の中では重要なポジションさ。でも、歴史に名前が残っている連中全員が『特別な人』だと思うか?ないね。断言するけれど。そもそもお前の言う『特別な人』ってなんなの?家族に守られる人?それともいろんな人に期待される人?あるいは生まれ?――ふざけるなよ。それのどこがお前を『特別な人』たらしめるんだ?
そんなのは見渡せばゴマンといる。なぁ、清。そうやって前を見ることをしないでただ下だけを見る人生はやめろ。逃げるなっていう意味じゃない。前を見ろ、という意味でもない。顔を見ろ。影だけじゃなくて相手の身体全体を見るんだ。それこそがお前が『特別な人』ではない。平清盛という人間だと語るための第一歩だ」
偉そうに男は講釈を垂れる。彼女はそれに静かに耳を傾けていた。すでに彼女の心の中の血の川の氾濫は収まっている。相反する感情の両方が沈み、新しい感情が芽生えていた。同時に魚達はどこかへと消え、語るものがいなくなれば心が鈍らされることもなくなった。
「じゃぁ、まずはあんたを見るよ、夕霧」
そう言って彼女が男に手を差し出した時だ。ヒヒーンという馬声と共に場の空気をぶち壊すような甲高い高笑いが聞こえた。




