月下雑談
その日、結局清が帰ってくることはなかった。一応月が首を45度傾けるまで待ってはみたが、彼女が門の中に帰ってくることはなかった。結局首だけが痛くなるし、さんざんだ。それと今日の昼、忠正に打たれた脇腹がきしみ、それが微妙な痛みを俺に与えていた。身体的にも、精神的にも苦痛しか感じない、本当の意味で最悪な一日だった。
あの後、先に帰っていろ、と言われたがそうするのも気まずかったので一緒に帰ってみれば、忠盛公の惨状に家の人間は言葉を失っていた。全員、まさかこんなことになるだなんて思ってはいなかったんだろう。特に池禅尼なんかは目を覆い、その場で卒倒してしまうほどだった。それ以外の全員が絶句し、それぞれが拳をふわせて自分たちの主をこんな目に合わせた貴族たちへの怒りをつのらせていた。
そうだな。考えるまでもないことだ。彼らだって怒るんだ。清と同じように怒りという感情がある。しかし、彼らは清と違ってその怒りの矛先が歪んでいない。彼らは忠盛公が我慢強く、立場的に反発できないことを知っている。彼らの怒りは先にも言ったとおりに貴族たちへと向けられているんだ。決して、反撃しなかった忠盛公を責めてはいない。むしろ、よくそのような屈辱を耐えられました、と賛美するほどだ。
だが、俺や茜、そして家貞さんは違う。それと清も違った。俺たちはその場の当事者だ。家中の人間からはどうして殿への狼藉を許した、と理不尽な叱責を受けた。特にその場で状況を見ていた俺なんかは忠正から激しく説教を食らった。それも現代日本的なただ怒りを爆発させての説教じゃない。体罰だ、体罰。簡易的な着物に着替えさせられ、木刀を持たされて太陽が沈むまで何度も何度も叩きぬかれた。おかげで脇腹だけでなく、手首や首の骨、ももなども含めて全身が悲鳴を上げている。それでいて打撲程度で済んでいるのだから相当の技量という他ない。
茜は、と言えば平家最強の家人と呼ばれる伊藤忠清が根性を叩き直してやる、と言って木刀を振り下ろすが、目にも止まらない速度で彼の懐に潜り込むと木刀の柄頭でみぞおちをかなり強めに押し付けた。世にも珍しくドポリ、という音がみぞおちから響いたと思えば忠清はよだれを吐き出し、吐血し、その場にもんどり打って倒れてしまった。
これには同じ場所で折檻されていた俺はもちろんのこと、忠正も脱帽ものだ。すぐに使用人みたいなのが来て忠清を連れ出さなければ今頃出血多量で死んでいたのもありえることだ。
この時、俺と忠正が学んだのは「女って怖いなー」ということだ。というか、普通は想像ができない。可憐な少女が筋骨隆々の現役最強の武士をたったの一撃でKOするところなんて。
ちなみに家貞さんはやはり重鎮であるということと、その場にはいなかったということで軽く忠正などからお小言をもらう程度で済んだようだ。それならなんで形式上はその場にいない茜までも折檻の対象になったのか、ということだが、これは単純に茜のバカがあたしも見てたよ、とか言い散らかしたからだ。そのせいでもっと俺は説教させられた。特に院に人を忍ばせるとはどういう了見だ、と院を畏れている忠正からはネットの住民顔負けのバッシングを受けた。
思い返すだけで心がすり減りそうだ。茜がバカやらかしたのもそうだが、清の宴が終わった後に撒き散らした暴言もまた問題だった。家人なら主が暴言を吐く前にお諌めしろ、と言われたがそれは不可能なのだ。清の言葉スロットなんて俺が把握できるわけないし、彼女が怒るのも至極まともだと思う。それに、例え親子喧嘩でも親子が話すのはよいことだ。それがまるでなんの解決になっていないとしても、と現代日本では鍵っ子だった俺は思うのですよ。
「てか、あんたも不運よね。あの後あの無精髭にさんざん叩かれてさ」
縁側の屋根を支える柱に寄りかかる茜がふと俺に話しかけてきた。この時刻ならもう寝ているだろうに、今日はやけに遅くまで起きているな。
「その原因の一端はお前なんだよなぁ。お前が散らなきゃ俺ももう少し身体のきしみがなかったんだけどね」
「それに関しては謝ったじゃん。ごめんねーって。あんたって謝られても許さないタイプ?どこの國の売春婦?」
ひでぇ言い方だ。現代日本でんなこと言ったら間違いなく怒られるぞ。特にある国ではご法度だ。タブーだ、タブー。
「俺男だろ。どうして売春婦。そもそもあんな謝り方で納得するわけがないだろ。俺はアレか?聖徳太子なのか?聖人なんですか?イエス・キリストなんですかー?」
「うんうん、そんな感じ!」
ざっけんな。
あんな國様、神様の下僕に誰がなるか。俺をおちょくっているのか?あいつら感情なんてものがただの人間ロボットだぞ?しかも寛容じゃないし、どこか夢のための犠牲は仕方ない感があるし。歴史の勉強してあの名前が出てくると吐き気がするんだよ。
「それはそうと……。身体大丈夫?」
声のトーンが落ち、少し申し訳なさそうに茜が聞いてくる。月明かりで輝く彼女はいつも見せている生意気な顔はない。どこかしおらしく、いつもとのギャップを大きく感じた。これがいわゆるギャップ萌え、とかいうのだろうか?なるほど、吊り橋効果みたいなものなんだな。
「大丈夫かどうかで聞かれりゃあんま大丈夫じゃないな。結構痛い」
「でも折れてないんでしょ?」
「幸いなことにね。あの人加減がうまいから」
それに終盤はあの人の動きに目が慣れていたからある程度木刀を避けたり、防いだりすることができていたから、ダメージは喰らわなかったからな。
「あたしは一瞬で終わったけどね!」
転じて自慢げにない胸を張る彼女はすっごくうざく感じた。
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