池禅尼語り
白い女性用の化粧を付け、頬は少し桃色。この時代の女性ならよくある化粧の仕方のその麗人は、たとえ化粧などなくともおそらくは年を重ね、年季の入った美人であることだろう。女優の人生は三十路から、四十路から、というのを聞いたことがあるが、それはつまり年を重ねることでより一層美に磨きがかかった、ということだ。この人もその部類の人に違いない。
麗人が着ている着物が明らかに高級調度品だったので、俺は自然と片膝をついて道を譲った。忠正は片膝こそつかなかったが、俺とおなじように道を譲ってペコリと軽く頭を下げた。つまり、家の中での麗人の地位は忠正よりも上、ということだ。となると、この麗人の名前なども俺の平家一門ギャラリーから容易に検索ができる。
「これは、義姉上。こちらにいらっしゃるとは珍しい。一体何の御用でしょうか?」
下げた頭を上げ、忠正はやや遠慮した口調で麗人に話しかける。端々から感じるのは遠慮、だろうか?あの空気を読まなそうな忠正が遠慮しているというのはちょっと驚きだ。言葉を選んでいる、と言い換えてもいい。それくらいに言葉に注意しなければいけないほど、この人は気難しいのだろうか?
「忠正殿、用がなければ私は男屋敷に来てはならぬのですか?」
流れの緩やかな小川のようなとても優しい声だ。母親の声ってどういうの、と言われたら間違いなくこの人の声、と言ってもいいくらいにこの人の声には棘がない。話していて心休まる声だ。それに忠盛公とはまた違った包容感があった。そんな声に嫌味を言われては忠正もちょっとだけ赤面していた。
「いえ、滅相もない……。ただ義姉上がこちらにおいでになることはあまりなかったものですから」
「ずっと、御簾の中にいては身体もなまってしまいます。少しは歩かねばたちまち玉のような身体になってしまいますし、何より私も女性である以上自分の身体が見にくくなるのは耐え難いのです」
「これは、失礼をいたしました。しかし、側女も連れずにおこし召されるのはいささか不用心というものではありますぞ。せめて誰かを伴としてお付けになられては?」
そう言って忠正は横目で俺に視線を送る。何度も執拗に視線を送ってきた。ちょうど三度目に視線を送られたところで、ようやく俺は忠正が俺に伴をしろ、と目で訴えていることが理解できた。そしてその視線に対して俺は目を左右に振って嫌です、と訴えた。しかし、うん、とだけ忠正は頷くと、
「この男を伴としてはいかがでしょうか?この男は兄上より脇差しを与えられるほど信の深き男。さすれば、義姉上をお守りいたすことでしょう。そうであろう、えっと……」
「お初にお目にかかります。私めは昨日の夜、大殿より召し上げられました三条夕霧と申すものにてございます。未だ未熟者なれどお役目を全ういたす所存でございます」
忠正にはそういえば本名を言っていなかったな、と思ってこれを機に俺は名乗ることにした。珍しい名前だな、と忠正はつぶやく。そのセリフ聞き飽きたよ、と俺は心の中でぼやいた。麗人は、ほう、とだけつぶやき、どこからか扇子を取り出す、くちょもとを隠して目を細めた。
「では三条とやら、私はこれより寝屋に戻ります。それまでの道中、伴をしなさい」
麗人はくるりと反転すると、もと来た道を歩き出した。当然俺もそれに追従する。この麗人、忠正が義姉上と呼んでいたことから、多分あの有名な――かどうかは知らんけれど――池禅尼だ。まだ頭は剃っていないから池禅尼、という名前ではないだろうけど、後世において池禅尼と語られる人だということに間違いはないと思う。
そんな歴史的に有名な人の伴をする、というのはある意味では名誉ではないか?
「三条、あれを見なさい」
そんなささやかな名誉を味わっている最中、ふと池禅尼が庭先の木を指差した。春だというのにその木には花は実っていない。枯れたその木はとても寂しく、今隆盛をほこる平家とはまるで対照的に映った。もし、この家の主がただの権威の亡者であったなら、あんな木は切り捨ててしまえ、と言うであろう。
「あの木は八年前以来、まるで実を付けなくなりました。それでも、木は大きく育ち、今や柵を超えるほど大きくなりました」
池禅尼は言葉を切り、微笑を浮かべた。そのやや自嘲気味の微笑の真意がなんとなくわかってしまうから、ことさらこの場にいるのがきつく思えた。
「つまらない話をしましたね。ここまでで結構です。もう下がっても良いですよ」
池禅尼は有無を言わせず、言い切ると俺が踵を還すよりも先に奥の座敷へと歩いていった。
彼女が消えると、俺はもう一度庭先の枯れ木に目を向けた。やはり実などついていない。大きくはあるが、その巨木には生気のようなものは感じなかった。
あの木はおそらく清の弟、平次が落ちたという木だろう。だから池禅尼はあんな自嘲気味の微笑をうかべたのだと思う。
あの人は忠盛公とはまた違った傷を抱えている。あの人にとっての優先順位は多分実の息子の平次だ。しかし、同時に清に対しての負い目もある。
もし、平次がなんらかの事故で死んだ時、あの人は一体どういう反応をするんだろうか?
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