二章番外編 ゴールデンウィーク
東京都に属する小笠原諸島。父島の東側に位置する火山性の無人島、東之島に一頭の地竜が生息していた。
黒色の溶岩に擬態するかのような黒い体色と、ごつごつとした厚い鱗に覆われた皮膚。肉食恐竜を思わせるような頭部は体に対して大きく、首は短い。象のそれのように太くがっしりとした四肢は不毛の大地を確かに踏みしめ、胴体より長い尻尾はバランサーとしての役割を果たして二足歩行も可能とする。退化はしているものの十分な飛翔能力を与える一対の羽も頑丈な鱗に覆われ、まるで大樹を宿しているかのようだ。
時に四月末。夏の陽気を含み始めた日光に照らされ鱗を干す地竜の姿は東之島の溶岩に溶け込み、岩と勘違いした海鳥が額に縦に並んだ三本の角に止まっている。地響きのような振動と共に欠伸をすると、驚いた周辺の海鳥たちが一斉に飛び立つ。それでも間もなくすると戻ってくるのは、その地竜が自分たちに害を与える存在でないということを知っているからだ。
二十年ほど前の調査の際に発見され、オガサワラノコクリュウと命名されたその地竜は、おもむろに立ち上がると海へと向かい、長い尾を使って器用に泳ぎ出した。向かう先は父島である。
父島からは、地竜が泳いで来る様はすぐに観測される。全長約一五〇メートルの巨体がやってくるのだから、補足されるのは島にやってくるどの船よりも早い。そして補足されると、住人は島に住む竜の巫女を呼び、対応に当たらせる。島民も地竜が害をなす存在でないことは知っているが、ただの人間が相手できる存在でないこともまた事実だ。
島民と竜の巫女に出迎えられ父島の東岸に上陸した地竜は、端的に巫女との意思疎通を交わすと、すぐに引き返して行った。
「巫女様、何と?」
立ち会っていた島民の一人が発した問いに、遠ざかってゆく黒色の背中を見送っていた巫女が微笑と共に応じる。
「今日は何日ですか、と」
内容を聞いた島民たちは一様に呆気に取られたような表情をしたが、巫女は微笑を崩さずに視線を海へと戻した。
「そ、それだけですか?」
普段は小笠原諸島の無人島にいる地竜が人の住む父島に来ることは滅多にない。交流の機会が少ないゆえに上手く対応できな島民たちにとっては、温厚な竜と言えど脅威でしかない。加えて体長は五百メートル程度の巨体だ。地竜に悪気が無くとも、島民の生活に支障が出ないとは言えない。島民たちが恐怖を感じるには十分すぎる理由だ。
「ええ、それだけですよ。裕孝様、今日は機嫌が良いのですね。久しぶりに子供たちに会えると、喜んでおられました」
「は、はあ……」
いまいち釈然としない島民たちに背を向けて、巫女は社へと戻って行く。先程交わした声なき会話が印象的で、巫女はもう一度大海原を振り返った。
「限られた時間です。充実した時を過ごせると良いですね、裕孝様」
巫女の独り言は、海風に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。
二日後、西島家。ゴールデンウイーク初日の朝はゆっくりとしたもので、十時くらいから遅めの朝食を摂ることとなった。健吾が軽く調理をし、かがみが皿を並べ、暮月はただ椅子で準備が整うのを待つ。そんないつもの食卓である。
『――――次のニュースです。昨日午後、小笠原諸島北西の海域を北西方向に航行する巨大生物を、周辺を飛行していた海上自衛隊機が確認しました。この巨大生物は周辺海域に生息する大型の竜と見られ、本州へ向かったものと思われますが、現在の所在地は不明となっており――――』
テレビから流れてくるニュースを見ながら、暮月はバタートーストを口いっぱいに頬張る。そして中身を飲み込んだところで、画面に映し出された、自衛隊機が撮影した映像を指さした。
「ねえにいに、あれってもしかして、とうとじゃないん?」
暮月の声に、健吾も顔を上げて画面に目を向ける。映し出されている黒いずんぐりとした竜の姿は、確かに健吾の父親の姿にそっくりだ。小笠原から来るというのなら、ほぼ間違いないのだろう。
「そうだな。帰って来るとしたら、冬休み以来か。あれ? でも……」
健吾は視線を横にずらし、壁に掛けられているカレンダーを見る。新月は明後日だ。かがみもちらりと月齢を確認して、手元のサラダに視線を落とす。よりによってセロリが入っていた。
「なら帰って来れる訳か。ま、あたしのお父さんじゃないからどうでもいいけど」
「またそんな事言ってー。うちは嬉しいんよー。かがみんだってとうとのこと好きなくせにぃ」
「黙らないとあたしのサラダ全部口に突っ込むよ」
かがみが額に青筋を浮かべた時、玄関で呼び鈴が響いた。
「誰だろ」
呟きつつ、健吾は玄関の方へ顔を向ける。連休初日の朝十時に訪ねてくるような人に思い当たる節はなく、健吾は素直な疑問と共に玄関へと向かう。宅配便が来る予定はないし、穹良が来る可能性も無い訳ではないが、まず無いだろうと思いながら玄関を開けると、そこには爽やかな笑顔を讃えた、長身の中年男性が立っていた。
一八〇センチは裕に越す長身のがっしりとした体型に、日に焼けた黒い顔。手入れされていないように見える短めの頭髪はしかし、不潔には見えない。全体的な雰囲気として、その風体は旅人のそれだ。
「よお健吾、久しぶりだなあ!」
体がデカければ声も大きめの健吾の父親、西島裕孝の五カ月ぶりの帰還である。
「おかえり父さん。じゃあやっぱあのニュースは父さんの事だったんだ」
「お、俺ニュースになってんの? 有名になっちゃうな」
何が面白いのかよく分からないが笑う裕孝を、健吾は家に招き上げる。
「そうだ、なんか食い物ある? 長旅で疲れちゃって」
「今飯食ってたところだから、あるよ」
言いながら、健吾は台所の引き戸を開ける。「ただいま」と言いながら裕孝が入って行くと、「おかえり、とうと」と暮月が抱擁で出迎えた。
「ただいま、暮月。お、相変わらず可愛い角生やしてんなあ」
裕孝は暮月の胸に腕を回すと、そのまま片腕で持ち上げて抱きしめる。筋肉質な太い腕に抱きかかえられる暮月の姿は、人間に抱かれる猫と同じ構図だ。
「とうと、また腕太くなったん? 前より包容力が上がってるんよ」
「そうか? そいつは嬉しいな。お前は少し成長したか。前より全体的にむっちりしたようだぞ?」
端から聞けばただのセクハラ発言だが、西島家ではこれが日常である。もっとも、年に数度しか交わされない内容の会話では、日常も何もないのだが。
「それはうちの魅力が増した分量なんよ」
「何が魅力よ。ただ全身に満遍なく皮下脂肪が付いただけじゃん」
それまで黙ってハムエッグを食べていたかがみが、視線はテレビに向けたまま呟く。
「その皮下脂肪のぷにぷに具合で遊んでるのは誰なん?」
「それ以上言ったらあたしのセロリ全部口に突っ込むよ」
もはや健吾も知っている公然の秘密をひた隠しにしようとするかがみが、暮月を睨みつける。と同時に暮月を猫かぬいぐるみのように抱きかかえたままの裕孝と目が合った。
「やっと俺の方見てくれた。父さんのこと嫌いになっちゃったのかと思ったじゃん」
ニヤリと笑う裕孝を見て、かがみは鬱陶しそうに眉を顰める。このウザったい感じはなかなか慣れない。
「年に何回かしか帰ってこない父親の事なんて、嫌いになる前に好きにすらなれないわよ」
「仕方ねえだろ? 普段の姿で来たら自衛隊さんに世話になんなきゃならねえんだからよ。しっかし今年のゴールデンウイークはいいねえ。新月前後五日間が含まれてる。月に五日しか人の姿になれない可哀そうな父親のために、神様が日程を調整してくれたみたいだ」
そう言う裕孝の右頬からうなじに掛けて、古木の樹皮のような黒く分厚い鱗が残っているのを、台所に立つ健吾は横目で見ていた。
高位の地竜の一種である裕孝は、新月の日に人間の姿を取ることが出来る。その性質を何とかコントロールした結果、新月を含んだ五日間は人間の姿になることが出来るようになった、と幸子が言っていた。曰く、何とか家族と過ごせる日を増やそうとした努力の証なのだとか。体表に残る鱗は、なんとか力を抑え込んでいる表れなのだろう。
「で、この五カ月の間に暮月は成長したようだけど」
暮月を椅子の上に座らせてから、裕孝は今度はかがみの傍らに立ち、テーブルに手を突いて顔を覗き込むように体を傾ける。
「かがみはどっこも成長してないみたいだな。成長期だろうに」
頭のてっぺんから足の先まで満遍なく視線を巡らせて、それから胸元を注視する。言いたいことは明白だ。
かがみは仏頂面のまま卓上のドレッシングのボトルを手に取ると、黙って左方向に差し出して手を離した。樹脂製で割れる心配のない大容量のボトルには、たっぷりの赤いフレンチドレッシングが入っている。
重力に引かれた重いボトルは、傍らに立つ裕孝の右足の指を押しつぶし、足の持ち主に鈍い痛みを感知させた。
「――――つぅお!!」
意味を持たない音声を吐きつつ、瞬時に蹲って右足を庇う義父に、かがみは冷ややかな視線を向ける。
「島暮らしのお父さんは、サバイバルの仕方だけじゃなくて年頃の女の子の扱い方も勉強した方がいいんじゃないの?」
「俺、別にサバイバルしてる訳じゃないんだけど……」
一向に引く気配のない痛みと戦いながら、精一杯の反論を口にする。普段は地竜の姿で暮らしているからサバイバル生活ではないし、竜脈から竜力を吸って生きているので食べ物を口にすることは少ない。お口が寂しくなった時には、口を開けたまま海を泳げば新鮮な魚たちを食べることが出来る。以前誤ってナガスクジラを飲み込んだ時には、喉に詰まって死ぬかと思ったが。
「だめだよ父さん、かがみは偏食だし、そのくせ牛乳は毎朝飲むし。もっと他にやることがある――――はぅあ!!」
裕孝用の食事をテーブルに運んでいた健吾が言葉を区切り、皿を取り落としそうになりながら蹲ったのは、卓上にあったもう一本のボトルをかがみが放ったからだ。見事な放物線を描いて落下したボトルの落着地点の下に入り込んだ健吾のつま先に、ボトルの底の角がクリティカルヒットする。ボトルの重量自体は裕孝に投下されたものより軽いが、投げられたことで増大した運動エネルギーが威力を埋め合わせている。
つまりは無茶苦茶痛い。
「かがみ、お前、飯が台無しになったら、どうすんだ」
痛むつま先を両手で包み込みながら、健吾は恨みがましい目をかがみに向ける。対するかがみは、そんな視線などどこ吹く風だ。
「知らないよ。島暮らしには床に落ちた食材くらいでちょうどいいでしょ。それにあたしが欲しいのは身長。この低い視点から脱したいだけ」
フン、と鼻を鳴らしたかがみが食事に戻る一方で、見かねた暮月が健吾の元に寄る。
「ちょっとにいに、大丈夫なん?」
「ああ、ありがと。もう痛みは引いてきたから大丈夫だよ」
「暮月ぃ、俺のことも心配してくれていいんだぜ?」
「にいにが治ったなら、もうとうとも治ってるはずなんな」
「ケチな子にはお土産あげないもんね」
「とうと、大丈夫なん?」
暮月の変わり身の早さに、裕孝は声を上げて笑う。
「いいぞ、素直なのは。その点はかがみも見習ってほしいところだよな」
「心配はしないけど、お土産はちょうだい」
「やっぱその方がお前らしいわ」
もう一度笑ってから裕孝は立ち上がり、健吾が用意してくれた朝食に手を付けようとする。とその時、玄関の鍵が開けられる音がして、足音が入ってきた。
入ってきた足音は台所の前で止まると、勢いよく引き戸を開けて姿を現す。
「たっだいまー! あ、裕ちゃんの方が早かったんだ。お帰りー」
いつもよりハイテンションな健吾の母親、幸子が東京から帰って来たのだ。
「お帰り、幸子」
こちらも五カ月ぶりに再会を果たした夫婦が、互いの存在を確かめるように熱い抱擁を交わす。三人の子どもたちの前でしばしの抱擁を交わして、太い腕に抱かれたまま顔だけを健吾たちの方に向けた幸子が、「ちょっとー、見世物じゃないよー」と言えば、
「あ、うん」
「じゃ外でやれば」
「うちも混ぜてー!」
健吾、かがみ、暮月のそれぞれの返しに裕孝と幸子が声を合わせて笑う。そんな二人の元へ暮月が駆け出し、飛び込むようにして輪に加わる。
家族そろった賑やかな休日が、幕を開けた。




