ある愚かな女の話
回想が度々入ります。
読みにくかったらすみません。
その日、朝に弱いはずのチェーニは珍しく早い時間に目覚めた。
まだ暗闇と言っていい室内、寝台を出れば骨の芯まで凍りつかせるような冷気が肌を刺す。
月明かりの差し込む窓辺へ裸足のまま歩き出したチェーニは、そっとカーテンを引いた。月明かりを反射して青白く光る雪が一面を覆っている。
街の目覚めは遠く、静けさがより寒さを際立たせているようだ。
身体は確かに冷えていた。目覚めしなにガウンも羽織らず窓辺に立つなど、愚か者のすることだ。そうは思うものの、窓の外、街を覆う白を見つめるチェーニの心は嘘のように熱く高鳴っている。
白銀に染まる泉を見るには絶好の日よりではないか。
チェーニは微笑み、右手の薬指にはめられた指輪を見た。
他人から見れば取るに足らない、金銭的には価値など無いに等しい指輪だが、それでもチェーニにとっては大切なものだ。
愛するオルディックから唯一贈られた、大切な指輪。
チェーニは指輪をひと撫ですると、静かに踵を返した。いい加減、暖炉に火をくべなければならない。
ひたひたと冷たい足音を立てながら、チェーニは暖炉へ向かった。
自分の足音であるはずのそれが、不思議と耳元近くで聞こえた気がした。
いつもよりもずっと早く目覚めたチェーニは、待ち合わせの時間よりもずっと早く出掛ける仕度が済んでしまった。
初めは恋人に会う女性らしく、お洒落をしようと意気込んでいたものの、衣装棚を漁り、小さな鏡で無理に全身を確認するうち、早々に諦めてしまった。
オルディックの周囲に集まる女性たちのように、元の素材にも身を飾るものにもチェーニは恵まれていないことに気づいてしまったのだ。
どんなに頑張っても、オルディックが普段接している女性たちのように華やかにはなれない。ならば、チェーニらしい格好をするしか道はない。
結局、生成りのニットに黒のスカート、いつもの赤茶のコートという地味な格好で落ち着いた。
オルディックはせっかくの逢瀬になんて格好だ、と眉を潜めるだろうか。
それを想像するとちくりと胸が痛んだが、チェーニは誤魔化すように指輪を撫で、静かに微笑んだ。
格好が大事なのではない。どんなにみすぼらしい格好をしていたとしても、チェーニのオルディックへの愛は誰に見られても恥ずかしくはないほどに輝いているはずだ。
オルディックが一晩の相手として選ぶ女性たちの愛には絶対に引けを取らない。
彼女たちの愛は、蛇行し、ときにはオルディックを素通りしている。あるいはそれは愛ではないのではないだろうか。
チェーニの愛は真っ直ぐオルディックの元へ向かっている。広く、深く。
愛とは、そうでなければならない。
チェーニは小さく頷き、待ち合わせよりもずっと早い時間に家を出た。
当然、オルディックが先に裏門に着いているはずもないが、気持ちが逸り、自然、雪を踏む足も速くなる。
手袋をし忘れたことに気づいたのは、既に裏門近くまで迫っているときだった。自覚している以上に浮かれているのかもしれない。
さらに、家の鍵を閉め忘れたような、と不安が胸をかすめたが、そもそも盗まれて困るほど財産があるわけでもなく、もちろん金目の物もありはしない。部屋を荒らされて困るのはチェーニだけで、鍵を閉め忘れたチェーニを怒る者も心配する者すらいないと気づき、そのまま振り向きもせずに裏門へと急いだ。
チェーニに家族はいない。
最初からいなかったわけではなく、チェーニがオルディックと出会うずっと前――チェーニが十になる頃までは両親ともそろっていた。
彼らがいなくなったのは、チェーニが十になる頃。二人とも馬車の事故で一度にいなくなった。
後から聞かされた話によれば、それほど速い速度で走っていたわけでもなく、本来であれば大した怪我を負わないはずが、偶然にも二人とも打ちどころが悪く、あっさり逝ってしまったのだという。
わずか十歳にして、チェーニは独りになった。
ただ、チェーニは両親が死んだと聞かされても泣かなかった。
呆然としていたからでも、死の意味がわかっていなかったからでもない。
チェーニには独りになったという実感がなかった。
両親を亡くした悲しみや独りになったことへの恐怖も同じく。
何故なら、両親は生前から、居ても居なくても変わらなかったからだ。
父は奔放な男だった。母の他にも関係のあるらしき女が何人も居たし、また酒が好きでよく飲み歩いてもいた。家に居ることはあまりなく、たまに居てもチェーニは存在しないものとして扱われた。
母は神経質な女だった。他の女の匂いや酒の匂いのする父には絶対に近づかず、いつも部屋のどこかを磨いていた。父への怒りをぶつけるように部屋中の掃除をし、またそれでも治まり切らない苛立ちは直接父へ向かった。
不思議とチェーニが怒鳴られることはない。
父と母の共通点は、チェーニがまるで雨粒になったかのように扱うことだ。肌に触れ視界に入れば僅かに不快に感じるが、乾いてしまえば――見えなくなってしまえば不快に感じたことすら忘れてしまう。チェーニの存在は消えてなくなってしまうのだ。
今にして思えば、チェーニの家に愛は存在しなかったのだろう。
“許し”“受け入れる”ことが無かったのだから、そうに違いないと、チェーニは思っている。
チェーニが街の裏門に着いたとき、雪は既にくるぶしよりも上の方まで積もっていた。
門を出る間際、親切な門番から今夜は大雪らしいから早めに戻る方がいい、と勧められたが、軽く頷くだけでチェーニは気にも留めずに門を出た。門番もまた、美しい泉を見に行く若い恋人同士を何度も見送った所為か、それ以上はチェーニに意識を向けることはなく、自分の仕事に戻って行った。
チェーニは裏門から少し離れた塀に背を預け、はあ、と息を吐き出した。小さな呼気はふわりと白く浮かんで直ぐに消える。
今、どれくらいの時間帯だろうか。
周囲は完全に明るくなっているから、流石に早朝ということはないだろう。
時計もなく正確な時間はわからないが、オルディックとの待ち合わせよりもずっと早い時間だということは明らかだった。
雪の降り積もるような寒空の下、長時間待つことがどんなに愚かなことか。わかってはいるのだが、じっと家にいることもできなかった。
チェーニは手持無沙汰にぐるりと周囲を見渡した。
目の前には色を失った世界が広がっている。
地面は白く、空は灰色、少し先に見える森は白をまぶした茶色だ。
壮大ではあるが、面白みのない光景だ。
思えば、チェーニの見る景色はずっとこんな色彩だった。生まれてから、オルディックと出会うまで――“愛せる”相手を見つけるまで、ずっと。
チェーニは愛を知らない子供だった。
チェーニを飴粒のように扱った両親に代わり、チェーニに愛とはどんなものかを教えてくれたのは、両親を亡くした直後、一時的にチェーニを預かってくれた家の女主人だった。
彼女がいなければ、今のチェーニはいなかっただろう。
彼女の家で過ごした短い間、チェーニは両親の居た頃には感じられなかった新鮮で、驚くようなことをたくさん経験した。
だが何よりチェーニを驚かせたのは、女主人と夫、そしてその子供たちの関係だった。
そこには、チェーニの家には無かったにぎやかさと、温かさがあった。
女主人の子供たちは元気だった。
ほとんど家に篭り切りで、また母の関心を引くことにある種の恐怖を持っていたチェーニはじっとしていることが多かったが、女主人の子供たちは全く違う。
チェーニよりも三つ四つ年下の男の子二人が駆け回り、時には取っ組み合いの喧嘩をしていた。当然、家の中のものを壊すことはしょっちゅうで、綺麗に掃除された床をあっという間に汚すことも日常茶飯事。チェーニの母が見れば、それは恐ろしい形相で怒り狂ったのではないかと、体験したわけでもないのに幼いチェーニは想像した。
だが、女主人は怒らなかった。
叱ることはあっても、怒りとして子供を怒鳴ることはなかった。
駄目なものは駄目だと言い聞かせ、子供たちが反省すれば次の瞬間には大きな口を開けて笑っていた。
チェーニはひたすら、瞬きを繰り返してそれを見ていたような気がする。
女主人に驚かされたことはそれだけではない。
彼女は、夫へもある意味で子供たちと同じように接していた。
ある夜、夫が仕事仲間と飲み明かした早朝に帰宅したとき。彼は盛大に酒の匂いを漂わせ、雪も払わず玄関で大の字になっていた。
物音で目を覚ましたチェーニが静かに居間を覗けば、嫌な顔一つせずに旦那の外套を脱がせ、暖炉の前に引きずって行く女主人の姿が見えた。
酔って唸る夫を宥め、水を飲ませ、風邪を引かないようにと山ほどの毛布を掛けてやって。
酔った夫が一時的に覚醒したとき、女主人に嬉しそうに抱きついていたのも印象的だった。そこに、拒絶されるかもしれないという不安や疑念は一切なかった。
チェーニは一人、薄暗い廊下でそんな二人の様子を呆然と眺め、立ち尽くしていた。
その二人の様子がチェーニの両親とはあまりに違っていたからだ。
チェーニはそれまで、自分の両親の様子に違和感など覚えていなかった。違和感を覚えるほど、他の家庭に接していなかった。
衝撃を受けたチェーニは、よくわからないまま朝を迎えていた。
混乱のまま一日を過ごしたチェーニは、落ち着いた頃、女主人に「何故怒らないのか」「嫌ではないのか」と尋ねた。
そうすれば、女主人はからりと笑ったのだ。そりゃあ怒らないさ、と当然のように。
「愛しているからね」
――愛とはなんだろうか。
それまで愛というものを知らなかったチェーニはひたすら考えた。
チェーニとチェーニの両親には無く、女主人と夫、そして子供たちの間にはあるもの。
“許す”ことだと思った。
愛とは、許すことだ。
相手の嫌だと思うところも、面倒だと思うことも、全てを許し“受け入れる”こと。
それこそがきっと、愛なのだ、と。
そしてまたある日、こんなことがあった。
女主人が掃除をしている最中に勢い余って子供の玩具を壊してしまったのだ。
その場面を見ていたチェーニは、女主人が決してわざと玩具を壊したわけではないと知っていた。けれど、大切な玩具を失った子供は泣き叫び、大声で女主人を「嫌いだ」「どこかへ行って」と詰った。
随分と理不尽なものを見ている気持ちになったが、女主人はただ苦笑するばかりだ。
結局その後、女主人は拗ねてしまった子供を夫に任せ、壊れた玩具を持って、街の外れの職人の元へ向かった。それなりに距離のある職人の元へは往復すれば一日掛かりとなる。
そこまでして女主人は子供のために玩具を直してもらいに行ったのだ。
ところが、女主人が帰宅し玩具を差し出しても、子供は玩具に見向きもしなかった。泣きながら女主人にしがみつくばかりで、玩具など目に入っていないような有様だった。
帰宅して早々、女主人が見せていた疲れた表情を見逃さなかったチェーニが恐々と彼女の顔色を窺えば、そこには憤りの色はなく、むしろ満ち足りた温かな色合いが浮かんでいた。
チェーニには理解できなかった。
嫌いと詰られながらも子供の為に骨を折る女主人の行動も、苦労が報われないにもかかわらず幸せそうに微笑む女主人の気持ちも。
そうしてまた尋ねれば、女主人は言った。
愛とは自分の中にある気持ちで、たとえ相手から同じ気持ちを返されなくても変わらないものだ、と。自分が相手を想う限り、愛は消えないのだと。
それから、子供も本気で嫌いなどと言ったわけではないとわかっているから平気だ、と付け加えるのも忘れなかった。
女主人の家で過ごしたのはほんの短い間だったが、チェーニは大きなものを得たと思っている。
彼女がチェーニに愛を教えてくれた。
チェーニはいつか、女主人のように大きな愛を抱ける人間になりたいと思った。
――そして、チェーニはオルディックに出会ったのだ。
裏門でひたすらにオルディックが来るのを待っていたチェーニの頬を、やがて色の無い氷のつぶてが打ち始めた。
既に昼は過ぎている。
朝以来何も口にしていない腹の虫が鳴りを潜め、灰色の空が重さを増していたが、チェーニは裏門を離れる気にはなれなかった。
風が髪をさらい、指先の熱を奪っていっても、不思議とチェーニの胸の熱は冷めない。
いや、何も不思議なことはない。
何故なら、そこにオルディックへの愛があるからだ。
そうチェーニは信じている。
だが、さすがに何時間も立ち尽くすことに疲れたチェーニは、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
既に雪は膝上近くまで積もっており、腰を下ろせば尻からも冷気が身体を侵す。
指先や奥歯はかたかたと震えていたが、それすらあまり気にならなかった。
ふと、指にはめた簡素な指輪がひやりとすることに気づいて、チェーニは悴む指に苦心しながら指輪を引き抜いた。
そっと両手で包み込み、冷えた指輪を温める。
ふう、と息を指輪に吹き込むようにすれば、目についた自分の手は既に青紫色に染まっていた。
チェーニは馬鹿ではない。
このままこの場所にいても、オルディックはもう訪れないだろうとわかっている。
このままこの場所にいれば、自分はもう家には戻れないだろうこともわかっている。
それでも、チェーニは帰らない。
愛するオルディックとの約束だから。
オルディックにどんな仕打ちを受けようと、チェーニの愛は変わらない。
それが、愛、だから。
今頃オルディックは何をしているだろうか。
また、チェーニの知らない、美しい女性と一緒にいるのだろうか。
チェーニの心に、“許し”“受け入れる”はずの愛にはふさわしくない黒い感情がとろりと溢れる。
チェーニはそっと唇を噛み、再び、ふう、と指輪に息を吹きかけた。
吹き付ける雪が、真っ白な雪が、チェーニの身体を覆っていく。
チェーニは微笑んだ。
チェーニの愛は変わらない。
広く、大きく、許し、受け入れ、真っ白なまま。
尽きることなく終わりを迎えるのだ。